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7、自由に
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「よろしければ、殿下に絹のハンカチを献上いたしますが。来月赴くのは、絹で有名な国なので」
おどおどとした口調のディマスは、明らかにモニカの機嫌を取ろうとしている。
日常使いのリネンと違い、絹のハンカチは相当に高価だ。
モニカは小首をかしげた後で、ディマスを見据えた。
「いやぁよ。分かってないのね。それでフロレンシアの夫を名乗るなんて、おこがましいわ。わたくしはフロレンシアの刺繍が入っているのがいいの」
「おそれながら、殿下。伯爵はもうフロレンシアさまの夫ではございません」
「あら?」
エミリオの言葉に、モニカは目を丸くする。
「はい。さきほど、わたしは離縁されました。手続きは今度、進めて参ります」
「そうなの?」
フロレンシアはうなずいた。
「いや、あれは売り言葉に買い言葉というか。その、単なる失言というか」
おどおどと潔くない言葉を、ディマスは口にする。
「離縁に偽りはないと、わたしは確認いたしました」
「そうだな。俺も聞いた。伯爵は夫人と離縁すると、二度言った」
フロレンシアとエミリオが嘘をつくはずない、とモニカは確信したようだ。
「わかりました。では、フロレンシアは王宮にいらっしゃい。あなたのお部屋と仕事部屋を用意しましょう。王家のお抱えにしてしまっては、他のお客さまに怒られるから。さすがにそれはしないけれど。でも、刺繍に時間を使うことができるわ」
「殿下。こんなみすぼらしい女を王宮に住まわせるなんてっ」
「お黙りなさい!」
訴えるディマスに対し、モニカは声を荒げた。
「妻に対して使用人以下の扱いをしてたから。ろくに服も仕立ててあげず、食事も与えていないから、フロレンシアはやせ細ってしまったのよ。夫であるあなたの責任ね」
「ですが、こんな女」
ディマスは、フロレンシアを指さす。
「言葉を控えろ。モニカさまと、殿下が認めたフロレンシアさまに対して不敬である」
廊下に、エミリオの凛とした声が響いた。
「フロレンシアさまへの非道な扱いは、貴族ならば誰もが知っている。仮にもお前が伯爵であるから、お前の妻であるから、この家から救い出すことができなかったのだ」
エミリオはディマスを見おろした。身長の高いエミリオの冷ややかな目に睨まれて、ディマスはよろけながら一歩下がった。
「だがフロレンシアさまは、晴れて自由な身となった」
「よかったぁ。ずっと気になっていたのよね。先代の伯爵はいい人だったから、フロレンシアのご両親も結婚させたのでしょうけど。まーぁ、あり得ないわよね。こんな性根の腐った男にこき使われるなんて」
「ね?」とモニカ王女に微笑まれて、フロレンシアは目の前が開けて見えた。
寒々しい廊下が、輝いて見える。
ひと月後。
夜の間に降った雪は、朝には木々も庭も白く染めていた。
粉砂糖をふりかけたような景色は、まるで絵本みたいだ。
今日、伯爵家を出ていくフロレンシアを迎えに来たのは、エミリオだった。
「モニカ殿下が、早くフロレンシアさまを連れてくるようにと急かすので、大変でした」
柔らかな声で話しながら、騎士服のエミリオがトランクを持つ。
たったひとつだけの、フロレンシアの荷物を馬車に積み込んだ。
「五年はここに暮らしていらしたのに。少ないですね」
「本当ですね。生活していたようには思えません」
メイドの方が持ち物が多いだろう。フロレンシアは苦笑した。
「でも荷物が少ない分、身軽に旅立つことができます」
「確かに」
見送りは家令だけだった。
屋敷を出ていくまでの一か月。ディマスはフロレンシアを避けていた。
親族から愛人を家に迎えることを、厳しく叱責されたらしい。フロレンシアに愛人とその子の世話をさせようとしていたことも。妻と離縁したことも。
ディマス自身の行いのせいで、爵位を他の者に譲った方がいいという話が、親族の間で議論されているようだ。
馬車も御者もモニカが寄越してくれたものだ。「伯爵の馬車を王宮に入れたくなんてないわ」と、たいそう怒っていたらしい。
屋敷を見あげると、二階の窓の陰からフロレンシアをうかがう姿がある。ディマスだろう。
フロレンシアを先にワゴンに乗せて、隣の席にエミリオが座った。
彼女の頭や肩に降りかかった雪を、エミリオが手で払ってくれる。
「二人きりなんて、緊張します」
「そうですか? 洗濯の時もティーハウスでも二人きりでしたよ」
余裕のある笑顔を浮かべるエミリオだが。膝の上に置いた手は、きつく握りしめられていた。
(もしかして、エミリオさまも実は緊張なさっているの?)
