38 / 93
八章
6、帰りたくない
しおりを挟む
アランは一度立ち止まったけれど、首を傾げてまた歩き出してしまった。きっと自分の名前が呼ばれたのを、空耳と思ったのだろう。
違うよ、ちゃんと呼んだの。腕を広げてくれたでしょ? わたしの姿は、熱が見せる幻覚じゃないよ。
「もうっ、今すぐにアランの所に行きたかったのに」
「あのような野蛮な男など、放っておきなさい。エルヴェーラさまに相応しいのは、このレイフでございます。さぁ、私と共にキルナに戻り、彼の地の栄華を取り戻しましょう」
「ぜーったいに、やだっ!」
ソフィはかごに入った卵を掴むと、レイフに向かって投げつけた。くしゃりと軽い音を立てて、レイフのおでこで卵が割れる。
青白い顔を伝って流れていく黄身と白身が、なかなかにシュールだ。
「卵なら、まだまだあるわよ」
武器としてはいささか心もとないけど。生卵をぶつけられて喜ぶ輩などいないだろう。なーんて考えたのが甘かった。
「新鮮な卵ですね。私に投げつけるにも、鮮度にこだわってくださる。ああ、エルヴェーラさまは本当にお優しくていらっしゃる」
ぞぞぞっ。背中を毛虫に這い上がられたような心地がした。
もう、ほんっと気持ち悪い。
「違うし、エルヴェーラじゃないし。ああ、ハンナの卵は新鮮さが命。うわーん、もったいないよぉ。オムレツにしたかったのにぃ」
もう自分でも何を言ってるのか分からないけれど、ソフィは手当たり次第に卵を投げる。どれもレイフのおでこに命中しては、じゅるんと口の中に生卵が吸い込まれていく。
怖いよ、この人。爬虫類かなんかなの?
「う……うぅ、やだぁ気持ち悪いよぉ」
ソフィは、空になったかごを抱えて涙目になった。
「さぁ、私と一緒に参りましょう」
「やだってば! ア……」
アランの名を叫ぼうとした時、坂の下で彼に手を振るグンネルの姿が見えた。とても小さくてマッチ棒くらいだけど、走ってくるグンネルと立ち止まるアランの様子がはっきりと分かる。
坂の上から吹き下ろす風が、枯葉を道の端に集めていく。上着を着ていないソフィは身を震わせた。
「……寒いよ、アラン」
一歩踏み出すと、足の下で卵の殻が砕け散った。
ハンナのアドバイス通り大人になって、秘密は秘密のままで、これまで通りに暮らしていけると思ったのに。
そんなのは所詮まやかしだ、上手くいくはずがないと、もう一人の自分が囁いている。
踏みだすはずの一歩を、後ろに退く。靴の裏で卵の殻は白い砂のように粉々になっていた。
「御身を大切になさってください。このレイフの為にも、あなたのことを第一に考えていた者の為にも」
肩にかけられた上着はずっしりと重く、革の匂いが鼻をかすめた。
「あのアランという男は本名を隠し、我々からエルヴェーラさまを奪った悪党です。グンネルの元配下で、あなたの両親や家族を惨殺したと言うではありませんか。きっとエルヴェーラさまのことも、利用価値があるから生かしておいたのです」
「……アランはそんなことしない」
「いいえ。悪人はえてして善人の仮面をかぶるもの。本当に善人であれば、エルヴェーラさまに本当のことを話していたでしょう。嘘をついても良心の呵責に苛まれないのですよ、奴は」
レイフはアランの悪口を並べ立てている。確かにソフィがエルヴェーラであることをアランは明かしてくれないけれど、それも理由があってのことだと信じている。
なのに、どうして? グンネルとアランが仲よさそうにしているだけで、その信頼がぐらつくの?
