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1、王女モニカ
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二十二歳になったモニカ王女は、王宮の回廊を小走りに歩いていた。
向かう先は、王家のお抱えの刺繍作家であるフロレンシアの工房だ。
「早く、フロレンシアに見てもらわなくっちゃ」
独り言でも声が弾む。
モニカは淡い金色の髪をひとつに結び、夏らしく半そでのブラウスに、くるぶしまでのミントグリーンのスカートだ。
簡素な装いではあるが。モニカ自身のもつ華やかさと身長の高さ、澄んだ青い瞳で、とても華麗に見える。
王宮の回廊はとてつもなく長い。だが、そんなことはどうでもいい。
小走りのつもりが、つい走り出し。とうとうモニカは全力疾走してしまった。
「フロレンシア。聞いてちょうだい!」
ノックと声をかけるのが同時だった。
バァン! と音でもしそうな勢いで、モニカはドアを開いた。
忙しないふるまいは、王女としての品位に欠けると分かっているのに。気持ちが急いてしまう。
だって……だって。
「おはようございます。モニカさま」
刺繍作家のフロレンシアは、これまで王宮の一室に暮らしていたけれど。今では結婚して、王宮の近くに住んでいる。
二十八歳になるフロレンシアには、すでに子どもがいる。まだ生まれて間もない赤ん坊は、工房に置いてあるベビーベッドでよく眠っていた。
「あ、ごめんなさい。テオフィラが起きちゃうわね」
さっきまでの勢いをすぐに決して、モニカ王女は声をひそめた。
「いいんですよ。テオフィラは賑やかでもよく寝る子ですから」
「まぁね。お父さんのエミリオは声が大きいものね」
「エミリオさまは騎士団の副団長ですから。よく声が通りますよね。テオフィラは女の子ですけど、エミリオさまに似ているってよく言われるんですよ」
柔らかく微笑んだフロレンシアは、とても幸せそうだ。
「まだエミリオさまって呼んでるの?」
勧められた椅子に、モニカは椅子に腰かけた。
フロレンシアは伯爵と離婚したいきさつがあるから。元の夫には無視され、会話もろくになかった。
伯爵夫人であるのに使用人からは馬鹿にされ続けていたせいだろうか。エミリオと夫婦となっても、フロレンシアは、どこか遠慮があるように見える。
ふつうの夫婦なら、子供ができれば夫を尻に敷くというか。妻の方がえらそうにしているものなのに。フロレンシアは謙虚なままだ。
(騎士団でも、エミリオはよく羨ましがられているのよね)
団長や部下たちに、夫婦仲のよさを冷やかされて。エミリオは照れながらも、嬉しくてたまらなさそうだ。
「いえ、その、家では敬称はつけていませんよ」
「ふーん。どうやって呼んでるの?」
ちょっとからかってみたくなった。
「名前で、ですよ」
椅子に座って、刺繍糸を針に通そうとしていたフロレンシアだが。どうしても針の穴に糸が通らないようだ。
六歳も上なのに、二度目の結婚なのに。純情な彼女を見ると、ついからかいたくなってしまう。
「なるほど。じゃあエミリオは? 家では、フロラって呼んでいるのかしら?」
「そうではないですね。『花』という意味では、似たような感じですけれど」
「そぉねぇ。フロレンシアは『咲き誇る花』って意味だものね」
何気なく言っただけなのに。モニカの言葉に、突然フロレンシアが頬を染めた。
(お、これは図星かな)
モニカは内心わくわくした。
本来の用事も忘れたまま。
「あ、いえ。愛称も『花』って意味で呼ばれていますよ。はい」
何度も針穴に通そうとした刺繍糸は、先端がよれてしまっている。
おとなしくて、いつも落ち着いているフロレンシアが取り乱すのは珍しい。
「殿下。依頼されていたリネンのハンカチですけれど。もうすぐ仕上がりそうです」
「まぁ。話を逸らすなんて、ひどいわ。で? 家ではなんて呼ばれているの?」
フロレンシアは、うつむいて瞼を閉じた。
言えない。
普段はエミリオは、ふつうに「フロレンシア」と呼んでいるけれど。騎士団の仕事でしばらく家を空けた後。帰宅した時には、フロレンシアを玄関でぎゅっと抱きしめて「俺の愛しい百花」と耳もとで囁くのだ。
百の花を集めた存在であると、エミリオに褒められて。背中がくすぐったくなるけれど。とても嬉しくて、自然と顔がほころんでしまう。
そんな恥ずかしいことを、王女に話せるはずがない。
「ところで。何か御用だったのでは? 手紙を持っていらっしゃいますね」
深呼吸をしたフロレンシアは、モニカ王女の手元に目をやった。
モニカは美しい青い瞳を、大きく見開いた。
「そうだ。思い出した」
形勢逆転。今度はモニカが頬を染める番だった。
「て、手紙が来たのよ。クラウスから」
「まぁ。ノルトラインさまからですか」
「そうよ。お父さまに大事なお話があるらしいわ」
「いいお話だといいですね」
フロレンシアの言わんとすることを察したモニカは、急にもぞもぞと両手の指を組んだり外したりした。
モニカは裏表のない、はっきりとした気質をしている。
だがそんなモニカの唯一の弱点が、公爵家の次男であるクラウス・ノルトラインだ。モニカよりも十三歳上の三十五歳。
