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三章
18、雑踏【2】
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男はエーミルを狙ってナイフを突き出してくる。私はその隙に、男を地面に押し倒した。
地面に転がるナイフをなおも掴もうとするので、申し訳ないが男の手の甲を踏みつける。
狙った相手がエーミルではなく、バート殿下であればこんなものでは済まない。
ばたばたと治安官吏の足音が迫ってくる。男は異国の言葉で「離せ」ともがく。
「騎士さま、ご無事ですか」
「ああ、問題ない」
「王子や王女がこちらにいらっしゃるということは?」
「大丈夫だ。もう勤務は終わった」
私がそう言うと官吏たちは「そうでしたか」と、ほっとした表情を浮かべた。密航者を地面に取り押さえ、後ろ手に縛ろうとしている。
ナイフを持っていなければ、王子(ではないのだが)を襲おうとしなければ手荒な扱いは受けないだろうに。
「その男は貨物船に乗り込んでいたのです。港から逃げ出して、追っていたところです」
「なるほど」
治安官吏の説明に、私は頷いた。
移民として受け入れられるには条件がある。この国で五年働き納税し、不便なく読み書きができる。そうすれば居住権が得られる。
言葉で言うほどに簡単ではない。自国での生活が苦しくなければ、国外に出る必要などないからだ。そして親族も知人もいない国でできる仕事など、そうそうない。
それでもだが、新天地にくれば幸せになれるだろう、裕福な暮らしができるだろうと密航する者は少数ではあるがいる。
このヴァーリン王国だけではなく、周囲の国でも問題となっている。
どの国に生まれたか、どの階級に生まれたか。それだけで人生が決まってしまう理不尽さは、私にも理解できる。
「正規の手続きに時間がかかるのは分かる。だが密かに入りこんだ国で、其処の国民にナイフを向ける。そんな脅しに屈して要求を呑む国が、どこにある」
男は、自国の言葉で喚き返した。
治安官吏にもエーミルにも、その内容は分からないようだが。
かなり品のない、眉をしかめたくなる罵りだった。
私はクリスティアン殿下の護衛を務めていた時に、殿下の外交のお供の為に語学はかなり学んだ。
たとえば殿下が席を外す時、敢えて私以外の者を護衛としてつかせる。
そうすれば、部屋に残された私……たかが護衛騎士の私が何カ国語も理解できると相手は思わない。
それはそうだろう。体を鍛えることしか興味なさそうな体格をしているからな、私は。
相手に言葉が分からないと思えば、軽んじて本音が洩れる。
たとえにこやかな表情を浮かべていたとしても、側近と喋る言葉が辛辣であるならば、殿下や我がヴァーリン王国のことを見下しているのであれば。
その場で交渉は決裂だ。
知識は力だ。勉強は難しいと嫌う騎士は、そもそも護衛騎士にはなれない。できるかできないかではなく、どれほど多くの国の言葉を理解できるかだ。
「では、このまま連行しますので」
治安官吏たちは縛り上げた男を立たせて、歩くように促した。
その時だ。
人のほとんどいなくなった市場に、まるで軽やかに蝶が飛んできたように見えたのは。
「で……」
エーミルが飲み込んだ言葉は「殿下」だった。
訳が分からなかった。
供をつけることもなく、幼いバート殿下がこちらに向かって走ってくるのだ。柔らかな髪を夕陽に輝かせながら。
果物や米や肉が散乱した広場。その中でバート殿下の清らかさは明らかに異質だった。
濁った水が殿下の周囲だけ、一瞬に澄んだきれいな水に変わるかのように。
幼い少年の進みにしたがい、辺りは静謐に包まれていく。
私とエーミルは瞬時に、殿下に向かって駆けだした。
「いらっしゃいました、こちらです」
「バートっ」
続いて現れたのは、マルティナさまと女性の護衛騎士だ。マルティナさまがお召しになっているのは簡素な白いブラウスと薄紫のスカートだ。
薄汚れた広場が、一瞬で王宮のはなやいだ庭へと変化したように思えた。
だが、暢気に感慨に浸っている場合ではない。マルティナさまはすでに異変を察しているようで、表情がとても硬い。
男が「そっちか」と呟いて、治安官吏を突き飛ばす。
後ろ手に縛られているというのに、男はバート殿下に向かって走って来た。
何事が起ったのか分からぬ殿下は立ち止まり、固まってしまっている。
私とエーミルの背後にバート殿下を庇う。マルティナさまには護衛がついているから問題はない。
突進してくる男。今はナイフを持っていない男に、エーミルは一瞬怯んだ。
相手が武器を持っていれば、逆に怯むことなどないのに。
「エーミル。決闘ではないのだ、己の責務を全うしろ」
「は、はいっ」
私はためらわず、剣を構える。
