1 / 76
プロローグ
しおりを挟む
あの日のことは、今でもすぐに思い出せる。
今からちょうど二年前の、春には少し冷たい日。星が少なく、月のきれいな夜。
勇者アンリとその仲間たちが、魔王討伐のため、命がけの旅に出る前夜のことだ。
あの日は、勇者たちの旅の無事を祈るという名目で、盛大な宴が開かれていた。
宴の会場である王宮の大広間には、国中から貴族や有力者たちが集まり、勇者の出立を祝って飲み明かしていたはずだ。
私は王宮の中庭で、そんな大広間の喧騒を遠く聞いていた。
宴の明かりも遠く、周囲を照らすのは月明かりだけだ。
それでも、あのときの彼の顔は、不思議なくらいはっきりと覚えている。
「ミシェル。この旅が終わって、無事に帰ってきたら……俺と、結婚してくれないか?」
月明かりの下。私を見つめる彼の表情は真剣そのものだった。
端正な顔は緊張に強張り、青い瞳はどこか不安げに揺れている。
吹き抜ける夜風に、彼のやわらかな金の髪が乱れた。だけどそんなこと、目にも入らない。
「アンリ様……?」
信じられない気持ちで、私は彼の名前を呼んだ。
私の目の前にいるのは、今日の宴の主役。このグロワール王国の第一王子にして、精霊に選ばれし勇者アンリ、その人である。
「き、急にどうされたんです? 使用人の私に、そんなことを言うなんて」
「急にじゃないよ」
動揺する私に、アンリはそう言って首を振った。
それから戸惑う私に歩み寄り、十六歳にしては少し大人びた笑みを浮かべる。
「ミシェル・フロヴェール。僕は昔から、君を使用人とも、ただの幼なじみとも思ったことはない」
アンリとの出会いは、互いに六歳。王子の遊び相手として、私が選ばれたのが最初だった。
あれから十年。ずっと仕えてきた主人の、見たことのない表情に、私は息を呑んだ。
立ち尽くす私の手を、アンリは手に取った。
勇者として旅立つため、剣の訓練を続けた手は、少しだけ骨ばっていて、固い。
「君が好きだ、ミシェル。昔から、ずっと」
「アンリ、様……」
それ以上、私の口から言葉は出なかった。
驚きに思考が止まり、呼吸まで止まりそうになる。
強張ったまま動けない私を見て、アンリは安心させるように笑いかけた。
「返事は今すぐじゃなくてもいいよ」
だから、と彼は続ける。
優しい笑みのまま、強い決意を秘めて。
「だから、待っていてほしいんだ。僕が帰ってくるまで。――君の返事を聞くために、必ず帰ってくるから」
「あ……」
私は小さく息を漏らした。
明日の朝には、アンリは旅に出る。
再び戻れるかもわからない、危険な旅だ。
魔王討伐の旅の仲間は、国中から選ばれた剣士と賢者、祈りの力を持つ聖女。アンリ自身も優れた剣の才能を持ち、他者を圧倒する強い魔力を持っているけれど――それでも、魔王を倒せるかはわからない。
精霊に選ばれても、魔王を倒せなかった勇者はいる。
魔王と刺し違えた勇者も少なくない。
アンリがそうならない保証なんて、どこにもなかった。
だけど、世界を救うための旅に、私が『行かないで』とは言えなかった。
魔王の力は日を追うごとに増し、いずれは世界を覆いつくしてしまう。
それを止められるのは、勇者ひとりだけなのだ。
「ま――」
アンリの笑顔を見上げ、私は震える声を上げた。
私はアンリみたいに笑えなかった。勝手に表情が歪んでいく。泣きそうな顔で、私は祈るように彼を見つめ返した。
「待ちます! ずっと、待っています! だから、どうかご無事で……!」
「ありがとう、ミシェル」
アンリはそう言うと、私の手をそっと離した。
代わりに小指を立て、私に向けて差し出す。
「約束する。絶対に、生きて帰る」
誰もいない、二人だけの中庭。
月だけが私たちを照らす中、そっと指切りをしたことは――二人だけの秘密だった。
その結果がこれだ。
「我が息子、第一王子アンリ。聖女オレリア。魔王を倒したこの素晴らしい日に、二人の婚約を宣言する。今日は盛大に祝福しようではないか!!」
アンリの旅立ちから二年。
無事に魔王討伐を果たし、帰還した勇者たちを讃える宴で、国王陛下は高らかにそう宣言した。
今からちょうど二年前の、春には少し冷たい日。星が少なく、月のきれいな夜。
勇者アンリとその仲間たちが、魔王討伐のため、命がけの旅に出る前夜のことだ。
あの日は、勇者たちの旅の無事を祈るという名目で、盛大な宴が開かれていた。
宴の会場である王宮の大広間には、国中から貴族や有力者たちが集まり、勇者の出立を祝って飲み明かしていたはずだ。
私は王宮の中庭で、そんな大広間の喧騒を遠く聞いていた。
宴の明かりも遠く、周囲を照らすのは月明かりだけだ。
それでも、あのときの彼の顔は、不思議なくらいはっきりと覚えている。
「ミシェル。この旅が終わって、無事に帰ってきたら……俺と、結婚してくれないか?」
月明かりの下。私を見つめる彼の表情は真剣そのものだった。
端正な顔は緊張に強張り、青い瞳はどこか不安げに揺れている。
吹き抜ける夜風に、彼のやわらかな金の髪が乱れた。だけどそんなこと、目にも入らない。
「アンリ様……?」
信じられない気持ちで、私は彼の名前を呼んだ。
私の目の前にいるのは、今日の宴の主役。このグロワール王国の第一王子にして、精霊に選ばれし勇者アンリ、その人である。
「き、急にどうされたんです? 使用人の私に、そんなことを言うなんて」
「急にじゃないよ」
動揺する私に、アンリはそう言って首を振った。
それから戸惑う私に歩み寄り、十六歳にしては少し大人びた笑みを浮かべる。
「ミシェル・フロヴェール。僕は昔から、君を使用人とも、ただの幼なじみとも思ったことはない」
アンリとの出会いは、互いに六歳。王子の遊び相手として、私が選ばれたのが最初だった。
あれから十年。ずっと仕えてきた主人の、見たことのない表情に、私は息を呑んだ。
立ち尽くす私の手を、アンリは手に取った。
勇者として旅立つため、剣の訓練を続けた手は、少しだけ骨ばっていて、固い。
「君が好きだ、ミシェル。昔から、ずっと」
「アンリ、様……」
それ以上、私の口から言葉は出なかった。
驚きに思考が止まり、呼吸まで止まりそうになる。
強張ったまま動けない私を見て、アンリは安心させるように笑いかけた。
「返事は今すぐじゃなくてもいいよ」
だから、と彼は続ける。
優しい笑みのまま、強い決意を秘めて。
「だから、待っていてほしいんだ。僕が帰ってくるまで。――君の返事を聞くために、必ず帰ってくるから」
「あ……」
私は小さく息を漏らした。
明日の朝には、アンリは旅に出る。
再び戻れるかもわからない、危険な旅だ。
魔王討伐の旅の仲間は、国中から選ばれた剣士と賢者、祈りの力を持つ聖女。アンリ自身も優れた剣の才能を持ち、他者を圧倒する強い魔力を持っているけれど――それでも、魔王を倒せるかはわからない。
精霊に選ばれても、魔王を倒せなかった勇者はいる。
魔王と刺し違えた勇者も少なくない。
アンリがそうならない保証なんて、どこにもなかった。
だけど、世界を救うための旅に、私が『行かないで』とは言えなかった。
魔王の力は日を追うごとに増し、いずれは世界を覆いつくしてしまう。
それを止められるのは、勇者ひとりだけなのだ。
「ま――」
アンリの笑顔を見上げ、私は震える声を上げた。
私はアンリみたいに笑えなかった。勝手に表情が歪んでいく。泣きそうな顔で、私は祈るように彼を見つめ返した。
「待ちます! ずっと、待っています! だから、どうかご無事で……!」
「ありがとう、ミシェル」
アンリはそう言うと、私の手をそっと離した。
代わりに小指を立て、私に向けて差し出す。
「約束する。絶対に、生きて帰る」
誰もいない、二人だけの中庭。
月だけが私たちを照らす中、そっと指切りをしたことは――二人だけの秘密だった。
その結果がこれだ。
「我が息子、第一王子アンリ。聖女オレリア。魔王を倒したこの素晴らしい日に、二人の婚約を宣言する。今日は盛大に祝福しようではないか!!」
アンリの旅立ちから二年。
無事に魔王討伐を果たし、帰還した勇者たちを讃える宴で、国王陛下は高らかにそう宣言した。
1
お気に入りに追加
2,895
あなたにおすすめの小説
「僕は病弱なので面倒な政務は全部やってね」と言う婚約者にビンタくらわした私が聖女です
リオール
恋愛
これは聖女が阿呆な婚約者(王太子)との婚約を解消して、惚れた大魔法使い(見た目若いイケメン…年齢は桁が違う)と結ばれるために奮闘する話。
でも周囲は認めてくれないし、婚約者はどこまでも阿呆だし、好きな人は塩対応だし、婚約者はやっぱり阿呆だし(二度言う)
はたして聖女は自身の望みを叶えられるのだろうか?
それとも聖女として辛い道を選ぶのか?
※筆者注※
基本、コメディな雰囲気なので、苦手な方はご注意ください。
(たまにシリアスが入ります)
勢いで書き始めて、駆け足で終わってます(汗
【完結】逆行した聖女
ウミ
恋愛
1度目の生で、取り巻き達の罪まで着せられ処刑された公爵令嬢が、逆行してやり直す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初めて書いた作品で、色々矛盾があります。どうか寛大な心でお読みいただけるととても嬉しいですm(_ _)m
俺の婚約者は侯爵令嬢であって悪役令嬢じゃない!~お前等いい加減にしろよ!
