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一章

9、ヤカン、うるさい

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 ヤカンから湯の沸く音が聞こえた。だが、俺は腕組みをしてうつむいたままだった。
 ああ、昨夜の続きがしたい。いや、そういう意味じゃなくて。キスの続きでいいんだ。
 レナーテと二人で寄り添って、彼女を腕に閉じ込めて。そして……。
 いや、朝から何を考えているんだ。

「エルヴィンさま」
「別にやましいことなど……」
「あの、エルヴィンさま。これを」

 耳に聞こえる声が、現実のものと知って俺は慌てて顔を上げた。肩越しに振り返れば、すでに服を着た(ああ、もったいない)レナーテが、俺にシャツを掛けようとしている。

 彼女にシャツを貸したから、上半身裸の俺を案じたのだろう。

「風邪を引いてしまいます。どうかシャツをお召しになってください」
「その為に、わざわざ?」

 騎士団で副団長を務める俺は、体を鍛えている。少々のことで風邪を引いたりしないのだが。それでも彼女の気持ちが有り難かった。
 彼女の手からシャツを受け取り、袖を通したところで少ししゃがみ込む。

「そうだな。レナーテにボタンを留めてほしい」

 シュンシュン、という湯の沸いた音と、ヤカンの蓋が小刻みに震えるカタカタという音。その賑やかな台所で、レナーテは瞬きを繰り返していた。
 そして「はい」とうなずいて、ゆっくりと俺の襟元に手を伸ばす。

 今日の彼女は、琥珀色の髪をゆったりと結んでいる。瞳は紫水晶を思わせる美しさ。それに初々しい、白いワンピースをまとっている。
 ああ、まぶしい。君は俺には眩しすぎる。

「エルヴィンさま。どうかなさったんですか?」

 右手で両目を押さえる俺を、レナーテが覗きこんでくる。だめだ、そんな風に近寄っては。たとえ不愛想で強面でも、心は岩でできているわけではないんだ。
 しかも、ぎこちない手つきながらも一生懸命にボタンを留めてくれるものだから。

「く、苦しいです」
「はっ。俺は何を」

 本当に俺は何をしているんだ。気づかぬ内に両手をレナーテの背中にまわして、ぎゅううっと抱きしめていた。
 しかも、離そうとするのに俺の手は主の意思とは反対に、さらにレナーテを腕の中に閉じ込める。

 ヤカンの蓋が、カタカタカタとさらに激しく音を立て。早く火から下ろせと要求している。

「ボタン、留め終わりましたよ。あの、一番上は開けているんですけど、そのままでいいですか?」
「ああ、ありがとう」

 俺の胸に両手を添えて、レナーテが見上げてくる。
 まだ学生の……少女の雰囲気が残っている。
 しかも厳しい教会学校だ。恋もせぬまま、男に触れられることもないままに、俺に嫁ぎ。キスだけと約束しながら、堪えることが出来ずに唇だけではなく全身にくちづけをしてしまった。

 大事にしよう。俺の花嫁だ。あなたの花を急いで散らしてしまっては申し訳ない。
 義務や諦めから俺のことを受け入れるのではなく、俺を心から好きになってほしい。

 誰かに対してこんな気持ちを抱いたのは、生まれて初めてだ。
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