「殿下、動いてはなりませんよ。私もエーミルもたいそう困りますからね」
「うん」
「素直でよろしい」
地面に転がるナイフをなおも掴もうとするので、申し訳ないが男の手の甲を踏みつける。
狙った相手がエーミルではなく、バート殿下であればこんなものでは済まない。
ばたばたと治安官吏の足音が迫ってくる。男は異国の言葉で「離せ」ともがく。
「騎士さま、ご無事ですか」
「ああ、問題ない」
「王子や王女がこちらにいらっしゃるということは?」
「大丈夫だ。もう勤務は終わった」
私がそう言うと官吏たちは「そうでしたか」と、ほっとした表情を浮かべた。密航者を地面に取り押さえ、後ろ手に縛ろうとしている。
ナイフを持っていなければ、王子(ではないのだが)を襲おうとしなければ手荒な扱いは受けないだろうに。
「その男は貨物船に乗り込んでいたのです。港から逃げ出して、追っていたところです」
「なるほど」
治安官吏の説明に、私は頷いた。
移民として受け入れられるには条件がある。この国で五年働き納税し、不便なく読み書きができる。そうすれば居住権が得られる。
言葉で言うほどに簡単ではない。自国での生活が苦しくなければ、国外に出る必要などないからだ。そして親族も知人もいない国でできる仕事など、そうそうない。
それでもだが、新天地にくれば幸せになれるだろう、裕福な暮らしができるだろうと密航する者は少数ではあるがいる。
このヴァーリン王国だけではなく、周囲の国でも問題となっている。
どの国に生まれたか、どの階級に生まれたか。それだけで人生が決まってしまう理不尽さは、私にも理解できる。
「正規の手続きに時間がかかるのは分かる。だが密かに入りこんだ国で、其処の国民にナイフを向ける。そんな脅しに屈して要求を呑む国が、どこにある」
男は、自国の言葉で喚き返した。
治安官吏にもエーミルにも、その内容は分からないようだが。
かなり品のない、眉をしかめたくなる罵りだった。
私はクリスティアン殿下の護衛を務めていた時に、殿下の外交のお供の為に語学はかなり学んだ。
たとえば殿下が席を外す時、敢えて私以外の者を護衛としてつかせる。
そうすれば、部屋に残された私……たかが護衛騎士の私が何カ国語も理解できると相手は思わない。
それはそうだろう。体を鍛えることしか興味なさそうな体格をしているからな、私は。
相手に言葉が分からないと思えば、軽んじて本音が洩れる。
たとえにこやかな表情を浮かべていたとしても、側近と喋る言葉が辛辣であるならば、殿下や我がヴァーリン王国のことを見下しているのであれば。
その場で交渉は決裂だ。
知識は力だ。勉強は難しいと嫌う騎士は、そもそも護衛騎士にはなれない。できるかできないかではなく、どれほど多くの国の言葉を理解できるかだ。
「では、このまま連行しますので」
治安官吏たちは縛り上げた男を立たせて、歩くように促した。
その時だ。
人のほとんどいなくなった市場に、まるで軽やかに蝶が飛んできたように見えたのは。
「で……」
エーミルが飲み込んだ言葉は「殿下」だった。
訳が分からなかった。
供をつけることもなく、幼いバート殿下がこちらに向かって走ってくるのだ。柔らかな髪を夕陽に輝かせながら。
果物や米や肉が散乱した広場。その中でバート殿下の清らかさは明らかに異質だった。
濁った水が殿下の周囲だけ、一瞬に澄んだきれいな水に変わるかのように。
幼い少年の進みにしたがい、辺りは静謐に包まれていく。
私とエーミルは瞬時に、殿下に向かって駆けだした。
「いらっしゃいました、こちらです」
「バートっ」
続いて現れたのは、マルティナさまと女性の護衛騎士だ。マルティナさまがお召しになっているのは簡素な白いブラウスと薄紫のスカートだ。
薄汚れた広場が、一瞬で王宮のはなやいだ庭へと変化したように思えた。
だが、暢気に感慨に浸っている場合ではない。マルティナさまはすでに異変を察しているようで、表情がとても硬い。
男が「そっちか」と呟いて、治安官吏を突き飛ばす。
後ろ手に縛られているというのに、男はバート殿下に向かって走って来た。
何事が起ったのか分からぬ殿下は立ち止まり、固まってしまっている。
私とエーミルの背後にバート殿下を庇う。マルティナさまには護衛がついているから問題はない。
突進してくる男。今はナイフを持っていない男に、エーミルは一瞬怯んだ。
相手が武器を持っていれば、逆に怯むことなどないのに。
「エーミル。決闘ではないのだ、己の責務を全うしろ」
「は、はいっ」
私はためらわず、剣を構える。
「殿下、動いてはなりませんよ。私もエーミルもたいそう困りますからね」
「うん」
「素直でよろしい」
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