ユウ
恋愛
伯爵家の長男エリオルは幼い頃から不遇な扱いを受けて来た。
政略結婚で結ばれた両親の間に愛はなく、愛人が正妻の扱いを受け歯がゆい思いをしながらも母の為に耐え忍んでいた。
卒業したら伯爵家を出て母と二人きりで生きて行こうと思っていたのだが…
「君を我が侯爵家の養子に迎えたい」
ある日突然、侯爵家に婿養子として入って欲しいと言われるのだった。
悪役令嬢の生産ライフ
星宮歌
恋愛
コツコツとレベルを上げて、生産していくゲームが好きなしがない女子大生、田中雪は、その日、妹に頼まれて手に入れたゲームを片手に通り魔に刺される。
女神『はい、あなた、転生ね』
雪『へっ?』
これは、生産ゲームの世界に転生したかった雪が、別のゲーム世界に転生して、コツコツと生産するお話である。
雪『世界観が壊れる? 知ったこっちゃないわっ!』
無事に完結しました!
続編は『悪役令嬢の神様ライフ』です。
よければ、そちらもよろしくお願いしますm(_ _)m
義妹が勝手に嫉妬し勝手に自滅していくのですが、私は悪くありませんよね?
クレハ
恋愛
公爵家の令嬢ティアの父親が、この度平民の女性と再婚することになった。女性には連れ子であるティアと同じ年の娘がいた。同じ年の娘でありながら、育った環境は正反対の二人。あまりにも違う環境に、新しくできた義妹はティアに嫉妬し色々とやらかしていく。
継母の心得
トール
恋愛
【本編第一部完結済、2023/10/1〜第二部スタート☆書籍化 4巻発売中☆ コミカライズ連載中、2024/08/23よりコミックシーモアにて先行販売開始】
※継母というテーマですが、ドロドロではありません。ほっこり可愛いを中心に展開されるお話ですので、ドロドロが苦手の方にもお読みいただけます。
山崎 美咲(35)は、癌治療で子供の作れない身体となった。生涯独身だと諦めていたが、やはり子供は欲しかったとじわじわ後悔が募っていく。
治療の甲斐なくこの世を去った美咲が目を覚ますと、なんと生前読んでいたマンガの世界に転生していた。
不遇な幼少期を過ごした主人公が、ライバルである皇太子とヒロインを巡り争い、最後は見事ヒロインを射止めるというテンプレもののマンガ。その不遇な幼少期で主人公を虐待する悪辣な継母がまさかの私!?
前世の記憶を取り戻したのは、主人公の父親との結婚式前日だった!
突然3才児の母親になった主人公が、良い継母になれるよう子育てに奮闘していたら、いつの間にか父子に溺愛されて……。
オタクの知識を使って、子育て頑張ります!!
子育てに関する道具が揃っていない世界で、玩具や食器、子供用品を作り出していく、オタクが行う異世界育児ファンタジー開幕です!
番外編は10/7〜別ページに移動いたしました。
[完結]気付いたらザマァしてました(お姉ちゃんと遊んでた日常報告してただけなのに)
みちこ
恋愛
お姉ちゃんの婚約者と知らないお姉さんに、大好きなお姉ちゃんとの日常を報告してただけなのにザマァしてたらしいです
顔文字があるけどウザかったらすみません
【本編完結】捨てられ聖女は契約結婚を満喫中。後悔してる?だから何?
miniko
恋愛
「孤児の癖に筆頭聖女を名乗るとは、何様のつもりだ? お前のような女は、王太子であるこの僕の婚約者として相応しくないっっ!」
私を罵った婚約者は、その腕に美しい女性を抱き寄せていた。
別に自分から筆頭聖女を名乗った事など無いのだけれど……。
夜会の最中に婚約破棄を宣言されてしまった私は、王命によって『好色侯爵』と呼ばれる男の元へ嫁ぐ事になってしまう。
しかし、夫となるはずの侯爵は、私に視線を向ける事さえせずに、こう宣った。
「王命だから仕方なく結婚するが、お前を愛する事は無い」
「気が合いますね。私も王命だから仕方無くここに来ました」
「……は?」
愛して欲しいなんて思っていなかった私は、これ幸いと自由な生活を謳歌する。
懐いてくれた可愛い義理の息子や使用人達と、毎日楽しく過ごしていると……おや?
『お前を愛する事は無い』と宣った旦那様が、仲間になりたそうにこちらを見ている!?
一方、私を捨てた元婚約者には、婚約破棄を後悔するような出来事が次々と襲い掛かっていた。
※完結しましたが、今後も番外編を不定期で更新予定です。
※ご都合主義な部分は、笑って許して頂けると有難いです。
※予告無く他者視点が入ります。主人公視点は一人称、他視点は三人称で書いています。読みにくかったら申し訳ありません。
※感想欄はネタバレ配慮をしていませんのでご注意下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる