短編ア・ラ・モード

ゆぶ

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バスケットボール/ロマンス

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 月は地球を輝かせるために存在している。そういつか、それがぼくの言葉として、後世に語り継がれる日がくればいいなと思う。もちろんぼくはまだ無名で、いまは京都に住み、京都の大学のバスケットボール部に所属している一回生にすぎない。その言葉がぼくのものになるためには、ぼくはスーパースターにならなけばならない。その言葉の意味をぼくに教えてくれた女性がいる。真のエースは、仲間を輝かせるために存在しているのよ、と。


 話は高校時代に遡る。なにかの手違いでかぐや姫は月に帰れなかった。鎌倉生まれの鎌倉育ちである高校二年生のぼくはまずそう考えた。彼女がかぐや姫だと名乗ったその日の夜に。そのことを信じたのかという質問にぼくは納得させられるだけ言葉を持ち合わせてはいないけれど、およそこの世のものとは思えないその凄絶なまでの美しさを見ればきっとあなただって納得することだろうと思う。でもふだんの彼女はそのオーラを完全に消し去っていた。彼女は常にパーカーにジャージ姿で、最新のランニングシューズを履いていて、ポニーテールにした七色に艶めく髪はいつも目深にかぶったキャップ帽で目立たなくさせていた。化粧をする必要のないキメ細やかな透明な肌は、ぱっと見、球体関節人形のそれを思わせた。その無機質さは、見てはいけないものを見てしまったかのように、ほとんど本能的に目をそらさせる効果があった。だから誰も彼女の真の美しさには気づかないでいた。そんな彼女がキャップを取って、ヘアゴムを外し、髪をオーロラのようにふりほどいて、これなら信じるかしらと言ったものだからたまったものではなかった。息を呑むほどの美しさとは、こういうことを言うのだとぼくは思った。無機質さは瞬時に艶かしさに変わった。その生気に忽ち欲情したほどだった。で、さっきの疑問。それを翌日彼女にぶつけてみた。なにかの手違いで月に帰れなくなったのかと。だってみんな、かぐや姫は月に帰ったと思っていると。すると彼女はこう答えた。あのね、そうでもしなきゃ諦めてくれないからよ、と。なるほど、とぼくは言って、つまり結婚したくなかったんですね、と続けた。まあそうゆうことだけど、でもね、そもそもわたし人間じゃないから結婚なんてできないのよ、と彼女は平然と言うのだった。人間じゃない。人間じゃない。ぼくは目の前の彼女をまじまじと見ながらそう呟いていた。夏の夕暮れ間近の、穏やかな海を見下ろせる公園で。


 その話に至る彼女とのファーストコンタクトはこうだった。それは七夕の翌日のことだった。ぼくは県内でバスケの強豪と言われる高校のそのバスケットボール部に所属していた。が、レギュラーではなかった。身長は高くはないし、これといって特別武器になるものも持っていない選手だが、誰よりもバスケットボールが好きだという自負はあった。そうだからバスケで高校を選んだし、レギュラーではない悔しさは大抵そいつで消すことができた。その日も部活帰りだった。土曜日で、練習は昼過ぎには終わった。江ノ電に乗って、実家の最寄り駅で降りた。足はある方角へと向かった。無性にある店のラーメンが食べたくなったのだ。軋む入口のドアを開けて、店に入った。いらっしゃいと、ご主人が言った。カウンター席に、パーカーにジャージ姿でキャップ帽を目深にかぶった若い女の人がいた。ぼくは一瞬、目を疑った。生まれて初めてカラダが輝いている姿を見たからだ。それは店内の年季の入った蛍光灯のせいではなく、ガラス窓から差し込む夏の日差しのせいでもなかった。それをオーラと呼ぶんだろうと、ぼくはぼく自身を納得させるためにそう結論づけた。そしてオーラはゆっくりと消えていった。気を取り直したぼくはご主人にラーメンと言った。はいよ、というご主人の声を聞きながらぼくはテーブル席に座った。店内は三時近かったせいか彼女とぼくだけだった。お待たせ、とご主人が彼女にラーメンを付け台に出した。一杯。さらにもう一杯。彼女は出された二杯のラーメンを下ろして、さっそく食べ始めた。ぼくは連れがいるのかと思ったが、見渡してみてもどこにもその気配はなかった。彼女が二杯目のラーメンを食べ終える頃、ぼくのラーメンができた。付け台に出されたそのラーメンを、ぼくはテーブル席へと運んだ。その時一瞬だけ、彼女と目が合った。その瞳をぼくはギャラクシーだと思った。ぼくが席に着いて食べ始めると、彼女は会計を済ませて店を出ていった。食べ終えて店の前の通りを実家に向かって歩いていると、前方の電柱にもたれている彼女がいた。ぼくが横をうつむきながら通り過ぎようとすると声を掛けられた。
「ねえ」
「はい」
 ぼくは立ち止まった。なんとなくそんな予感があった。いや、期待なのかな。とにかくぼくは立ち止まって、即答気味にはいと言った。それにしても魅力的な声だった。やわらかくて、どこか懐かしかった。ふり向くと、彼女はキャップ帽を少し上げたポーズのまま微笑んでいた。気絶しそうなくらい綺麗だったけど、なんとかぼくは持ちこたえることができた。
「時間あるかしら?」
 と彼女は言った。
「時間なら、死ぬほどにありますけど」
「なら、ちょっとお話ししない?」
「いいですよ」
 ぼくは彼女が導くままにその後を着いていった。着いた先は山の上にある海が見渡せる公園だった。夕暮れ迫る公園は閑散としていた。ぼくと彼女はひとつのベンチに座った。
「もしかして、見えたかしら?」
「なにがでしょう」
「ひかり」
「ああ」
 たぶん、オーラのことだろうと思った。
「見えましたけど」
「やっぱり」
 彼女はそう言うと、指をならした。そのとたん白猫が彼女の膝の上に飛び乗ってきた。真っ白な毛並みが艶やかな猫だった。彼女に撫でられて、猫はとてもしあわせそうだった。猫アレルギーのぼくはベンチの端にそっと移動した。
「猫きらい?」
「きらいではないですけど、アレルギーで」
「さわってみて」
「いえですからぼくは猫アレルギーで」
「さわったら治るからさわってみて」
「あなたに?」
「猫に」
「ああ」
 ぼくは信じてはなかったが、彼女の気を悪くしたくはなかったので、元の位置に戻って恐る恐る猫にさわった。さわった瞬間、ぼくは明らかに呼吸が深くなった。それは驚くほど気分がよかった。
「もう大丈夫よ」
「そんな感じします」
 彼女は小さく笑った。目覚めに聴く小鳥の囀りのようだと思った。
「百年にひとり、ビビッとくる男に出逢うの」
 と彼女は言うと、ぼくを見た。ぼくは、ぼくを自ら指差した。
「そう、あなた。ビビッときたから発光したのね」
「発光」
「あなたが見たひかり」
「オーラですかね」
「いまはそう言うのかな?」
 猫がニャオンと鳴いた。
「そうだよって」
 と彼女が言った。
「みたいですね」
「バスケの選手?」
「はい」
「別に千里眼じゃないわよ。そのジャージ、そのバッグ、高校名からよ」
「へえ~」
「フォワード?」
「はい。詳しいんですね、バスケ」
「一時期ハマってたから」
「へえ……でもまだ補欠ですけど」
「あなたはエースでこそ輝くと思うわ」
「そうですかね」
 猫もニャオンと鳴いて賛成した。
「ほら」
 と彼女は言って猫にキスをした。
「どうもありがとう」
 とぼくは猫に言って、猫にさわろうとするとするりと彼女から抜け出てどこかに走り去ってしまった。猫を追うぼくの視界に、彼女が入ってきた。
 彼女は、ねえどうかしらといった風に首を傾げながら、
「特訓してあげるから、コートにこない?」  
 と言った。
「コ、コート持ってるんですか?」
 とぼくはどぎまぎしながら前を向いて言った。
「持ってるわよ、屋外だけど」
「へえ~」
「明日またこの時間ここへいらっしゃい」
 彼女はそう言うと、立ち上がった。
「あの」
 とぼくは呼び止めた。
「なに?」  
「まだ名前を聞いてなかったなあ、なんて」
「かぐやよ」
 と彼女は言った。
「かぐや姫の、かぐや?」
 とぼくは聞き返した。
「かぐや姫だから、かぐやよ」
 と彼女は答えた。 