男勝りなところのあるモニカも、クラウスの前では少女になってしまう。
モニカの初恋の相手だ。
向かう先は、王家のお抱えの刺繍作家であるフロレンシアの工房だ。
「早く、フロレンシアに見てもらわなくっちゃ」
独り言でも声が弾む。
モニカは淡い金色の髪をひとつに結び、夏らしく半そでのブラウスに、くるぶしまでのミントグリーンのスカートだ。
簡素な装いではあるが。モニカ自身のもつ華やかさと身長の高さ、澄んだ青い瞳で、とても華麗に見える。
王宮の回廊はとてつもなく長い。だが、そんなことはどうでもいい。
小走りのつもりが、つい走り出し。とうとうモニカは全力疾走してしまった。
「フロレンシア。聞いてちょうだい!」
ノックと声をかけるのが同時だった。
バァン! と音でもしそうな勢いで、モニカはドアを開いた。
忙しないふるまいは、王女としての品位に欠けると分かっているのに。気持ちが急いてしまう。
だって……だって。
「おはようございます。モニカさま」
刺繍作家のフロレンシアは、これまで王宮の一室に暮らしていたけれど。今では結婚して、王宮の近くに住んでいる。
二十八歳になるフロレンシアには、すでに子どもがいる。まだ生まれて間もない赤ん坊は、工房に置いてあるベビーベッドでよく眠っていた。
「あ、ごめんなさい。テオフィラが起きちゃうわね」
さっきまでの勢いをすぐに決して、モニカ王女は声をひそめた。
「いいんですよ。テオフィラは賑やかでもよく寝る子ですから」
「まぁね。お父さんのエミリオは声が大きいものね」
「エミリオさまは騎士団の副団長ですから。よく声が通りますよね。テオフィラは女の子ですけど、エミリオさまに似ているってよく言われるんですよ」
柔らかく微笑んだフロレンシアは、とても幸せそうだ。
「まだエミリオさまって呼んでるの?」
勧められた椅子に、モニカは椅子に腰かけた。
フロレンシアは伯爵と離婚したいきさつがあるから。元の夫には無視され、会話もろくになかった。
伯爵夫人であるのに使用人からは馬鹿にされ続けていたせいだろうか。エミリオと夫婦となっても、フロレンシアは、どこか遠慮があるように見える。
ふつうの夫婦なら、子供ができれば夫を尻に敷くというか。妻の方がえらそうにしているものなのに。フロレンシアは謙虚なままだ。
(騎士団でも、エミリオはよく羨ましがられているのよね)
団長や部下たちに、夫婦仲のよさを冷やかされて。エミリオは照れながらも、嬉しくてたまらなさそうだ。
「いえ、その、家では敬称はつけていませんよ」
「ふーん。どうやって呼んでるの?」
ちょっとからかってみたくなった。
「名前で、ですよ」
椅子に座って、刺繍糸を針に通そうとしていたフロレンシアだが。どうしても針の穴に糸が通らないようだ。
六歳も上なのに、二度目の結婚なのに。純情な彼女を見ると、ついからかいたくなってしまう。
「なるほど。じゃあエミリオは? 家では、フロラって呼んでいるのかしら?」
「そうではないですね。『花』という意味では、似たような感じですけれど」
「そぉねぇ。フロレンシアは『咲き誇る花』って意味だものね」
何気なく言っただけなのに。モニカの言葉に、突然フロレンシアが頬を染めた。
(お、これは図星かな)
モニカは内心わくわくした。
本来の用事も忘れたまま。
「あ、いえ。愛称も『花』って意味で呼ばれていますよ。はい」
何度も針穴に通そうとした刺繍糸は、先端がよれてしまっている。
おとなしくて、いつも落ち着いているフロレンシアが取り乱すのは珍しい。
「殿下。依頼されていたリネンのハンカチですけれど。もうすぐ仕上がりそうです」
「まぁ。話を逸らすなんて、ひどいわ。で? 家ではなんて呼ばれているの?」
フロレンシアは、うつむいて瞼を閉じた。
言えない。
普段はエミリオは、ふつうに「フロレンシア」と呼んでいるけれど。騎士団の仕事でしばらく家を空けた後。帰宅した時には、フロレンシアを玄関でぎゅっと抱きしめて「俺の愛しい百花」と耳もとで囁くのだ。
百の花を集めた存在であると、エミリオに褒められて。背中がくすぐったくなるけれど。とても嬉しくて、自然と顔がほころんでしまう。
そんな恥ずかしいことを、王女に話せるはずがない。
「ところで。何か御用だったのでは? 手紙を持っていらっしゃいますね」
深呼吸をしたフロレンシアは、モニカ王女の手元に目をやった。
モニカは美しい青い瞳を、大きく見開いた。
「そうだ。思い出した」
形勢逆転。今度はモニカが頬を染める番だった。
「て、手紙が来たのよ。クラウスから」
「まぁ。ノルトラインさまからですか」
「そうよ。お父さまに大事なお話があるらしいわ」
「いいお話だといいですね」
フロレンシアの言わんとすることを察したモニカは、急にもぞもぞと両手の指を組んだり外したりした。
モニカは裏表のない、はっきりとした気質をしている。
だがそんなモニカの唯一の弱点が、公爵家の次男であるクラウス・ノルトラインだ。モニカよりも十三歳上の三十五歳。
男勝りなところのあるモニカも、クラウスの前では少女になってしまう。
モニカの初恋の相手だ。
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