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12、その後のブレフトとヘルダ
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この国で初めて、妻から夫への離婚が成立した。
離婚から数か月が経った十月。クラーセン家の庭は手入れをする者もいなくなり、荒れ果てている。
ブレフトはたったひとりで屋敷に残っている。
史上はじめて妻に捨てられた恥知らずで愚かな伯爵に、仕える者などいない。
洗濯などしたことがないから。ブレフトの着ている服は垢じみて、汚れている。掃除などしたことがないから。屋敷は貧民窟のように荒れて饐えた臭いがする。
料理などできるはずもないから。ただパンとチーズとハムを買って食べるだけの生活だ。栄養状態は悪く、病気ばかりしている。
「なんで、風邪がひと月以上も治らないんだろう」
夏が終わり、朝晩は涼しい風が吹くようになった。急に気温が下がる日もある。
なのにブレフトは夏の服を着続けた。これまでは使用人が季節ごとに衣替えをして、きれいに洗濯して片づけてくれるのが当たり前だったから。気づかなかった。
風呂に水を運ぶことも、沸かすこともできないから。水で絞ったタオルで体を拭いた。
「風邪を引いた時は、何かを飲むんだったよな。確かメイドが、ユリアーナが配合したハーブティーを淹れてくれたはずだ」
厨房の棚の引き出しを、ブレフトは次々と開く。かまどに火を入れることのない厨房は、足もとから冷えてくる。
「これかな」
瓶に入った乾燥したハーブを取りだす。だが、似たようなものが何種類もある。
名前は書いてある。エルダーフラワー、エキナセア、ゴツコーラ、ジュニパー、スカルキャップ、ネトルにバレリアン。
何が何やらさっぱり分からない。
火種を維持してくれていた使用人もいないから。湯を沸かそうとしても、ブレフトは火打石をうまく扱えない。
石を打つとカッカッと音がして、火花は散るのに。枯葉や藁を利用せずに直に薪を燃やそうとして、かまどにも暖炉にも火がつかない。
「寒いよ……ユリアーナ」
どうして思いだすのは、妻のことばかりなのだろう。あんなにもヘルダのことを愛していたのに、新しく入ったメイドのケイトも可愛がっていたのに。
冷たくあしらったユリアーナの顔ばかりが浮かんでくる。
げほげほとブレフトは咳きこんだ。
「咳が止まらないんだ。どうしたらいい?」
答える声はない。
掃除もせず、換気のために窓も開けぬ厨房では、蜘蛛の巣が天井や柱にある。
「ごめんよ、ユリアーナ。謝るから、今度こそちゃんと謝るから」
またブレフトは咳をした。
親族から、伯爵をブレフトから別の者に変えようという話が上がっている。領民が、愚かなブレフトに地代を払うのを渋るからだ。
いつまでこの屋敷で暮らせるのか分からない。どうしていいのかも分からない。
◇◇◇
「あたしは伯爵家のメイドだったのよ。なんでこんなことをしないといけないのよっ」
森の中でヘルダは叫んだ。
見上げれば、茶色く枯れた葉が北風に吹かれて落ちてくる。
茨や木の枝ですぐに服を引っかけるせいで、今のヘルダは、つぎはぎだらけのスカートをはいていた。
「オペラだって観にいったのよ。上等なドレスだって着ていたわ。なのになんで、こんなに落ちぶれているのよっ」
伯爵夫妻の離婚の原因となったヘルダを雇う場所などどこにもない。
クラーセン家の領地内はもちろんのこと。他の町でも、ブレフトの醜聞は広まっていた。
どこにも居場所のない、仕事を得られないヘルダは、町はずれの森の側の小屋で暮らすしかなかった。
男性のように腕力がないので、斧で薪を伐ることはできない。
結局、小枝や倒木を燃やして灰を作る仕事に落ちついた。洗剤を作るのに灰が利用されるからだ。
森は深くて暗い。どんなに働いたって灰を売って得られる金など、たかが知れている。
燃え尽きた灰を、ヘルダは麻袋に入れた。
軽い灰は風に舞い、顔を汚くよごしてしまう。
「あんた、伯爵家のメイドだったって本当かい?」
問いかけてくる声に、ヘルダはふり返った。この森で樵をしている男だった。肩に斧を担いでいる。
「本当よ。あんたみたいな卑しい男が、声をかけていい相手じゃないの」
「ふぅん?」
つんとあごを上げたヘルダを、男は目を細めて眺めた。その視線が、明らかにヘルダの顔ではなく胸に向けられている。
(なんて恥知らずな。きっとあたしの魅力に夢中になってしまったのね。でも、あたしはあんたにはもったいないわ)
ヘルダは両腕で胸を押さえて、背中を向けた。
「旦那さまのお手付きってところか。まあ、若い頃はちやほやされたんじゃないか? おれはオペラが何かは知らんけど」
「今だって若いわ。失礼よ」
「そんだけでかいと、垂れるよな。どうせ奥さまをさしおいて、自分の方が上だと勘違いしたクチだろ。哀れだよな」
自分に言い寄って来たとばかり思っていた男は、すぐに背中を向けた。
「若さがなくなったら、賢くないと生きていけないって。だから女は顔や体を磨くよりも、知識を得ないといけないって、うちのばあちゃんが言ってたな」
「あんたのばあさんが、あたしになんの関係があるのよ」
ヘルダは、噛みつくように声を荒げた。
「いや。ばあちゃんの言うことは正しいんだなって思っただけさ。まぁ、いいんじゃないか。枝を焼いて灰を拾うには、大した頭脳はいらんからな」
ふり返りもせずに、男は去っていった。
ぺきり、と地面に落ちた小枝を踏む音が聞こえる。
「あたし。これからずっとこんなことをしなくちゃいけないの?」
森を吹き抜ける風が、まるで粉雪のように灰をまき散らす。
仕事をさぼっていたメイド時代よりも、今の方が手は荒れている。灰を売ってもたいした金額にならないから。食事だってパンくらいしか買えない。たまにチーズが手に入ればいい方だ。そのせいで髪はぱさぱさだ。
旦那さまに愛されて、贅沢をして。それが永遠に続くと信じていた。どうして、疑うことすらしなかったんだろう。
遠くから、斧を振るう固い音が聞こえた。
離婚から数か月が経った十月。クラーセン家の庭は手入れをする者もいなくなり、荒れ果てている。
ブレフトはたったひとりで屋敷に残っている。
史上はじめて妻に捨てられた恥知らずで愚かな伯爵に、仕える者などいない。
洗濯などしたことがないから。ブレフトの着ている服は垢じみて、汚れている。掃除などしたことがないから。屋敷は貧民窟のように荒れて饐えた臭いがする。
料理などできるはずもないから。ただパンとチーズとハムを買って食べるだけの生活だ。栄養状態は悪く、病気ばかりしている。
「なんで、風邪がひと月以上も治らないんだろう」
夏が終わり、朝晩は涼しい風が吹くようになった。急に気温が下がる日もある。
なのにブレフトは夏の服を着続けた。これまでは使用人が季節ごとに衣替えをして、きれいに洗濯して片づけてくれるのが当たり前だったから。気づかなかった。
風呂に水を運ぶことも、沸かすこともできないから。水で絞ったタオルで体を拭いた。
「風邪を引いた時は、何かを飲むんだったよな。確かメイドが、ユリアーナが配合したハーブティーを淹れてくれたはずだ」
厨房の棚の引き出しを、ブレフトは次々と開く。かまどに火を入れることのない厨房は、足もとから冷えてくる。
「これかな」
瓶に入った乾燥したハーブを取りだす。だが、似たようなものが何種類もある。
名前は書いてある。エルダーフラワー、エキナセア、ゴツコーラ、ジュニパー、スカルキャップ、ネトルにバレリアン。
何が何やらさっぱり分からない。
火種を維持してくれていた使用人もいないから。湯を沸かそうとしても、ブレフトは火打石をうまく扱えない。
石を打つとカッカッと音がして、火花は散るのに。枯葉や藁を利用せずに直に薪を燃やそうとして、かまどにも暖炉にも火がつかない。
「寒いよ……ユリアーナ」
