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こころふわり
しおりを挟むあなたが呼びたいように、好きなように呼びなさいとひいおばあちゃんに言われたので、わたしはひいおばあちゃんのことをおばあちゃまと呼んでいる。
でも最初の頃は、おばあちゃんもその家にはいるので、おばあちゃんが返事することが多々あった。
まぎらわしいと思っていたと思うので、わたしは改善した。
おばあちゃまと言ってる体で「ちゃま」とだけ言うようにした。
それでおばあちゃんが返事することはなくなった。
おばあちゃまも、その呼び方に対して特に何も言わなかったので、いまではすっかりそれが定着している。
おばあちゃまの家は信州にある。
信州、という響きがわたしは好きだ。
ワンピースに麦わら帽子、その手にキャリーケースのわたしは、小海線の小さな駅にひとり降り立つ。
そこにはようやく梅雨も明け、すっかり夏ですよとでも言ってくれてるような空が広がっていた。
わたしは女子大の家政学部に通う身だから夏休みは9月の中旬頃まである。
車窓の風景を眺めながら、今年は夏らしい夏でありますようにと祈っていた。
おばあちゃまの家は老舗の旅館で家族だけで経営している。
土地柄、やはり夏が夏らしくあるとお客さんは多くきてくれる。
旅館はいま、おばあちゃまとその一人娘のおばあちゃんと、一流会社を投げ捨てて養子に入ったおじいちゃんと、おばあちゃんの長男の伯父さんと、そのお嫁さんで元キャビンアテンダントの花織さんとで切り盛りしている。
てんてこ舞いなときには声をかければ地域のご婦人方が加勢にきてくれる。
山々に囲まれた旅館の近くには小川が流れ、少し足をのばせばそこには広い高原があり、小さいけれど湖もある。
そこらはアウトドア雑誌が主催するファミリー向けのイベントなどによく利用されている。
高原ではキャンプができ、川では魚釣りができ、湖ではカヌーができた。
夜になれば空にはすきまのないほどちりばめられた星たちを目にすることもできる。
その星空のもと高原で行われたアウトドア雑誌主催のイベントのひとつであるフォルクローレのコンサートを聴いて以来、わたしはすっかりアンデス地方の民族音楽にはまっている。
そのアウトドア雑誌のスタッフの常宿がうちの旅館で、そのおかげでわたしはその夢のような星空コンサートを体験することができたのだった。
うちの旅館の名物は鯉料理でそれを目当てにきてくれるお客さんも少なくなかった。
さらには毎年この季節には、合宿や登山や避暑目的できてくれるお客さんたちが全国に多くいた。
夏は忙しくなくっちゃ夏じゃないのだ。
だから夏は、旅館は女将であるおばあちゃんと社長であるおじいちゃんと、それから若旦那である伯父さんと若女将である花織さんとアルバイト的存在であるわたしで何とか乗りきる。
そして大女将であるおばあちゃまは、いまも旅館の顔として華麗にタクトをふっている。
そのスクラムはわたしが中学生の頃から続いている。
おばあちゃんとおじいちゃんの長女で伯父さんの妹がわたしの母親になる。
伯父さん夫婦にはこどもがいなかった。
その関係でどうやら未来の後継者としてわたしに白羽の矢が立てられているようだったが、それはまだまだ先の話だった。
ちなみにここ信州でわたしがいちばん好きな食べ物はレタスだ。
そう、こどもの頃、帰省していたときに朝いちばんで、伯父さんと一緒にリアカーをひいて近くの農協へレタスの仕入れにいったものだった。
伯父さんは旅館の経営などほとんど関心がなく、結婚してからは忙しいとき以外は自治会のことばかりやってるような気ままな人だけど、わたしはそんなおおらかな伯父さんが大好きだった。
うちの母親も、兄のどこかとぼけたようなその自由さに何度か救われたことがあったと声をつまらせながら話してくれたときがあった。
それは確かクリスマスの日だった。
わたしが小学6年生のときのこと。
伯父さんから初めてのクリスマスプレゼントが届いた。
百科事典だった。
おそらく何十万もする大百科事典。
それで、伯父さんらしいね、という話になった。