「……帰りたくない」
グンネルがいる家には。
ぽつりと呟いた時、レイフが坂に沿って並ぶ家に向かって顎を上げた。家と家の間から、革の上着を羽織った男たちが現れる。
何事と思う間もなく、ソフィは口をふさがれた。
悲鳴も叫び声も、男たちの手の中に消えた。遠くて小さなアランの姿が、霞んでいく。
ぼやけた視界の中、アランが坂の上をふり返ったような気がした。
違うよ、ちゃんと呼んだの。腕を広げてくれたでしょ? わたしの姿は、熱が見せる幻覚じゃないよ。
「もうっ、今すぐにアランの所に行きたかったのに」
「あのような野蛮な男など、放っておきなさい。エルヴェーラさまに相応しいのは、このレイフでございます。さぁ、私と共にキルナに戻り、彼の地の栄華を取り戻しましょう」
「ぜーったいに、やだっ!」
ソフィはかごに入った卵を掴むと、レイフに向かって投げつけた。くしゃりと軽い音を立てて、レイフのおでこで卵が割れる。
青白い顔を伝って流れていく黄身と白身が、なかなかにシュールだ。
「卵なら、まだまだあるわよ」
武器としてはいささか心もとないけど。生卵をぶつけられて喜ぶ輩などいないだろう。なーんて考えたのが甘かった。
「新鮮な卵ですね。私に投げつけるにも、鮮度にこだわってくださる。ああ、エルヴェーラさまは本当にお優しくていらっしゃる」
ぞぞぞっ。背中を毛虫に這い上がられたような心地がした。
もう、ほんっと気持ち悪い。
「違うし、エルヴェーラじゃないし。ああ、ハンナの卵は新鮮さが命。うわーん、もったいないよぉ。オムレツにしたかったのにぃ」
もう自分でも何を言ってるのか分からないけれど、ソフィは手当たり次第に卵を投げる。どれもレイフのおでこに命中しては、じゅるんと口の中に生卵が吸い込まれていく。
怖いよ、この人。爬虫類かなんかなの?
「う……うぅ、やだぁ気持ち悪いよぉ」
ソフィは、空になったかごを抱えて涙目になった。
「さぁ、私と一緒に参りましょう」
「やだってば! ア……」
アランの名を叫ぼうとした時、坂の下で彼に手を振るグンネルの姿が見えた。とても小さくてマッチ棒くらいだけど、走ってくるグンネルと立ち止まるアランの様子がはっきりと分かる。
坂の上から吹き下ろす風が、枯葉を道の端に集めていく。上着を着ていないソフィは身を震わせた。
「……寒いよ、アラン」
一歩踏み出すと、足の下で卵の殻が砕け散った。
ハンナのアドバイス通り大人になって、秘密は秘密のままで、これまで通りに暮らしていけると思ったのに。
そんなのは所詮まやかしだ、上手くいくはずがないと、もう一人の自分が囁いている。
踏みだすはずの一歩を、後ろに退く。靴の裏で卵の殻は白い砂のように粉々になっていた。
「御身を大切になさってください。このレイフの為にも、あなたのことを第一に考えていた者の為にも」
肩にかけられた上着はずっしりと重く、革の匂いが鼻をかすめた。
「あのアランという男は本名を隠し、我々からエルヴェーラさまを奪った悪党です。グンネルの元配下で、あなたの両親や家族を惨殺したと言うではありませんか。きっとエルヴェーラさまのことも、利用価値があるから生かしておいたのです」
「……アランはそんなことしない」
「いいえ。悪人はえてして善人の仮面をかぶるもの。本当に善人であれば、エルヴェーラさまに本当のことを話していたでしょう。嘘をついても良心の呵責に苛まれないのですよ、奴は」
レイフはアランの悪口を並べ立てている。確かにソフィがエルヴェーラであることをアランは明かしてくれないけれど、それも理由があってのことだと信じている。
なのに、どうして? グンネルとアランが仲よさそうにしているだけで、その信頼がぐらつくの?
「……帰りたくない」
グンネルがいる家には。
ぽつりと呟いた時、レイフが坂に沿って並ぶ家に向かって顎を上げた。家と家の間から、革の上着を羽織った男たちが現れる。
何事と思う間もなく、ソフィは口をふさがれた。
悲鳴も叫び声も、男たちの手の中に消えた。遠くて小さなアランの姿が、霞んでいく。
ぼやけた視界の中、アランが坂の上をふり返ったような気がした。
0
お気に入りに追加
782
あなたにおすすめの小説
契約結婚の軍人は、花嫁の令嬢にまだキスをしていない
絹乃
恋愛
強面イケメンの軍人と令嬢の恋物語。軍人ベルナルトにとって、年の離れたエミーリアは子どもの頃を知っているだけに、キスすらできません。契約結婚ということもあり、罪悪感を覚えるのです。一方、エミーリアはキスしてほしいと望んでいても、それを言い出せません。※ヒロインの幼少期があります。苦手な方はご注意ください。
【完結】お義父様と義弟の溺愛が凄すぎる件
百合蝶
恋愛
お母様の再婚でロバーニ・サクチュアリ伯爵の義娘になったアリサ(8歳)。
そこには2歳年下のアレク(6歳)がいた。
いつもツンツンしていて、愛想が悪いが(実話・・・アリサをーーー。)
それに引き替え、ロバーニ義父様はとても、いや異常にアリサに構いたがる!
いいんだけど触りすぎ。
お母様も呆れからの憎しみも・・・
溺愛義父様とツンツンアレクに愛されるアリサ。
デビュタントからアリサを気になる、アイザック殿下が現れーーーーー。
アリサはの気持ちは・・・。
前世変態学生が転生し美麗令嬢に~4人の王族兄弟に淫乱メス化させられる
KUMA
恋愛
変態学生の立花律は交通事故にあい気付くと幼女になっていた。
城からは逃げ出せず次々と自分の事が好きだと言う王太子と王子達の4人兄弟に襲われ続け次第に男だった律は女の子の快感にはまる。
[R18] 18禁ゲームの世界に御招待! 王子とヤらなきゃゲームが進まない。そんなのお断りします。
ピエール
恋愛
R18 がっつりエロです。ご注意下さい
えーー!!
転生したら、いきなり推しと リアルセッ○スの真っ最中!!!
ここって、もしかしたら???
18禁PCゲーム ラブキャッスル[愛と欲望の宮廷]の世界
私って悪役令嬢のカトリーヌに転生しちゃってるの???
カトリーヌって•••、あの、淫乱の•••
マズイ、非常にマズイ、貞操の危機だ!!!
私、確か、彼氏とドライブ中に事故に遭い••••
異世界転生って事は、絶対彼氏も転生しているはず!
だって[ラノベ]ではそれがお約束!
彼を探して、一緒に こんな世界から逃げ出してやる!
カトリーヌの身体に、男達のイヤラシイ魔の手が伸びる。
果たして、主人公は、数々のエロイベントを乗り切る事が出来るのか?
ゲームはエンディングを迎える事が出来るのか?
そして、彼氏の行方は•••
攻略対象別 オムニバスエロです。
完結しておりますので最後までお楽しみいただけます。
(攻略対象に変態もいます。ご注意下さい)
悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~
一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、
快楽漬けの日々を過ごすことになる!
そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!?
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
騎士団長の欲望に今日も犯される
シェルビビ
恋愛
ロレッタは小さい時から前世の記憶がある。元々伯爵令嬢だったが両親が投資話で大失敗し、没落してしまったため今は平民。前世の知識を使ってお金持ちになった結果、一家離散してしまったため前世の知識を使うことをしないと決意した。
就職先は騎士団内の治癒師でいい環境だったが、ルキウスが男に襲われそうになっている時に助けた結果纏わりつかれてうんざりする日々。
ある日、お地蔵様にお願いをした結果ルキウスが全裸に見えてしまった。
しかし、二日目にルキウスが分身して周囲から見えない分身にエッチな事をされる日々が始まった。
無視すればいつかは収まると思っていたが、分身は見えていないと分かると行動が大胆になっていく。
文章を付け足しています。すいません
スパダリ猟犬騎士は貧乏令嬢にデレ甘です!【R18/完全版】
鶴田きち
恋愛
★初恋のスパダリ年上騎士様に貧乏令嬢が溺愛される、ロマンチック・歳の差ラブストーリー♡
★貧乏令嬢のシャーロットは、幼い頃からオリヴァーという騎士に恋をしている。猟犬騎士と呼ばれる彼は公爵で、イケメンで、さらに次期騎士団長として名高い。
ある日シャーロットは、ひょんなことから彼に逆プロポーズしてしまう。オリヴァーはそれを受け入れ、二人は電撃婚約することになる。婚約者となった彼は、シャーロットに甘々で――?!
★R18シーンは第二章の後半からです。その描写がある回はアスタリスク(*)がつきます
★ムーンライトノベルズ様では第二章まで公開中。(旧タイトル『初恋の猟犬騎士様にずっと片想いしていた貧乏令嬢が、逆プロポーズして電撃婚約し、溺愛される話。』)
★エブリスタ様では【エブリスタ版】を公開しています。
★「面白そう」と思われた女神様は、毎日更新していきますので、ぜひ毎日読んで下さい!
その際は、画面下の【お気に入り☆】ボタンをポチッとしておくと便利です。
いつも読んで下さる貴女が大好きです♡応援ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる