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5、名前で呼んでくれなくて
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ミリアムがレオンに結婚を申し込んでから二年。
「いまだにレオンお兄さまは、わたしを名前で呼んでくれないわ」
王都で議会のある二月から五月まではレオンのお店はおやすみ。そのあとは社交のシーズンになるのだが、レオンは晩餐会も舞踏会も興味がないらしく、すぐにストランド家にもどってくる。
「今年もレオンお兄さまは、パーティにはいらっしゃらないの?」
「言っておくが。パーティは集団お見合いだぞ」
野菜や肉の仕込みを終えたレオンは、馬車に荷を積んだ。
ぴかぴかに磨きあげた鍋には、すでに煮込まれたスープ、琺瑯の容器にはミリアムが皮をむいたラシットポテトをマッシュしたもの。鴨肉はお店で焼いて、魚は途中の市で仕入れるのだそう。
「ふつう大人になれば、パーティにいくものだと思っていました」
「まぁ、ストランド男爵令嬢は参加してもいいかもしれないな」
「レオンお兄さまがご一緒なら、参加します」
「ははっ。俺は社交は苦手だって」
幌のついた小さな荷馬車の御者台に座ったレオンは、ミリアムの手を差しだした。
御者台のレオンのとなりが、ミリアムの定位置。
──うちのタウンコーチを使うのが仰々しいなら、せめてもっとエレガンスな二人乗りの馬車を用いてはどうかな?
以前ミリアムの父に提案されたとき、レオンは首をふった。
──お申しではありがたいですが。バルーシュなどの街馬車では、さすがに野菜や鍋がのりませんので。
以来、レオンとミリアムは白くちいさい幌馬車をつかっている。
スープをこぼさぬよう、ゆっくりと道をすすむ馬車。速度をあわせて、ブルーノがしっぽを振りながらついてくる。馬も慣れたもので、黒い大型犬がいっしょに歩いても悠然としている。
「そろそろ暑くなる季節だぞ。ちゃんと帽子はもってきたか」
「抜かりありません」
膝のうえにおいた淡い水色のリボンがついた麦わら帽子を、ミリアムはかぶる。
あと半月ほどで季節は夏至を迎える。
木々にも、石垣をはう蔓草にも、色とりどりの花が咲きほこっている。
甘い蜜をたっぷりとひそませた金銀花は、その名のとおり白と黄色がまじって花をつけている。
蜜をあつめるミツバチだけではなく、蟻までもが金銀花に集まっている。眠くなるようなかすかな翅音。
道に沿った石垣のむこうには、どこまでもひろがる野原。羊が青々としげった草を食んでいる。ブルーノは黒いしっぽを高くあげて、羊をながめている。
「牧羊犬になりたいわ」
「は?」
しまった。つい、言葉にでてしまいました。
ミリアムはあわてて白い手袋をはめた手で、口を押えたけれど。レオンは興味深そうに、となりに座る彼女の顔をのぞきこんでくる。
「ストランド男爵令嬢は牧羊犬になりたいのか?」
「いいえ。ちがいます。わたしは素敵なレディになるの」
「じゃあ、今のは?」
ああ、もう。そういうところは聞き流してください。恥ずかしいじゃないですか。
ミリアムはうつむいた。
ブルーノになりきって発言するだなんて。おさない子どものお人形ごっことあまり変わらないわ。
「ふーむ。まぁストランド男爵令嬢は犬にはなれないが、牧羊犬を扱うことはできるんじゃないかな」
「いえ、ですから」
「恥ずかしがることはない。俺も子どものころは、吟遊詩人になりたかった」
「ぎんゆう……なんですか?」
「今はすたれてしまっているからな。ずいぶんと古い時代にあった音楽師さ。詩と曲をつくり、楽器を弾きながら各地を放浪する。歌うのは宮廷愛や騎士の活躍とかかな」
そんな話をきくのは初めてだった。
ミリアムには、子どものころのレオンの姿は想像もできない。
けれど、とても新鮮で心がはずむ。
「レオンお兄さまは、楽器を弾くのがお上手なんですか」
「お上手じゃないですよー」
なぜか棒読み。
「じゃあ、歌がお上手なんですね」
「音痴だね」
え? ではなぜ?
