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1、義母に嫌われました
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子爵令嬢であるエレオノーラ・アディエルソンが五歳の時。優しかった母が亡くなった。
広い屋敷のどこを探しても、笑顔で迎えてくれる母がいない。どの扉を開けても、ただ閑散してうす暗いだけ。
夜中に廊下をぱたぱたと走り、母親を探す一人娘のことを父である子爵はたいそう心配した。
「安心なさい。エレオノーラ。いずれ新しいお母さんが来るぞ」
「あたらしいおかあさん?」
まだ小さなエレオノーラは、母が戻ってくるのだと信じた。まさか別人が、母親を名乗るなど考えもしなかった。
だから、母が戻ってくるまでの一年間、わくわくしながら過ごした。
「あたらしいって、おかあさま、どんなふうにあたらしくなるのかな。金の髪じゃなくなるのかな。エレオノーラとおなじ、はちみつ色になるのかな。だったらおそろいだわ」
うさぎのぬいぐるみを抱いて、うれしそうにエレオノーラが話すたび、乳母はまぶたを閉じてうつむいた。
一年後。アディエルソン家にやってきた女性は、母とは似ても似つかなかった。
「はじめまして、おかあさま」
礼儀正しく挨拶をするエレオノーラを、新しい母は冷たく一瞥した。その瞳の奥に、氷が宿っているかのように。
「わたくしはあなたの母親ではありません。前妻の子など、目障りだわ。今後はわたくしの前に出ないように」
イルヴァと名乗った女性は、声まで凍てついた冬を思わせた。容姿は大輪の花が咲いたようにあでやかで、闇夜の黒髪を結いあげていた。
彼女の後ろには、小さな女の子が立っていた。
エレオノーラの母であるエリーカは、柔らかなラベンダー色の瞳。イルヴァは凍りつくようなアイスブルーの瞳。
そして物静かな母とは違い、イルヴァの気性は苛烈だった。それを情熱ととらえたのか、父の子爵はイルヴァに夢中になった。
おとなしい娘のことなど、忘れてしまったかのように、いつもイルヴァと共にいる。
女の子は父の血を引いていて、妹だと説明された。
「はじめまして」とエレオノーラが声をかけても、ダニエラという女の子はそっぽを向いた。
イルヴァによく似た、はっきりとした顔立ちだった。
「イルヴァ。ようやく君と一緒に暮らせるな。前の妻とは政略結婚だったからな」
後妻に話しかける父の声は、聞いたことがないほどに甘い。
「あら。あの頃は、公爵の娘との結婚に浮かれてらしたじゃないの。ひどい人。でも、あの娘を見れば分かります。前妻が地味でぱっとしないことを、恥じてらしたのでしょう?」
「分かるか。さすがだな、イルヴァ」
父とイルヴァは、娘に聞こえていることも構わずに愛を囁きあった。
エレオノーラに対しては吹雪のような、冷たく粗いイルヴァの声も、父に対してはとろけるように甘い。
エレオノーラはウサギのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
お出かけした時に、母が買ってくれたお気に入りだ。
いつも一緒のぬいぐるみの耳が取れると、母が縫ってくれた。メイドが「わたくしがやりますのに」と言っても、母は自分で針を動かした。
ぬいぐるみのしっぽが外れても、中の綿が出ても。いつも母が直してくれた。
メイドが繕うと申し出てくれても、エレオノーラは断った。
(だって、お母さまが直してくださるんだもの)
月のない夜。屋敷近くの森を吹く風が、ざわざわと音を立てる。空に雲がかかっているのか、星明かりもほとんどない。
夜中に目覚めたエレオノーラは、暗闇から聞こえる音におびえた。遠くに聞こえる鹿の声が悲鳴みたいで。低く鳴くふくろうの声が魔物のようで。
こんな時に抱きしめてくれた母はいない。
(お母さまがもどってらっしゃるって、お父さまはおっしゃっていたのに)
せめて父の側にいよう。そうすれば眠れるにちがいない。
エレオノーラはぬいぐるみを抱きしめて、暗い廊下を走った。
父の寝室の扉をノックしようとしたとき。ギィッと扉が開いた。
エレオノーラの体がすくむ。
「何しにきたの」
エレオノーラを見下ろしていたのは、イルヴァだった。部屋から洩れる明かりに、イルヴァが眉根を寄せているのが分かった。酷薄な瞳は、不機嫌を隠そうともしていない。
「ちが、ちがうの」
「『違います』でしょ。満足にしゃべることもできないの?」
「わたし、お父さまにおやすみなさいを言いたくて」
怖いから、部屋に入れてほしいとはエレオノーラは言い出せなかった。
「勝手に寝ればいいじゃない」
イルヴァの口から、お酒のにおいが漂った。母親がまとっていたのは、薔薇やラベンダーといった花の香りだったのに。イルヴァから香るのはきつい香水か、お酒のにおいばかりだ。
「ほんとうに暗くて、覇気のない子ね。人の寝室を覗く卑しさは、母親に似たのかしら」
「お母さまはかんけいないっ」
エレオノーラは、常にはない大きな声を発した。
(わたしは、いやしくなんてない。それにお母さまは、かんけいない)
「ああ、うるさいわね。だから子どもって嫌いなのよ」
「どうした? イルヴァ」
「あなたの娘が、覗きに来たのよ。夫婦の寝室を盗み見るなんて、いったいどんな教育を受けてきたのかしら。わたくしだったら、自分の娘にそんないやらしい真似はさせないし、許さないわ。だって子爵令嬢にあるまじき行為でしょう?」
