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9、これが初恋

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 一等船室は大階段をあがった、船の上層階にあった。

 客室キャビンには、すでにエレオノーラ達の荷物が運び込まれている。
 ふかふかのカーペットが敷かれたリビングルームには、上質なソファーや椅子が置かれている。
 護衛は、隣の続き部屋にいる。廊下に出ずとも、扉を開けばこの部屋とつながっているようだ。

 窓の外のバルコニーは広く、外にもテーブルと椅子があった。

「バルコニーが、わたしの屋根裏部屋よりも広いです」
「ラウラねー、おそとでねるの」

 海を眺めて、なかなか部屋に戻ってこないエレオノーラとラウラを、オリヴェルが迎えに来た。

「こんなところで寝たら、海に落っこちるぞ」

 運ばれてきたウェルカムドリンクを、オリヴェルはバルコニーのテーブルに置いた。

「わぁ。オレンジジュースだ」
「こぼさないようにな。エレオノーラは酒は飲めるかな」

 椅子に座ったラウラにグラスを渡しながら、オリヴェルが問いかける。

「飲んだことがないんです」
「それなら、少しにした方がいいかな」

 エレオノーラは、お礼を言ってからグラスを手にした。
 細長いグラスはとても繊細で、まるで芸術品のよう。満たされたルビー色のお酒は、微細な泡がつらなっては消えていく。

「おいしいです」
「よかった。カシスのリキュールを炭酸で割ったものだ」

 音を立てぬよう、そっとグラスをテーブルに置くエレオノーラを、オリヴェルが向かいの席から見つめている。
 視線がまっすぐで恥ずかしい。

(もしかして、マナーがなってないのかしら。これまで飲み物といえば、ほとんどお湯でしたから)

「やはりあなたは、幼い頃に行儀作法を教えられているだろうから。手の動きがきれいだな。これまで何度か食事を一緒にとったが、エレオノーラと一緒だと、とても心地がいいんだ」
「あ、ありがとうございます」

 エレオノーラは頬が染まるのを感じた。ほんの少しのアルコールのせいじゃない。オリヴェルに見つめられるのが恥ずかしいのだ。

(これまで急ぐように家を出て、服を仕立てたり、お母さまの実家の公爵家にも挨拶に行ったりと、息つく暇もありませんでした)

 乗船して落ち着いて。エレオノーラは、オリヴェルの妻となることの実感が、ようやく込みあげてきた。

(わたしはオリヴェルさまとラウラと共に生きていくんだわ)

 テーブルにのせたエレオノーラの手に、オリヴェルが手を重ねる。出港を知らせる汽笛が長く鳴る。

「わー、動いたよ。すごーい」
「ラウラさん。いえ、ラウラはこちらに来るときも船に乗ったのでしょう?」

 空になったグラスを置いて、ラウラは手すりの間から外を眺めている。

「あのね、ラウラね。たのしみすぎて、まえのよるにねむれなくて。それでね、おぼえてないの」
「この子は、乗船したとたんに熟睡してしまったんですよ。だから、初めてのようなものですね」

 オリヴェルは苦笑した。

 水平線は、まだ夕暮れの余韻を残してる。港が明るいからなのか、宵なのにカモメが鳴いている。

 オリヴェルは、琥珀色のウイスキーが満たされたグラスを手にした。
 そのまま、エレオノーラに顔を近づける。

 グラスに隠された、ほんの触れるだけのキス。まるで海風が、唇を撫でたかのようだった。

 数瞬後。生まれて初めてのキスだと、エレオノーラは気づいた。
 顔どころか、耳まで熱くなる。耳たぶが燃えている。

「あの、あの……」
「内緒ですよ」

 エレオノーラの唇の前に、オリヴェルが人さし指を添えた。

「なにがないしょなのー?」
「ん? 内緒は内緒だから、内緒というんだ」

 ふり返ったラウラに、オリヴェルはとぼけている。
 ラウラという子どものいる結婚だから。エレオノーラは、母の役を求められているのだと思っていた。

(どうしてこんなに顔が熱いの? 心臓がバクバクと音を立てるの?)

 エレオノーラは苦しくて、ぎゅっとまぶたを閉じた。
 その感情に「初恋」という名があることを、エレオノーラは知らなかった。
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