それから父はそれらをリビングに置けるようにえらく重厚な本棚を購入し、それにあわせるようにして母が内なる美しさを感じるから好きだという北欧デザインのソファーを新たに取り寄せるという展開となった。
そうそう、旅館では何年間か夏のあいだアルバイトを募集していた頃があって、そのときやってきたのが大学生だった父だった。
父と母の運命的な出逢い。
とは言っても、父がまず仲良くなったのは伯父さんだった。
父と伯父さんはいまでもふたりで大型バイクでツーリングに出かけるほどの仲で、そんなふたりをそばで見ていた母が父を好きになるのはまあ自然な成りゆきだったんだろうなとわたしは思っている。
父は大学を卒業するとローカルテレビ局に入社した。
父はこどもの頃、土曜日の午後に放送していたその局制作のローカル番組をいつもたのしみにしていたそうだ。
なんてことはない地方によくある地元密着型の情報番組で、そのなかのあるコーナーでは毎週のように新人のミュージシャンがゲストとして登場して歌っていたらしい。
かれらはガラス張りのスタジオの一画で歌っていたそうだが、そのガラスの向こうにある景色が父はたまらなく好きだったとのことだった。
「それが理由?」
わたしは父になぜその局に入社したのかと尋ねたときにそう聞いた。
「そう」
と父は答えた。
父は、あんなにいつ見てもこころがふわふわする景色にはほかに出会ったことがない、と言った。
「どんな景色なの?」
「庭があって、街路樹があって、向こうに山があって、空があった」
「ふつうじゃない」
「人によってはね」
「パパにとってはふつうじゃなかったのね」
「特別だったよ。あの景色をいつも見ていたいと思った」
「見れてるわけね」
「そうだね」
「そこの近くに住めばいいのに」
「そのスタジオからの景色じゃないと意味がないんだよ」
「なんで?」
「あるニューミュージックの新人歌手がそのとき歌った曲とその景色。そのとき感じた気持ちが、それからの人生で大切な人たちに出逢わせてくれたからだよ」
「そのときの気持ちを忘れたくないのね」
「うん」
「気持ちが、出逢わせてくれるの?」
「おなじ気持ちを持ってる人に、必ずね」
「わかるの? 出逢うと」
「ふわふわするからね」
「ふ~ん」
「そういう瞬間があった、ああいう番組をまたつくりたいと思ってね。内容はたまらなくアットホームで、歌は夢を追う好きだった人にエールを送ってる歌でね」
そして父は、入社した翌年に母にプロポーズした。
そうして誕生したわたしは、リビングにいるときはテレビはほとんど見なくて、いまなおラブラブな両親を目の端にとらえながら、そこでは百科事典ばかりを読んで過ごしていた。
なので、百科事典が愛読書となったわたしは、必然的に家族と過ごす時間が増えるかたちになった。
そのせいでわたしのなかに、これからの時代をいかに生きるべきなのかというたいそうな命題が生まれた、のだと思う、たぶんだけど。
旅館でおばあちゃまたちと過ごした日々が、住環境のあり方と地域とのつながりの重要性を意識させ、その命題との組み合わせでわたしを家政学の分野へと向かわせたのだと思っている一方で、そうゆう風に仕向けた誰かさんの思惑どおりになっているのかもしれないなという微かな疑問もどこかで思ったりもするのだけれど、進路についてはわたしはまったく後悔はしていなかった。
誰かさんこと伯父さんによって仕入れられた朝とれたてのレタスは、ほんとうに格別でほんとうにいくらでも食べれた。
レタスにかつおぶしをかけて、ほんの少ししょうゆをたらす。
それを口に入れたときほど日本人に生まれてよかったと思えた瞬間は、わたしの短い人生においてそのとき以外にはまだない。
いまでも旅館に近づくとまずわたしはレタスの口になるほどだ。
旅館は本館と別館に分かれている。
別館の一室がわたしが夏のあいだ泊まる部屋になる。
すぐそばを流れる小川のせせらぎがたえず聴こえる部屋。
その旅館までは駅から村営バスで20分ほどかかる。
わたしは改札口を出た。
待合室にはひとりだけ、おなじ歳くらいの青年が壁際のベンチに座っていた。
バス停に行く。
時刻表を見る。
スマホを出して時刻を確認した。
つぎのバスまで30分ほどあった。
それにしても陽射しが容赦なかった。