そのイルヴァの言葉が、きっかけとなった。
父がエレオノーラの存在を恥じることになったのは。
広い屋敷のどこを探しても、笑顔で迎えてくれる母がいない。どの扉を開けても、ただ閑散してうす暗いだけ。
夜中に廊下をぱたぱたと走り、母親を探す一人娘のことを父である子爵はたいそう心配した。
「安心なさい。エレオノーラ。いずれ新しいお母さんが来るぞ」
「あたらしいおかあさん?」
まだ小さなエレオノーラは、母が戻ってくるのだと信じた。まさか別人が、母親を名乗るなど考えもしなかった。
だから、母が戻ってくるまでの一年間、わくわくしながら過ごした。
「あたらしいって、おかあさま、どんなふうにあたらしくなるのかな。金の髪じゃなくなるのかな。エレオノーラとおなじ、はちみつ色になるのかな。だったらおそろいだわ」
うさぎのぬいぐるみを抱いて、うれしそうにエレオノーラが話すたび、乳母はまぶたを閉じてうつむいた。
一年後。アディエルソン家にやってきた女性は、母とは似ても似つかなかった。
「はじめまして、おかあさま」
礼儀正しく挨拶をするエレオノーラを、新しい母は冷たく一瞥した。その瞳の奥に、氷が宿っているかのように。
「わたくしはあなたの母親ではありません。前妻の子など、目障りだわ。今後はわたくしの前に出ないように」
イルヴァと名乗った女性は、声まで凍てついた冬を思わせた。容姿は大輪の花が咲いたようにあでやかで、闇夜の黒髪を結いあげていた。
彼女の後ろには、小さな女の子が立っていた。
エレオノーラの母であるエリーカは、柔らかなラベンダー色の瞳。イルヴァは凍りつくようなアイスブルーの瞳。
そして物静かな母とは違い、イルヴァの気性は苛烈だった。それを情熱ととらえたのか、父の子爵はイルヴァに夢中になった。
おとなしい娘のことなど、忘れてしまったかのように、いつもイルヴァと共にいる。
女の子は父の血を引いていて、妹だと説明された。
「はじめまして」とエレオノーラが声をかけても、ダニエラという女の子はそっぽを向いた。
イルヴァによく似た、はっきりとした顔立ちだった。
「イルヴァ。ようやく君と一緒に暮らせるな。前の妻とは政略結婚だったからな」
後妻に話しかける父の声は、聞いたことがないほどに甘い。
「あら。あの頃は、公爵の娘との結婚に浮かれてらしたじゃないの。ひどい人。でも、あの娘を見れば分かります。前妻が地味でぱっとしないことを、恥じてらしたのでしょう?」
「分かるか。さすがだな、イルヴァ」
父とイルヴァは、娘に聞こえていることも構わずに愛を囁きあった。
エレオノーラに対しては吹雪のような、冷たく粗いイルヴァの声も、父に対してはとろけるように甘い。
エレオノーラはウサギのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
お出かけした時に、母が買ってくれたお気に入りだ。
いつも一緒のぬいぐるみの耳が取れると、母が縫ってくれた。メイドが「わたくしがやりますのに」と言っても、母は自分で針を動かした。
ぬいぐるみのしっぽが外れても、中の綿が出ても。いつも母が直してくれた。
メイドが繕うと申し出てくれても、エレオノーラは断った。
(だって、お母さまが直してくださるんだもの)
月のない夜。屋敷近くの森を吹く風が、ざわざわと音を立てる。空に雲がかかっているのか、星明かりもほとんどない。
夜中に目覚めたエレオノーラは、暗闇から聞こえる音におびえた。遠くに聞こえる鹿の声が悲鳴みたいで。低く鳴くふくろうの声が魔物のようで。
こんな時に抱きしめてくれた母はいない。
(お母さまがもどってらっしゃるって、お父さまはおっしゃっていたのに)
せめて父の側にいよう。そうすれば眠れるにちがいない。
エレオノーラはぬいぐるみを抱きしめて、暗い廊下を走った。
父の寝室の扉をノックしようとしたとき。ギィッと扉が開いた。
エレオノーラの体がすくむ。
「何しにきたの」
エレオノーラを見下ろしていたのは、イルヴァだった。部屋から洩れる明かりに、イルヴァが眉根を寄せているのが分かった。酷薄な瞳は、不機嫌を隠そうともしていない。
「ちが、ちがうの」
「『違います』でしょ。満足にしゃべることもできないの?」
「わたし、お父さまにおやすみなさいを言いたくて」
怖いから、部屋に入れてほしいとはエレオノーラは言い出せなかった。
「勝手に寝ればいいじゃない」
イルヴァの口から、お酒のにおいが漂った。母親がまとっていたのは、薔薇やラベンダーといった花の香りだったのに。イルヴァから香るのはきつい香水か、お酒のにおいばかりだ。
「ほんとうに暗くて、覇気のない子ね。人の寝室を覗く卑しさは、母親に似たのかしら」
「お母さまはかんけいないっ」
エレオノーラは、常にはない大きな声を発した。
(わたしは、いやしくなんてない。それにお母さまは、かんけいない)
「ああ、うるさいわね。だから子どもって嫌いなのよ」
「どうした? イルヴァ」
「あなたの娘が、覗きに来たのよ。夫婦の寝室を盗み見るなんて、いったいどんな教育を受けてきたのかしら。わたくしだったら、自分の娘にそんないやらしい真似はさせないし、許さないわ。だって子爵令嬢にあるまじき行為でしょう?」
そのイルヴァの言葉が、きっかけとなった。
父がエレオノーラの存在を恥じることになったのは。
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