 翌日、待ち合わせた公園からコートに向かった。そこは豪邸だった。そこは住宅街からは少し離れた山の麓にあった。住宅というより青少年自然の家といったような印象だった。特訓を始める前にさっきの公園の時みたいに気になることを彼女に聞いた。お金はあるから生活には困らないとのこと。ここにいまは住んでるけど、その前はある企業の研修施設だったとのこと。彼女はうふふと笑って、他には?と聞いた。いまのところは、とぼくは答えた。彼女は着替えに建物の中へと入っていった。コートはテニスコートだったが、古いバスケットボールのゴールが片方だけに設置されていた。コートは建物に面していて、反対側はフェンスになっていた。フェンスの向こうの木々の間から、薄ピンク色の海が見えた。ぼくはゴールを見に近づいた。ゴールのリングは錆び、ネットはほとんど残っていなかった。バックボードは黒板のような板だった。サポートエリアの白い枠はかすれて消えかけていた。そのわずかに残った白線の跡を、ちょうど夕陽がオレンジ色に染め始めるのをぼくはひととき見つめていた。コートのベンチで個人練習用のユニフォーム姿になったぼくのもとに、彼女は七分丈のスポーツレギンスに大きめのTシャツ姿で現れた。長い髪はなぜかツインテールにし、タオル地のヘアバンドをしていた。両手首にはしっかりリストバンドをつけていた。さあ、いよいよ特訓が始まる。オフェンスはぼく。ディフェンスは彼女。1on1。授業はドリブル。ドリブルには自信があった。バスケットボール選手は大抵そうだろう。だからやってるんだし、だから楽しい。部活帰りにさらに特訓を受けるのはしんどいなとは思ったが、彼女に会うよろこびがそれをはるかに上回っていた。まずは、彼女の言葉を承る。あなたがエースとなって魅せる試合に、お客さんたちはだんだん気づき始めるわ。ボールが仲間たちへ、仲間たちからあなたへと運ばれて、勝利する快感と感動をね。本物の輝きだから、人々の心の奥まで届くのよ。そしてそれが、なんなのかを知るの。そうなるためにあなたにはしなければならないことがあるわ。それはいつもバスケットボールのことを考えていること。毎日毎日、繰り返し繰り返し、考えに考えて、それをひたすら練習すること。そうして初めて思考は深くなってゆくのよ。考えて、カラダを動かして、身につくマインド。それがバスケットボールマインドね。その時、アイデアが生まれるの。あらゆるものがあなたに語りかけてくれていることに気づくわ。すべてのものとあなたがつながっていることがわかるのよ。そうなればいつでも感じる合えるようになるから。そのマインドでいるかぎりね。わかるかしら?わたしの言ってること。彼女はそう言うと、ぼくの顔を凝視した。ぼくはそれらをスターウォーズに例えてみた。あなたはヨーダで、ぼくはパダワン。ジェダイの騎士になるためのこれは修行で、フォースを使えるようになるための訓練なんだと。そうね、だいたい合ってるわ、と彼女は言った。ぼくはホッとした。たぶんぎこちない笑顔になっていたんだろう、彼女は少し吹き出して笑った。それから、さあきなさい、と彼女は構えた。コートはいつの間にかライトアップされていた。ぼくは彼女に向かっていった。すると彼女はぼくのドリブルするボールをいとも簡単に奪い取った。完璧な距離だった。ドリブルで抜き去るか、シュートするか、戸惑うほどに。相手を一瞬、思考停止にさせてしまうほどの絶妙の距離感があるなんて驚きだった。思考停止したその隙に、ボールを奪われた。なにもできず、あっけにとられて、かえって気持ちいいほどだった。なんの接触もなく手にあったはずのボールは消え、ぼくは次の瞬間空気をドリブルしていたのだから。はじめて味わう感覚だった。こんな奪われ方はまったくもって初めてだった。そうは言っても、女性だ。甘くみていた。確かにちょっとうっとりもしていたし、そういった意味では油断はあった。あったけどそれで済まされるような奪われ方ではなかった。そこには圧倒的なチカラの差があった。それを認めたくはなかったが、偶然でないこともぼくにはわかっていた。これでも中学からやっていたし、中学の県大会の準決勝までいったチームのレギュラーだった。高校に入っても厳しい練習に耐えていた。現役のぼくが身につけているガード能力をそう容易く破られるはずがない。なのに、彼女きたら。彼女はやわらかな笑みを浮かべ、ボールを脇に抱えて仁王立ちしていた。そこそこドリブルには自信があったから、そのぶん余計にショックは大きかった。まぐれだとか、たまたまだとかというレベルのものではないことがぼくにはわかってしまうから、デート感覚として楽しもうとしていた自分の浅はかな姿勢を激しく恥じた。彼女がぼくに強めのパスをよこした。意識を変えたぼくは彼女に本気で向かっていった。ぼくはあまりにも次々と彼女に簡単にボールを奪われるので、ほんとうに彼女はフォースが使えるんじゃないかとマジで思い始めたほどだった。翌日は彼女がドリブルし、ぼくが奪う側になった。攻守交代しても結果は同じだった。ぼくはボールすらタッチすることができなかった。その次の日はぼくがドリブル。それを繰り返した。そうしたある日、ふいに、あれは「間合い」だと気づいた。間合いのことを調べてみると、すべてが当てはまった。彼女にぼくは気を呑まれていた。構えから、動きを察知されていた。そのことを彼女に言うと、彼女は静かに頷いて、そしてウインクした。彼女はさまざまな構えを見せてくれた。立ち幅、腰の位置、重心。さらには様々なタイプの相手もそこに重なる。身長が高い者、低い者、ビッグマン、俊敏な者。パターンは多岐にわたった。それらに対処する術をぼくはひとつひとつ取得していった。「気」に関しても日を重ねるごとに敏感になっていった。ぼくは自分の間合いというものを次第に掴みつつあった。彼女は相手の気のリズムに合わせることで、相手の心の中に入れるようになると言った。そうなったらさらに相手の気の動きから次の動作が読み取れるようになると。彼女はさらに、相手の気を乱したり、外したり、最初にぼくがされた呑み込んだりする使い方も教えてくれた。一日の特訓は一時間もなかったが、恐ろしく密度の濃い時間だった。彼女が息があがることはなかった。動きは俊敏で、正確で、そして可憐だった。可憐、ぼくにはそう見えた。ぼくも不思議と疲れなかった。むしろパワーが泉からあふれ続けていた。彼女のあらゆる瞬間の顔が、ぼくにやるべきことを教えてくれていた。なにがいけなかったのか、いまのはよかったそれでいいと。そして、彼女から聞こえる規則正しい息づかいが時にぼくを興奮させた。特に夕立は、ぼくをよりいっそう興奮させたりもした。雨に濡れた彼女の髪から飛び散るしずくがぼくの顔にかかって、なんとも言えない恍惚感に浸ったものだった。特訓からの帰り道、遠くに見える夜の江ノ島のシーキャンドルがときたま霞んで見えた。毎日が夢のように過ぎていった。いつの日からか特訓は、彼女とのロマンスのように思えてならなかった。


 特訓一ヶ月後。その日、ついにぼくは彼女を置き去り、シュートを決めた。ふり向くと、彼女は拍手してくれていた。彼女の心の中に入り込めた気がした。彼女はその時をずっと待っていたように思えた。もう大丈夫ね、と彼女は言った。それから、ちょっとつきあってくれるかしら、と続けた。
行き着いた先は、神社だった。
「うっちゃんよ」
 と彼女は言った。
「うっちゃん?」
 とぼくは聞き返した。
「牛若丸のうっちゃん」
「ああ、義経ですね」
「そう」
ぼくたちは源義経公鎮霊碑の前に立っていた。もちろん鎌倉に住んでいるのでこの碑が
藤沢にあることは知っていたが、きたのは初めてだった。
「もしかして、訓練したのはあなたですか?」
 とぼくは聞いた。
「その頃京都にいたから」
 と彼女は答えた。
「ああ」
「がんばったんだけどね、うっちゃん」
「うん、がんばりましたよ」
「無敵だったのよ」
 と彼女は空を見上げて言った。
「弁慶に勝つくらいですもんね」
「あなたにも、弁慶が必要よ」
「ビッグマンのことですね」
「相手はフェイスガードでくるわ」
「ええ」
「あなたに密着してプレイさせなければ勝つもの」
「はい」
「その時、弁慶が必要なのよ。最高のバディで、最高のポイントゲッターになるわ」
「なるほど」
「京都にひとりいるからいってきなさい」
 と彼女は言ってぼくの背中をポンポンと叩いた。
「京都に? バスケの選手なんですか?」
 とぼくは確かめた。
「ええ。五条大橋で学生相手に通せんぼしてるからすぐにわかるわ」
「まるで弁慶じゃないですか」
 彼女はアメリカ人のようなジェスチャーをしながら、
「だからそう言ったじゃない」
 と言った。
「子孫かなんかなんですか?」
「生まれ変わりよ」
「生まれ変わりだからって、同じようなことしてるんですね」
「そうね」
「ひょっとして、ぼくも?」
 とぼくは驚いて彼女に尋ねると彼女は、
「さあどうかしらね」
 と言って信じられないくらい美しい微笑み方をした。
そして、別れは、あっけなかった。ぼくと彼女は握手をし、なにも言わずに別れた。感謝を言ったら、別れを認めてしまうことになると思ったからだった。


