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3、形見のブローチ
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季節は初夏へと移った。アディエルソン家の領地は広く、大半がなだらかな丘だ。蒼石をとかしたような澄んだ青空の下、風が草の原を渡るのが見える。
あざやかな緑の草が左右に分かれ、爽やかな風が森へと向かう。
森の多い土地なので、この国はどこか息が詰まる感じがする。
「いっそわたしも、家を出られたら自由になれるのに」
今日のエレオノーラの仕事は買い出しだった。今朝、ダニエラに命じられたのだ。
――ドレスについているリボンが気に入らないのよ。お姉さまなら、きれいに刺繍を施してくださるわね。
ダニエラの気まぐれはいつものこと。
――そうねぇ。同色の糸で、こまかく刺繍してちょうだい。花模様がいいわね。ついでにビーズも一緒に刺すのよ。そうだ。裾にもビースの刺繍をしてよ。わたしが踊ると、ドレスの裾が煌めくでしょ。
買い物なら自分が行くと、家政婦長のヨンナは申し出てくれたけど。エレオノーラの負担が減ることを、ダニエラが認めるはずがない。
「本当にもう、どこかに行ってしまいたい」
エレオノーラは、右手に持ったブローチをぎゅっと握りしめた。
ぽとり、と涙がこぼれた。金の縁取りの中央にはめられた宝石はスフェーン。光の加減で蜂蜜色にも、森の色にも見える。少し角度を変えれば、赤やオレンジ色が揺らいでいる。
大事な母の形見だ。母の生家である公爵家の娘が代々受け継ぐブローチは、たいそう美しい。
けれど、今ではブローチの留め金がゆがんでしまっている。
ダニエラに踏みつけられたのだ。
――お姉さまのブローチをつけて、夜会に出たいわ。そうよ。希少な宝石をつければわたしの美しさも際立つし。素敵な出会いがあるはずよ。なんたって、王家が主催するパーティですもの。
義母のイルヴァも賛同した。
――そうね。こんな高価で美麗な宝石は、ダニエラにこそ相応しいわ。エレオノーラ、ブローチを渡しなさい。
いやです、と反論してもダニエラが納得するはずがない。
エレオノーラは父を見やった。母に対して愛情がなくとも、公爵家の宝を愛娘に譲れと命じるほど、愚かではないだろうと期待して。
――子爵家を継ぐ婿が見つかるのだから、ブローチくらい貸してやりなさい。王族の夜会に招かれるのはお前ではない、妹だ。ケチなことを言うものではない。
父はそれだけを言うと、部屋を出ていった。エレオノーラと目を合わせることもなく。
姉ならば、妹に優しくして当たり前。姉ならば、妹のために我慢して当たり前。
ダニエラの我がままを聞き入れない姉が、狭量で悪いのだ。
父はどこまでもイルヴァとダニエラの味方だった。
どうしてもエレオノーラが譲らないと分かると、ダニエラはブローチを取り上げて床に叩きつけた。
――やめて。おねがい、ダニエラ。やめて。
エレオノーラの懇願は、叫びだった。
パキンと儚い音がした。
ブローチの留め具が壊れ、周囲の金がゆがんでしまった。
スフェーンの硬度は高くないのに。宝石が割れなかったのは、不幸中の幸いだった。傷もつかなかったようで、床でまばゆく煌めいている。
今朝のことを思いだすと、涙があふれて止まらない。
(どうしてここまで惨めな扱いを受けないといけないの)
家を出るには、働かなくてはならない。疎遠になっている母の実家に頼るわけにもいかない。
「わたしにできることなんて、針仕事と掃除だけだわ」
働く場所が、アディエルソン家かそれ以外かというだけのこと。
子どもの頃は母や侍女と共に、馬車で出かけていたのに。今では町へ行くにもエレオノーラはひとり、そして徒歩だ。乗合馬車ですら使用できない。
街についたエレオノーラは、布や糸を扱う店に立ち寄った。
店内の棚には、引き出しごとにサイズも素材も様々なボタンが入っている。布も豊富で、糸はまるで絵の具のように色鮮やかだ。
「いい匂い」
エレオノーラは不思議と子どもの頃から、新しい布や糸の匂いが好きだった。母がよく刺繍をしているのを、そばで見ていたからかもしれない。
子どもの頃、母が刺繡してくれたリボンをエレオノーラは持っていた。スミレとスズランの模様のリボンはお気に入りで。髪に結ぶと自分では見えないから、手首によく巻いていた。
あんなに大事にしていたのに。いつの間にか失くしてしまった。
「いつまでも悔いていてもしょうがないわ」
ダニエラのドレスについたリボンは鮮やかなスカーレット。ならば刺繍の糸は同じ赤の系統がいい。
「でも、布も糸もスカーレットなら、きっとダニエラは目立たないって怒るわね」
かといって色を外しすぎると、垢抜けないと文句を言うに違いない。
「いっそのことビーズを無色透明にすれば、澄んだ輝きだけを放つかもしれないわ」