ぽかんとしたミリアムの様子を、横目でちらっと見たレオンは苦笑した。
「自分の得手不得手を考えないあたり、子どもだよな。俺はただ、窮屈な家を出たかっただけなんだと思う」
「そうなのですか」
「だから」と、レオンはやわらかい笑みをうかべる。
「今みたいに、ストランド家に居候させてもらい、二月から五月の議会のあいだは王都の街屋敷で暮らせることに感謝している」
初めて出会ったときのレオンは、厳しい表情をしていた。
とても寒い日だったから。けれどきっとそれだけじゃない。
ミリアムの知らない日々を過ごしてきた彼は、つねに凍った雰囲気をまとっていたのかもしれない。
「いまだにレオンお兄さまは、わたしを名前で呼んでくれないわ」
王都で議会のある二月から五月まではレオンのお店はおやすみ。そのあとは社交のシーズンになるのだが、レオンは晩餐会も舞踏会も興味がないらしく、すぐにストランド家にもどってくる。
「今年もレオンお兄さまは、パーティにはいらっしゃらないの?」
「言っておくが。パーティは集団お見合いだぞ」
野菜や肉の仕込みを終えたレオンは、馬車に荷を積んだ。
ぴかぴかに磨きあげた鍋には、すでに煮込まれたスープ、琺瑯の容器にはミリアムが皮をむいたラシットポテトをマッシュしたもの。鴨肉はお店で焼いて、魚は途中の市で仕入れるのだそう。
「ふつう大人になれば、パーティにいくものだと思っていました」
「まぁ、ストランド男爵令嬢は参加してもいいかもしれないな」
「レオンお兄さまがご一緒なら、参加します」
「ははっ。俺は社交は苦手だって」
幌のついた小さな荷馬車の御者台に座ったレオンは、ミリアムの手を差しだした。
御者台のレオンのとなりが、ミリアムの定位置。
──うちのタウンコーチを使うのが仰々しいなら、せめてもっとエレガンスな二人乗りの馬車を用いてはどうかな?
以前ミリアムの父に提案されたとき、レオンは首をふった。
──お申しではありがたいですが。バルーシュなどの街馬車では、さすがに野菜や鍋がのりませんので。
以来、レオンとミリアムは白くちいさい幌馬車をつかっている。
スープをこぼさぬよう、ゆっくりと道をすすむ馬車。速度をあわせて、ブルーノがしっぽを振りながらついてくる。馬も慣れたもので、黒い大型犬がいっしょに歩いても悠然としている。
「そろそろ暑くなる季節だぞ。ちゃんと帽子はもってきたか」
「抜かりありません」
膝のうえにおいた淡い水色のリボンがついた麦わら帽子を、ミリアムはかぶる。
あと半月ほどで季節は夏至を迎える。
木々にも、石垣をはう蔓草にも、色とりどりの花が咲きほこっている。
甘い蜜をたっぷりとひそませた金銀花は、その名のとおり白と黄色がまじって花をつけている。
蜜をあつめるミツバチだけではなく、蟻までもが金銀花に集まっている。眠くなるようなかすかな翅音。
道に沿った石垣のむこうには、どこまでもひろがる野原。羊が青々としげった草を食んでいる。ブルーノは黒いしっぽを高くあげて、羊をながめている。
「牧羊犬になりたいわ」
「は?」
しまった。つい、言葉にでてしまいました。
ミリアムはあわてて白い手袋をはめた手で、口を押えたけれど。レオンは興味深そうに、となりに座る彼女の顔をのぞきこんでくる。
「ストランド男爵令嬢は牧羊犬になりたいのか?」
「いいえ。ちがいます。わたしは素敵なレディになるの」
「じゃあ、今のは?」
ああ、もう。そういうところは聞き流してください。恥ずかしいじゃないですか。
ミリアムはうつむいた。
ブルーノになりきって発言するだなんて。おさない子どものお人形ごっことあまり変わらないわ。
「ふーむ。まぁストランド男爵令嬢は犬にはなれないが、牧羊犬を扱うことはできるんじゃないかな」
「いえ、ですから」
「恥ずかしがることはない。俺も子どものころは、吟遊詩人になりたかった」
「ぎんゆう……なんですか?」
「今はすたれてしまっているからな。ずいぶんと古い時代にあった音楽師さ。詩と曲をつくり、楽器を弾きながら各地を放浪する。歌うのは宮廷愛や騎士の活躍とかかな」
そんな話をきくのは初めてだった。
ミリアムには、子どものころのレオンの姿は想像もできない。
けれど、とても新鮮で心がはずむ。
「レオンお兄さまは、楽器を弾くのがお上手なんですか」
「お上手じゃないですよー」
なぜか棒読み。
「じゃあ、歌がお上手なんですね」
「音痴だね」
え? ではなぜ?
ぽかんとしたミリアムの様子を、横目でちらっと見たレオンは苦笑した。
「自分の得手不得手を考えないあたり、子どもだよな。俺はただ、窮屈な家を出たかっただけなんだと思う」
「そうなのですか」
「だから」と、レオンはやわらかい笑みをうかべる。
「今みたいに、ストランド家に居候させてもらい、二月から五月の議会のあいだは王都の街屋敷で暮らせることに感謝している」
初めて出会ったときのレオンは、厳しい表情をしていた。
とても寒い日だったから。けれどきっとそれだけじゃない。
ミリアムの知らない日々を過ごしてきた彼は、つねに凍った雰囲気をまとっていたのかもしれない。
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