 夏休みを利用して、朝早く制服姿で京都へ向かった。午後、京都に着いた。夜まで時間があったので五条大橋の近くのカフェに入った。カウンター越し、マスターに聞いてみた。やはりと言うか、だいたい千人近くはいままで通せんぼをくらっているらしかった。しかしそれも半年も前には近県を巻き込んだブームは去ったらしく、京都の人はまだやってるのかといった感じでいまは微笑ましく見守っているといったような状態だということだった。迷惑行為にならないんですかと聞くと、伝統行事やさかい、とマスターは答えた。それカウントしてるんですかと聞くと、牛若丸が現れた時が千人目やあらへんの、とマスターは笑って言うのだった。ぼくは橋が見渡せる位置を見つけてそこで待った。街灯が点いて、夜になった。歩道の人通りはほとんどなくなった。この時間を避けているのかと思うくらいに。視線をふと川面に移している間に、二メートルはある制服姿の大男が橋の歩道の中央に立っていることに気づいた。間違いなく、あれが弁慶だった。ぼくは五条大橋の歩道の端に立った。気配を感じたのか、弁慶がふり向いた。その風格はとても同じ高校生だとは思えなかった。ぼくはゆっくりと歩いていった。弁慶は微動だにせずにぼくを見つめていた。その距離、五メートルのところでぼくは立ち止まった。弁慶がどこか微笑んだように見えた。歩道の幅は三メートルほど。弁慶の左右にはじゅうぶん抜け切れる空間があったが、左右どちらを選ぶにしろ彼はその選択は見抜いているぞといった不敵な笑みを浮かべていた。フェイクは通用しそうになかった。だったら、あえてバスケットボールスタイルでと、ぼくは透明なボールをつきはじめた。あっけにとられている弁慶を尻目に、ぼくはドリブルしていった。サッとボールをパスした。条件反射なのかそれとも宿命だったのかわからないけれど、弁慶はパスを受け取った。その仕草の隙にぼくは瞬時にすり抜けた。どこからすり抜けたのか、弁慶はキョロキョロとしていた。やがて現実を受け入れた弁慶は名前を聞いた。ぼくは鎌倉の牛若丸だ、と答えた。弁慶は凄まじい雄叫びをあげると、待っとったで、と言った。


 高三になって初めてベンチ入りした。レギュラーメンバーになったわけだ。出場機会はわずかだった。エースを休憩させるための数分間がぼくの出番だった。でも、最高だった。試合に出れることが、なによりも。このユニフォームを着てコートで試合できることが、なによりも。わが校は強豪校なので、高三の最後の試合はウインターカップになる。今年は県予選の決勝まで進んだ。コーチはスタメンを調子が落ちているエースでいくかぼくでいくかで悩んでいるようだった。それとなく、ぼくに心構えをさせていた。でも結局、コーチはエースでいくことに決めた。異論はなかった。チームのみんなも、ぼくも。ただひとり女子マネージャーを除いては。彼女は抗議の退部を敢行しそうだったが、ぼくが止めた。たぶん、バスケットボールの試合をぼくより観ていた彼女だった。あの試合は観たか、しょっちゅうぼくに聞いてきていた。そんなマネージャーだから、説得もできた。辞めたら、チームに悪影響しかない。辞めなければ、チームはいい試合ができる。いい試合を観たいだろ、と。それじゃ勝てないことわかってるでしょ、とマネージャーは反論した。相手はただの相手じゃないのよと。確かにいまやぼくのシュート力は、取得した能力に伴ってエースを上回るほど上達していた。それは誰もが認める周知の事実だった。わからない、とマネージャーはあたまをふった。勝つことが悪いことなの? とマネージャーは聞いた。君はバスケットボールのなにを見てきたの?とぼくは問い質した。マネージャーは口をあんぐりとさせて、言葉を失っていた。マネージャーは辞めなかった。決勝は一進一退だったが、敗れた。エースにボールはよく渡された。託す。それは言い換えれば、信頼。それがいまのぼくとエースの決定的な違いだった。相手が歓喜に飛び上がった瞬間、ぼくの高校生活でのバスケットボールは終わった。その試合の直後に京都の大学からスカウトがきた。ぼくは弁慶と一緒にならと、大学側に伝えた。ブームは去ったとは言え京都では有名人な弁慶だが、無名の高校の選手だった彼はノーマークだったらしく、言われてみれば素晴らしい選手だと彼らは膝を叩いた。すぐさま弁慶と交渉をした大学側はいい返事をもらったらしく、その旨をすぐに学校に連絡してきた。ぼくはそこに決めた。そのことをどこかで知った女子マネージャーは、学校で会った時におめでとうと言ってくれた。ついでに彼女は、いつか男子日本代表のヘッドコーチになるからと、その夢を熱くぼくに語った。君ならなれるよ、とぼくは言った。


 拝啓、かぐや姫様。
 京都にきたことをあなたに報告したかったけど、あの日以来、会えないままだね。それは、わかっていたことだけど。連絡方法もわからない。あの豪邸にあなたはもう住んでいなかった。ぼくに知らせるように、そこには工事予定の看板が立てられていた。世界的な一流企業の名が建築主として書かれてあった。近所の人に聞いたあの土地の歴代の住人も、各分野で名を馳せた人物ばかりだった。それを知ってなんとなく、もう二度とあなたには会えないような気がした。でもどこかで試合を観ていてくれている、そんな気がする。きっと、京都にも家があるんじゃないかなって思う。弁慶をよく見て知ってるんだから、ねえ。綺麗なひかりで照らしてくれたあなた。いまならそのひかりがなにか、ぼくにはわかる。女性の中にしかない、透明で純粋な気持ち。その美しさをあなたは身に纏ったまま、千年の時をこえて過ごしてきたんだよね。その容姿は、その美しさ、そのものだった。笑うかもしれないけれど、満月の夜は泣きたくなるよ。悲しいのか、うれしいのか、それがわからないから、ほんと困ってしまう。でもそんな姿はあなたには見せられないね。さあ、気持ちを切り替えないと。もうじき大学のリーグ戦が始まる。おまじないのようにあなたを真似て、両手首にチームカラーのリストバンドをつけるよ。一回生ながらポイントガードに起用されたんだ。星の数ほどある戦術の中で初戦に魅せるのは、この前流れゆく雲が教えてくれたもの。気に入ってくれるといいんだけど、どうかな。そう、あなたを想うそれだけで、カラダは軽くなり、感覚は冴えわたる。そしてぼくのプレイが、どんなにパワーにみちあふれているかわかると思う。もし勝利すればそれはあなたへと贈るぼくからの花束です。勝利を捧げたいのはあなただけだから。選手を終えて、指導者を終えて、フロントに入ったとしても、あなただけ。結婚し、子供ができたとしても、あなただけ。あの夏の日々からの気持ちを、もう勝利でしかあなたに伝えられないのだから。






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