わたしはひきかえして、駅舎の待合室の入口の脇にある窓際のベンチに座った。
改札口の時計を見た。
午後1時07分。
それから青年のほうに目をやった。
青年は白い半袖のシャツにカーキのチノパン姿で、肩から白い帆布のショルダーバッグをかけたままそれを膝の上に置いていた。
青年がふとこちらを見たので、わたしは目をそらした。
髪は短かったが青年によく似合っていた。
切ったばかりといった感じではなかった。
その髪型はそれ以外は似合わないといってもいいくらい彼の顔になじんでいた。
「セミの声がしませんね」
と、青年が言った。
気のせいか、イントネーションが今風ではないように聞こえた。
彼は前を向いたままだったので、それはわたしに投げかけられたのか、それともひとりごとだったのかわたしは判断がつかずにかたまっていた。
「ほんとうに懐かしい」
ああ、外国生活が長かったからちょっとイントネーションがちがって聞こえたのかなと、わたしは考えた。
そうゆうことならと、わたしはとりあえず小さくうなずいてみた。
「一日千秋の思いです」
誰かを待ち望んでいるってことね。
「あのときも夏でした」
わたしはわたし以外に誰かいるのかと念のため見渡してみた。
誰もいなかった。
待合室には。
きっぷうりばには委託の駅員さんがひとりいたが、あきらにわたしのほうが近いし、それに駅員さんの姿は待合室からは見えなかった。
「あれは何と読むんですか?」
青年は壁の看板を指さして言った。
わたしはその指さした看板を見て即座に答えた。
「ああ、風和里旅館です」
「ふわりと読むんですね」
と青年は言ってうれしそうに微笑んだ。
どこかで会ったことがあるような微笑みかただった。
「もともとひらがなだったのを漢字にしたんです。確か昭和50年くらいに。あっ、わたしはそこの親戚のものなんですけどね」
「そうでしたか。とてもすてきな漢字ですね」
「そのおかげでずいぶんお客さんが増えたって言ってました」
「名前は大事ですね。日本の持つ美しさのひとつが名前だと思うんです。いろんな雨の名前。
いろんな空の名前。いろんな色の名前。綺麗なものがこの世界にはあふれているんだと気づかせてくれます」
「なるほど」
確かにそうかもしれない。
「失礼ですけど、あなたのお名前は? あなたのお名前が知りたくなりました。もしご迷惑でなければですが」
「いえ、かまいませんよ。藤崎和音です」
「かのん、さん」
「はい」
「どういった字を」
「平和の和に音です」
「へえ~。美しいハーモニーのメロディーが聴こえてきそうですね」
「ありがとうございます。あっ、あなたは」
「東雲一郎です」
「しののめって、東に雲でしたっけ」
「そうです。夜明け前、茜色に染まる空のことです」
「美しい名前ですね」
「ありがとうございます」
「ふわりって、何か由来があるんでしょうかね?」
「ええ。もとは名前の不破からきているらしいんですけどね。旅のイメージで、ぶらりとかふらりとかあるから、そこからふわりもいいかもってなったみたいで。気軽に、身軽にきてほしいという気持ちと、こころがふわりと軽くなって帰ってほしいという願いが込められているんです」
「素晴らしいですね。名前の美しさには美しい願いが込められているものですね」
「そう言っていただけるとうれしいです」
「立派な旅館のようですね」
看板には旅館の外観の写真もあった。
「でも最初は、ひいおばあちゃんがほんの小さな宿から始めたんです」
「そうですか。苦労されたんでしょうね」
「みたいです」
そのときアナウンスが流れて、今度は上りの列車が到着した。
乗車する人はいなかった。
下車し、先に改札口を出てきたのは制服姿の女子高生だった。
女子高生は脇目もふらず駅舎を出ると通りを歩いて去っていった。
だいぶ遅れて出てきたボストンバッグを下げた背広姿の中年の男性は、わたしを見るやいなや立ち止まって、おう、と言った。
わたしはまるで見覚えがなかったけれど、その人にはあったようだった。
「和音ちゃんじゃなかとね」
「どうも」
名前を呼ばれたらそう答えるしかない。
「わかると?」
「あっ、ごめんなさい」
「白衣着てないと誰だかわからないってよく言われるたい」
「あれ?」
「ほう」
わたしは立ち上がった。
「先生ですか?」
「イエス」
「博多弁でわかりました」
「そこね」
と先生は大笑いした。
「昨年はほんとうにありがとうございました」
わたしは深々と頭を下げた。
「よかよか。あのあとおなかは大丈夫やったとね」
「おかげさまで、すっかり」
「食べすぎはいかんよ」
「えへへ。こちらにくるとつい」
「なん、手伝いね」
「はい」
「カズさん、よろこぶたい」
「いつも看ていただいてありがとうございます」
「うむ」
少し先生の表情が曇ったように見えた。
「何か?」
「カズさんに元気な顔みせんとね」
「はい」
「じゃ、またね」
「はい」
先生は駅舎を出ると、停まっていたスポーツカーに乗り込んだ。
スポーツカーは通りに出ると、スピードをあげて走り去っていった。
駅舎の入り口から頭を下げて見送ったわたしは待合室にもどった。
青年が笑顔を向けた。
わたしも笑顔を返した。
わたしはもといた場所に座った。
やがてバスがやってきたとわかる音が聞こえた。
座ったままふり向いて、開け放たれた窓からのぞいて確認すると反対方向行きのバスで間違いなかった。
お互いに大きなリュックを背負った三十代くらいのご夫婦らしい知的な雰囲気を漂わせたふたりがバスから降りてきた。
ふたりは駅舎の表の入口の脇に設置されたベンチにリュックを肩から降ろしながら並んで座った。
ふたりとわたしとはちょうど窓をはさんで背中合わせになるかっこうになった。
「それにしてもすてきだったわね、風和里旅館」
と女性。
「そうだね、すてきなお土産までもらって」
と男性。
「わたしはもらってないけど」
「思い出としてね」
「うふふ、冗談よ、わかってるって」
「きみは何をもらった?」
「そうね。そう。音楽かな。ふと耳をすませばせせらぎを伴奏にして、ときおりガラスの風鈴と鉄の風鈴がまるで恋人のように呼応しあっていて、何か、特別な音楽を聴いているみたいだったわ」
「特別な音楽か、言い得て妙だね」
「あなたは?」
「やすらぎかな」
「わかる。それも特別だった」
「うん。あれはこころの底からのやすらぎだった。それって、きみの特別な音楽に通じるものなんだけどね。あれはある特別な気持ちからくるものだと思うよ。あの建物に宿っているたたずまいというものはね」
「ある特別な気持ち」
「そう。キレイにするなら汚れるものだよ。どうしてもね。それはひたむきに生きれば生きるほど汚れてゆく。でもそのたびに原点であるその特別な気持ちにもどってゆけば、そのときにはその気持ちを守る強さもそれにかさなってゆくと思うんだ」
「どうしてそんな風に思ったの?」
「旅館の廊下さ」
「廊下?」
「うん。黒光りした風情あるあの廊下。あれは時を経ないと手にすることができない美しさだよ」
「毎日毎日手入れして得た輝きは、堅固さをも感じる」
「その通り。そうして生まれた強さは耐久性を備えたものだからね。いろんなお客さんがいたと思うよ。それがわかるおもてなしの数々だった。風が立てる音もふくめてね。だからこそ、こころからやすらぐことができたんじゃないかな」
「あのおだやかさにふれていることは大事なことね。だから特別な音楽も聴くことができたのね」
「それこそ日本のあるべきたたずまいのような気がするな。輝いて見えるのなら、それは純粋無垢なキレイさからではなく、ひたむきに進んだゆえのキレイさからなんだとね」
「そうであれば、まわりは聞く耳になっていく」
「ぼくはそう思うよ」
「だとするならわたしたちはまだまだね」
「そうだね」
「さしあたって、フローリングぴかぴかにしたいわね」
「いい考えだね」
「じゃあ、よろしく」
「ん?」
「ワックスがけ」
「ああ」
「ぴかぴかにしてくれたら掃除も楽になるわ」
「そうだね」
「そしたらわたしは気分もおだやか~になって、あなたもやすらげるのよ」
「なるほど。結局は自分のためだよね」
「そうゆうことね」
「よ~し! がんばるぞ~!」
「まったくこころがこもってない」
「あははは」
青年がとてもうれしそうにふたりの話を聞いていた。
そしてふたりの話はこれから向かう場所へと話題が移っていった。
下りの列車の到着のアナウンスが流れた。
ふたりはふたたびリュックを背負い、それから改札口を抜けていった。
翌朝、おばあちゃまは旅立った。
眠ったまま、目覚めなかった。
その日の午後、母と父が駆けつけてきた。
そしてその夜、わたしはおばあちゃまの恋の話をおばあちゃんとした。
深夜近く、縁側にわたしとおばあちゃんは並んで座っていた。
いつものように、夜空には満天の星が輝いていた。
「ひいおじいちゃんの話はあまりしなかったわね」
「うん。戦争から帰ってきたら結婚する約束だったって」
「そうね」
「でも相手が誰なのかは口を閉ざしたままなんだよね」
「ええ」
「聞けないよね、それ以上」
「昨日、東雲って名前の人の話したでしょ」
「うん。何だかずっと気になってて。それに懐かしいって言ってたからここの人かなって思って」
「知らないふりをしたけどね」
「えっ」
「それが、ひいおじいちゃんの」
「えっ」
「もしかして、東雲一郎って」
「ひいおじいちゃんの名前よ」
「まさか」
「そう名乗ったのよね」
「うん」
「迎えに、たぶん」
わたしはあの青年の言葉がそのことを意味していたんだと悟った。
信じられないけど。
それをわたしはそのまま口にした。
「信じられないけど」
「あなたが名前を知ってるはずないもの」
「そうよね」
「でもその人だって、まわりは何となくわかってたみたいなの。だから、その名前がわたしのなかから一瞬たりとも消えることはなかったわ」
「そうだったんだ」
「だけどお母さん、とうとうさいごまで名前は言わなかった」
「何で言わなかったんだろう?」
「約束だけで、結婚していないのにわたしを身ごもっていたことで、相手の家に傷がつくことがどうしても嫌だったんだとわたしは思うの」
「それで言わなかった」
「ええ」
「身ごもったのは自分の責任だということ?」
「そう」
「そんな。せめて籍だけでも入れることできなかったの?」
「わたしもそう思って調べてみたことがあったんだけどね。特例としてあったみたいなの。戦時中ということでね。でもそれは相手の結婚する意思が手紙とか申請書とかの書類で証明された場合のことで、お母さんの場合それは難しかったんじゃないかって思うのよ。たとえできたとしもお母さんしなかったでしょうしね。だって特定することになるわけだから」
「それって彼の名誉のため?」
「それもあったでしょうけれど、それだけじゃない気がするわ」
「どうゆうこと?」
「生きて帰せなかった自分が、ふさわしくなかったんだと」
「そう言ってたの?」
「一度だけね、父親が不明なことをなげくわたしにね、自分だったから帰ってこれなかったって。だから恨むならわたしだけを恨みなさいってね」
「それが昨日のわたしの話ではっきりしたのね」
「ええ。ふしぎな話だけど。あなたを通じて知らせてくれた気がする。たとえ娘であっても自分の口からはけっして言わなかった父親の名前を、どうしても伝えておきたかったのね。あなたがくる日をえらぶようにしてね。そうしたのは、すべきではないことのメッセージだと思うの」
わたしは夜空を見上げた。
流れ星がひとつ、それからもうひとつ流れた。
「おばあちゃまの願いがわかったような気がする」
「そう」
そのときわたしは決心していた。
わたしの名前に紡がれてきた祈りを受け継ぐことを。
バトンを渡されたらわたしはそのバトンをしっかりと握りしめようということを。
そのときのためにちゃんと大学を出て家庭科の教師になり準備をしておこうと。
「ねえ、どんな人だった?」
「ひいおじいちゃん?」
「うん」
「こころがね、ふわっとする人だった。わたし思ったの。旅館の名前、ふわりってほんとうは、ひいおじいちゃんと一緒にいるときの、おばあちゃまの気持ちだったんじゃないかってね」
おばあちゃんは両手で顔をおおって、声を殺して、しばらく泣いた。
わたしはそっと、おばあちゃんの背中に右手を添えていた。
駅で出逢った青年の微笑みを、わたしは思い浮かべていた。
あの言葉は、待ち望んでいるのではなく、ずっと恋慕ったままでいるっていう意味だったんだよね。
きっと、自分のぶんまで生きてほしいと思っていたでしょうから。
きらめく夏の陽射しのなか、あの頃の姿に戻ったおばあちゃまとふたり、プラットホームのベンチに並んで座って楽しそうに話している光景をわたしは想像していた。
おばあちゃんは落ち着くと、わたしの膝をありがとねと静かにポンポンとたたいた。
わたしは右手を離した。
「ごめんねおばあちゃん。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「ううん。いいのよ」
おばあちゃんはハンカチを出して涙をぬぐうと、おおきく息をついた。
そしておばあちゃんは言った。
「あのね」
「うん」
「お父さんの家の人も、この地域の人たちも、ものすごくお母さんを支えてくれていたことは忘れないでいてほしいの」
「うん。あっ、そっか。伯父さんはその恩返しをしているのね」
「旅館そっちのけでね」
「かっこいいじゃない」
「そう?」
「そう思うな」
「ふ~ん」
「本格的にそうなったのは結婚してから?」
「そうね。それまでは和彦と里和、あなたのお母さんがいたからね、ずいぶんと楽だったわ」
「そのかわりいま花織さんが大変よね」
「ほんと頭が上がらないわ、花織さんには」
「でもいつ会ってもしあわせそうなのね」
「そうよ」
「ねえ」
「ん?」
「やっぱり伯父さんって感受性が豊かで、それをカムフラージュしてるんだよね」
「そうね、カムフラージュというより、和彦は自然とそう振る舞うようになっていったように思うわ。そうすることで人々のなかにすうっと入ってゆけて、そう、こころをふわりとなごますことができるのよ、きっと」
「それが伯父さんにとって、大事なものを守るかたちにもなってるのね」
「そう思うわ。木はみずからを守るために黒く変色することもあるって聞くわ」
「へえ~。あっ、廊下。黒光りしてるここの廊下」
「ああ。でもあれは人が長い時間をかけて磨き続けてなったものね」
「そっか。そう言えばお父さん、この旅館と言えばまずあの廊下だって話してた。考え方とか共鳴し合うものがあったのかな、伯父さんとお父さん」
「おそらくお互いの感受性の部分でもね。よくバイクで出かけるのも、季節がめぐりゆく美しさを感じるためだって言ってるわ。季節に向かう風をからだいっぱいに感じたいからってね」
「季節に向かう風か。いいな。それにひきかえわたしは感受性がとんとあれだから、伯父さんみたいに出逢いが多いってわけじゃない」
「大丈夫よ。あなたは両方の血を受け継いでいるんだから、磨けばそりゃもうすんごいわよ」
「おばあちゃんったらやだ」
「あら」
わたしたちはクスクスと笑った。
それから静寂が訪れ、なぜかわたしはふと博多弁の先生のことが頭に浮かんで思い出し笑いした。
「なあに?」
「ううん。いまなぜか診療所の先生のこと思い出しちゃって」
「楽しい人だものね。ああ。知ってる? 何で福岡に住んだこともないのに博多弁しゃべってるのか」
「何となくおかしな博多弁はそのせい? えー、知りたい知りたい」
「先生の大学時代からの親友だった人が福岡の出身でね。その人は若くして病気で亡くなったらしいの。その人の口癖がよかよかでね。先生、その人の言うよかよかが大好きでね。おおらかで親しみがこもったその言葉を、こんどは自分が誰かに向かって言ってあげたいからって、そう」
「そう、おばあちゃんに話したの?」
「先生のいまの若い彼女さんがね」
「ああ。ひょっとしていまの若い彼女さんってスポーツカー乗ってる?」
「乗ってる。和彦のとこによく訪ねてくるのよ、走りがどうのこうのって」
「へえ~。でもまるまる博多弁にしなくても」
「よかよかだけでは唐突すぎて想いが伝わらないからって」
「それもいまの若い彼女さんが?」
「そうなの」
「そうなるくらい好きで、そうしたいほど一瞬も忘れたくない人なのね」
そこへおじいちゃんがやってきた。
「美和さん、ちょっといいかい」
「はいはい」
おばあちゃんはそう言って立ち上がった。
「和音ちゃん、あとはいいからね、もうやすみなさい」
とおじいちゃんは言った。
「うん」
とわたしはおおきくうなずきながら言った。
ふたりは客間のほうへと消えていった。
わたしはひそかに思っている。
この旅館でいちばんしあわせそうなのは、おじいちゃんなんだって。
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