まずはビーズを確認しようと場所を移動する。
その時。とん、とエレオノーラの腰に何かがぶつかった。
母の形見のブローチが、床に落ちた。
あざやかな緑の草が左右に分かれ、爽やかな風が森へと向かう。
森の多い土地なので、この国はどこか息が詰まる感じがする。
「いっそわたしも、家を出られたら自由になれるのに」
今日のエレオノーラの仕事は買い出しだった。今朝、ダニエラに命じられたのだ。
――ドレスについているリボンが気に入らないのよ。お姉さまなら、きれいに刺繍を施してくださるわね。
ダニエラの気まぐれはいつものこと。
――そうねぇ。同色の糸で、こまかく刺繍してちょうだい。花模様がいいわね。ついでにビーズも一緒に刺すのよ。そうだ。裾にもビースの刺繍をしてよ。わたしが踊ると、ドレスの裾が煌めくでしょ。
買い物なら自分が行くと、家政婦長のヨンナは申し出てくれたけど。エレオノーラの負担が減ることを、ダニエラが認めるはずがない。
「本当にもう、どこかに行ってしまいたい」
エレオノーラは、右手に持ったブローチをぎゅっと握りしめた。
ぽとり、と涙がこぼれた。金の縁取りの中央にはめられた宝石はスフェーン。光の加減で蜂蜜色にも、森の色にも見える。少し角度を変えれば、赤やオレンジ色が揺らいでいる。
大事な母の形見だ。母の生家である公爵家の娘が代々受け継ぐブローチは、たいそう美しい。
けれど、今ではブローチの留め金がゆがんでしまっている。
ダニエラに踏みつけられたのだ。
――お姉さまのブローチをつけて、夜会に出たいわ。そうよ。希少な宝石をつければわたしの美しさも際立つし。素敵な出会いがあるはずよ。なんたって、王家が主催するパーティですもの。
義母のイルヴァも賛同した。
――そうね。こんな高価で美麗な宝石は、ダニエラにこそ相応しいわ。エレオノーラ、ブローチを渡しなさい。
いやです、と反論してもダニエラが納得するはずがない。
エレオノーラは父を見やった。母に対して愛情がなくとも、公爵家の宝を愛娘に譲れと命じるほど、愚かではないだろうと期待して。
――子爵家を継ぐ婿が見つかるのだから、ブローチくらい貸してやりなさい。王族の夜会に招かれるのはお前ではない、妹だ。ケチなことを言うものではない。
父はそれだけを言うと、部屋を出ていった。エレオノーラと目を合わせることもなく。
姉ならば、妹に優しくして当たり前。姉ならば、妹のために我慢して当たり前。
ダニエラの我がままを聞き入れない姉が、狭量で悪いのだ。
父はどこまでもイルヴァとダニエラの味方だった。
どうしてもエレオノーラが譲らないと分かると、ダニエラはブローチを取り上げて床に叩きつけた。
――やめて。おねがい、ダニエラ。やめて。
エレオノーラの懇願は、叫びだった。
パキンと儚い音がした。
ブローチの留め具が壊れ、周囲の金がゆがんでしまった。
スフェーンの硬度は高くないのに。宝石が割れなかったのは、不幸中の幸いだった。傷もつかなかったようで、床でまばゆく煌めいている。
今朝のことを思いだすと、涙があふれて止まらない。
(どうしてここまで惨めな扱いを受けないといけないの)
家を出るには、働かなくてはならない。疎遠になっている母の実家に頼るわけにもいかない。
「わたしにできることなんて、針仕事と掃除だけだわ」
働く場所が、アディエルソン家かそれ以外かというだけのこと。
子どもの頃は母や侍女と共に、馬車で出かけていたのに。今では町へ行くにもエレオノーラはひとり、そして徒歩だ。乗合馬車ですら使用できない。
街についたエレオノーラは、布や糸を扱う店に立ち寄った。
店内の棚には、引き出しごとにサイズも素材も様々なボタンが入っている。布も豊富で、糸はまるで絵の具のように色鮮やかだ。
「いい匂い」
エレオノーラは不思議と子どもの頃から、新しい布や糸の匂いが好きだった。母がよく刺繍をしているのを、そばで見ていたからかもしれない。
子どもの頃、母が刺繡してくれたリボンをエレオノーラは持っていた。スミレとスズランの模様のリボンはお気に入りで。髪に結ぶと自分では見えないから、手首によく巻いていた。
あんなに大事にしていたのに。いつの間にか失くしてしまった。
「いつまでも悔いていてもしょうがないわ」
ダニエラのドレスについたリボンは鮮やかなスカーレット。ならば刺繍の糸は同じ赤の系統がいい。
「でも、布も糸もスカーレットなら、きっとダニエラは目立たないって怒るわね」
かといって色を外しすぎると、垢抜けないと文句を言うに違いない。
「いっそのことビーズを無色透明にすれば、澄んだ輝きだけを放つかもしれないわ」
まずはビーズを確認しようと場所を移動する。
その時。とん、とエレオノーラの腰に何かがぶつかった。
母の形見のブローチが、床に落ちた。
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