どうして思いだすのは、妻のことばかりなのだろう。あんなにもヘルダのことを愛していたのに、新しく入ったメイドのケイトも可愛がっていたのに。
冷たくあしらったユリアーナの顔ばかりが浮かんでくる。
げほげほとブレフトは咳きこんだ。
「咳が止まらないんだ。どうしたらいい?」
答える声はない。
掃除もせず、換気のために窓も開けぬ厨房では、蜘蛛の巣が天井や柱にある。
「ごめんよ、ユリアーナ。謝るから、今度こそちゃんと謝るから」
またブレフトは咳をした。
親族から、伯爵をブレフトから別の者に変えようという話が上がっている。領民が、愚かなブレフトに地代を払うのを渋るからだ。
いつまでこの屋敷で暮らせるのか分からない。どうしていいのかも分からない。
◇◇◇
「あたしは伯爵家のメイドだったのよ。なんでこんなことをしないといけないのよっ」
森の中でヘルダは叫んだ。
見上げれば、茶色く枯れた葉が北風に吹かれて落ちてくる。
茨や木の枝ですぐに服を引っかけるせいで、今のヘルダは、つぎはぎだらけのスカートをはいていた。
「オペラだって観にいったのよ。上等なドレスだって着ていたわ。なのになんで、こんなに落ちぶれているのよっ」
伯爵夫妻の離婚の原因となったヘルダを雇う場所などどこにもない。
クラーセン家の領地内はもちろんのこと。他の町でも、ブレフトの醜聞は広まっていた。
どこにも居場所のない、仕事を得られないヘルダは、町はずれの森の側の小屋で暮らすしかなかった。
男性のように腕力がないので、斧で薪を伐ることはできない。
結局、小枝や倒木を燃やして灰を作る仕事に落ちついた。洗剤を作るのに灰が利用されるからだ。
森は深くて暗い。どんなに働いたって灰を売って得られる金など、たかが知れている。
燃え尽きた灰を、ヘルダは麻袋に入れた。
軽い灰は風に舞い、顔を汚くよごしてしまう。
「あんた、伯爵家のメイドだったって本当かい?」
問いかけてくる声に、ヘルダはふり返った。この森で樵をしている男だった。肩に斧を担いでいる。
「本当よ。あんたみたいな卑しい男が、声をかけていい相手じゃないの」
「ふぅん?」
つんとあごを上げたヘルダを、男は目を細めて眺めた。その視線が、明らかにヘルダの顔ではなく胸に向けられている。
(なんて恥知らずな。きっとあたしの魅力に夢中になってしまったのね。でも、あたしはあんたにはもったいないわ)
ヘルダは両腕で胸を押さえて、背中を向けた。
「旦那さまのお手付きってところか。まあ、若い頃はちやほやされたんじゃないか? おれはオペラが何かは知らんけど」
「今だって若いわ。失礼よ」
「そんだけでかいと、垂れるよな。どうせ奥さまをさしおいて、自分の方が上だと勘違いしたクチだろ。哀れだよな」
自分に言い寄って来たとばかり思っていた男は、すぐに背中を向けた。
「若さがなくなったら、賢くないと生きていけないって。だから女は顔や体を磨くよりも、知識を得ないといけないって、うちのばあちゃんが言ってたな」
「あんたのばあさんが、あたしになんの関係があるのよ」
ヘルダは、噛みつくように声を荒げた。
「いや。ばあちゃんの言うことは正しいんだなって思っただけさ。まぁ、いいんじゃないか。枝を焼いて灰を拾うには、大した頭脳はいらんからな」
ふり返りもせずに、男は去っていった。
ぺきり、と地面に落ちた小枝を踏む音が聞こえる。
「あたし。これからずっとこんなことをしなくちゃいけないの?」
森を吹き抜ける風が、まるで粉雪のように灰をまき散らす。
仕事をさぼっていたメイド時代よりも、今の方が手は荒れている。灰を売ってもたいした金額にならないから。食事だってパンくらいしか買えない。たまにチーズが手に入ればいい方だ。そのせいで髪はぱさぱさだ。
旦那さまに愛されて、贅沢をして。それが永遠に続くと信じていた。どうして、疑うことすらしなかったんだろう。
遠くから、斧を振るう固い音が聞こえた。
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