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四章

5、絵心

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 ああ、よかった。と私は安堵の息を小さくついた。
 子どもの頃に紙に描いた絵もないではないが。とにかく絵心がないので(今も昔も)私が描いた絵は、あってもないのだ。
 本人がそう言っているのだから「ない」んだ。

「ないなら描けばいいじゃない」
「は? なんですか、その、悪女のような言いようは」

 マルティナさまは、名案を思いついたというようにお顔を輝かせた。
 そして「ふんふふふふーん」と鼻歌を歌いながら(レディなのに、王女なのに)地面に落ちている小石を拾ったのだ。

「はい。細くて描きやすそうなのを選んだわ」
「少し細すぎて、私の手には小さいですね」
「じゃあ、これ」

 次に差し出してきたのは、さっきのよりは大きな石だ。用意がいいですね。
 まるで磨き上げたかのように滑らかな石は、しっくりと手になじんだ。
 困った。心底困った。

 横目でちらっと見ると、姫さまはにこにこと微笑んでいらっしゃる。
 いつもならば愛らしい無邪気なその笑みが、今日は重い。

「ちょ、蝶を描こうと思います」
「えー、マルティナの似顔絵を描いて」

 無茶言わないでください。人を描くのは難しいんですよ。
 
「蝶にします」
「マルティナとアレクを並べて描いてほしかったのに」

 なんという無茶を仰るんですか。それは私に空を飛べと命令しているようなものですよ。
 てのひらが汗ばんできた。
 ああ、いっそミミズとかヘビといえばよかったかもしれない。
 そうすれば、線を一本引くだけですむのだから。

 戸惑いながら地面に線を引くごとに、少し濃い部分が現れて、懐かしい土の匂いが強くなる。

 かさりと音がして、足音が近づいてくる。だが絵を描くことに集中していた私は、その音に気づかなかった。

「あ。さんかく、かいてる」

 背後から聞こえてきたバート殿下の明るい声に、私は驚いて石を落としてしまった。

「アレク、じょうずだねぇ」
「本当ですね。ぼくも叔父さまの図形は初めて拝見しましたが。それぞれの角度がきっちりと整っていてきれいですね」
「ほんとだね」

 バートだけではなくエーミルまで私の手元を覗きこんで、感心している。
 どうやらマルティナさまに勉強を教えていると勘違いしているようだ。
 
 ど、どうしたものか。嘘をつくのは本意ではない。だが、これは蝶なのだと言えば「ちょうちょって、こんなにかくかくしてる?」とか「え? 無機物じゃないんですか?」とか悪気なく問われそうだ。

 突然、マルティナさまが私の手から石を取り上げた。

「そう。お勉強なのよ。三角が二つあるでしょう? この面積を求めるの」
「めんせきってなぁに?」

 姫さまは、首をかしげるバートさまに「そうねぇ、広さね」と教えてさしあげた。
 そして指を使ってだいたいの線の長さを計り、ついでに高さの線を足して、土の上に計算式を記していく。

「わぁ、すうじだぁ。すごいね、すごいね」
「本当ですね。マルティナさまは計算が速いですね」

 確かに。エーミルの言葉に、私まで頷いてしまった。
 
 こんなにも近くにいるのに、姫さまのことは全て知っていると思い上がっていたのかもしれない。
 青いインクが取りきれないと恥じ入っておられた、しなやかな指。
 私に恥をかかせるまいと、蝶の翅の面積をすぐに求めた機転。
 
 ご自分と私の絵を描くようにと命じたその子どもっぽさが、まるで儚い幻のようだ。
 どちらが本当のあなたなのですか?
 私以外には、常に大人でいらっしゃるのですか? 私は、唯一あなたに甘えてもらっていると自惚れていいんですか?

 そう考えて、はっとした。
 胸の奥になにか閃いたような。灯りがともったような。
 そして打ち消そうとしても、その灯りはほんのりと明るいままで消えやしない。

 ふわふわと何か小さなものが、風に乗って飛んできた。
 たんぽぽの綿毛だ。
 普通は春のはずなのに。季節外れのその綿毛は呑気そうに舞っている。

 風に色などないだろうが、その風は秋特有の柔らかな色合いだと思った。
 その風が囁くのだ。

「その気持ち、初恋ですよ。恋心に気づき求婚を先にしておいて、初恋であると自覚するのが最後だなんて。ほんとうにあなたは……」と。

 ほんとうに何だろう? 考えるのがつらい。
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