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9、ガラスのかけら

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「森に向かったのが、誰かは分かりません。ですが、あれは瘴気に呑まれた悲鳴だと思います」
「セシリア。なぜそれが分かるんだ」

 イーヴァルの声は、かすれている。

 セシリアはイーヴァルの前に立ち、窓から外をうかがった。
 森は変わらず黒の塊にしか見えない。
 けれど、藍色の闇と黒の森の境目に、もやもやとしたもやが微かに見える。
 その靄が、矢の束のようにセシリアの部屋へと向かってくる。

「お兄さま、わたくしの背後へ」

 セシリアは右腕を伸ばす。そのてのひらが、薔薇色に染まった。

 次の瞬間、うすくれないの光が弾けた。まるで花弁が開いて、空間を染めていくように。
 まばゆい光が、幾重にも重なって壁となる。
 床にセシリアとイーヴァルの影が伸びた。

 ガシャン、と窓が割れた。ガラスが砕けて散る。

「闇夜を照らす我が光。聖なる薔薇よ、よこしまなるものを拒絶せよ」

 光の壁にぶつかったガラスの破片が、すべて床へと落ちていく。うねりながら一気に流れ込んできた黒い靄が、光に呑みこまれて消えた。
 廊下を走る足音が聞こえる。

「セシリアさまっ!」

 ノックもなしに部屋に飛び込んできたのは、テオドルだった。ズボンは騎士服のものではない。白いシャツのボタンは嵌める暇もなかったのか、逞しい胸がはだけている。

「大丈夫よ、テオ。殿下にお怪我はありません」

 光が、セシリアの右手に集まり消えていく。

 テオドルは、瞬きをするのも忘れたように主である少女を凝視している。
 わずかに遅れて、イーヴァルの騎士と王宮警護官がやってきた。
 王太子の護衛騎士であるバートは、すぐにイーヴァルの無事を確認した。

「セシリアさま。殿下をお守りくださり、ありがとうございます」
「窓が壊れただけで済んで、何よりです。バートは、朝まで殿下のお部屋にいてあげてください」
「もちろんです。ですが、まだ何か不安なことがおありですか?」

 バートに問われて、セシリアは「いいえ」と首を振った。

「バートがいた方が、お兄さまも安心するでしょう?」

 微笑むセシリアの表情は、大人びていた。
 兄を「殿下」と呼ぶことも、その口調も印象も、セシリアとは違うのに。バートは追究しようとはしない。

 身長はテオドルと同じほどに高いが、バートの方が繊細なイメージがある。
 細身で、さらりとした茶色い髪をひとつに結んでいるからだろうか。

「あの靄は森に発生した瘴気が原因でしょう。王宮は神の御加護があるはずです。何者かが故意に穢れを呼び込んだと考えられます」

 セシリアは割れた窓に目を向けた。
 集まった誰もが、息を呑んで王女を見つめている。
 いつものあどけなさや、不安そうな様子はどこにもない。威厳すら感じさせる姿だ。

「瘴気はその場に満ち、漂うもの。意志を持って襲ってくるように、操った者がいるはずです」

 きっとイーヴァルが、その正体を掴んでいるはずだ。
 森へ向かう者を、わざと泳がせていたのだから。
 けれど、セシリアに何も言わないのであれば、聞かせない方がいいと配慮してのことなのだろう。

 セシリアは部屋を出ていくイーヴァルの背中を見送った。

 進み出たテオドルが、セシリアの前にしゃがんだ。
 気づかなかったが、素足の指や足の甲にガラスのかけらが落ちている。

「歩かないでください。お怪我をなさいます」

 静かな声で言うと、テオドルはセシリアを抱えあげた。肩に担ぐように。

「ほら。足の裏にもガラスがついているではありませんか」
「ほ、ほんとうね」

 びっくりしたセシリアの声は、裏返っている。
 そのまま運ばれて、セシリアはベッドの端に座らされた。蠟燭をともしたテオドルは「失礼いたします」と告げて、セシリアの素足を確認する。

 テオドルの手は大きい。てのひらに載せられたセシリアの足が、小さく見えてしまう。

「あの、こんなことはメイドにもされたことがないのだけれど」
「そうでしょうね」

 長い指が、丹念にセシリアの右足の裏に触れる。どんなに小さなガラスも見逃さないように、指先が肌をたどっていく。
 くすぐったさに、セシリアは足を引こうとした。

「動かないでください」

 今度は右の足首を掴まれてしまった。
 しゃがんだテオドルの頭が、ちょうどセシリアの膝に辺りにある。手を動かしたら、すこし硬そうな黒髪に触れてしまえそうに近い。

 心臓がドキドキしてしまう。鼓動の音が涸れに聞こえてしまうんじゃないかと心配で。セシリアはぎゅっと目を閉じた。
 けれど、それが間違いだった。

 見えない分、テオドルの指の動きを鮮明に感じてしまう。

 彼の爪が、セシリアの肌についたガラスを落とす感覚も。親指で、傷がないか触れて確認する感覚も。
 顔が熱を持つのが分かる。
 セシリアは両手で顔を覆い隠した。
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