「ハンカチを返さないままで、申し訳ありませんでした」
「いえ?」
急にどうしたのだろう、とフロレンシアは首を傾げた。
「返さずにいれば、またあなたに会える機会ができるだろうと。引き延ばしておりました。騎士らしくありませんね」
馬車は走り出した。車輪の音が、エミリオの声に重なって聞き取りにくい。
けれど、彼の頬がすこし赤らんでいることに、フロレンシアは気づいた。
「この屋敷の主も、そう遠くない未来に代わるでしょう。使用人も家令以外は、全員入れ替えるようです。使用人は紹介状も書いてもらえないので、次の仕事を見つけられないでしょう」
「いい思い出はひとつもなかったけれど。エミリオさまが、わたしを案じてくれたことだけは心に残っています」
勇気を出してフロレンシアは告げた。
エミリオは一瞬目を見開いてから、遅れてやわらかく微笑んだ。
「これからはもっとあなたと一緒にいますよ。これでも副団長ですので、王宮には出入りしやすいのです」
フロレンシアを閉じこめていた屋敷が、小さくなっていく。
馬車の外では、雲間から射す光を浴びて雪景色の丘がきらきらと煌めいていた。
(了)
おどおどとした口調のディマスは、明らかにモニカの機嫌を取ろうとしている。
日常使いのリネンと違い、絹のハンカチは相当に高価だ。
モニカは小首をかしげた後で、ディマスを見据えた。
「いやぁよ。分かってないのね。それでフロレンシアの夫を名乗るなんて、おこがましいわ。わたくしはフロレンシアの刺繍が入っているのがいいの」
「おそれながら、殿下。伯爵はもうフロレンシアさまの夫ではございません」
「あら?」
エミリオの言葉に、モニカは目を丸くする。
「はい。さきほど、わたしは離縁されました。手続きは今度、進めて参ります」
「そうなの?」
フロレンシアはうなずいた。
「いや、あれは売り言葉に買い言葉というか。その、単なる失言というか」
おどおどと潔くない言葉を、ディマスは口にする。
「離縁に偽りはないと、わたしは確認いたしました」
「そうだな。俺も聞いた。伯爵は夫人と離縁すると、二度言った」
フロレンシアとエミリオが嘘をつくはずない、とモニカは確信したようだ。
「わかりました。では、フロレンシアは王宮にいらっしゃい。あなたのお部屋と仕事部屋を用意しましょう。王家のお抱えにしてしまっては、他のお客さまに怒られるから。さすがにそれはしないけれど。でも、刺繍に時間を使うことができるわ」
「殿下。こんなみすぼらしい女を王宮に住まわせるなんてっ」
「お黙りなさい!」
訴えるディマスに対し、モニカは声を荒げた。
「妻に対して使用人以下の扱いをしてたから。ろくに服も仕立ててあげず、食事も与えていないから、フロレンシアはやせ細ってしまったのよ。夫であるあなたの責任ね」
「ですが、こんな女」
ディマスは、フロレンシアを指さす。
「言葉を控えろ。モニカさまと、殿下が認めたフロレンシアさまに対して不敬である」
廊下に、エミリオの凛とした声が響いた。
「フロレンシアさまへの非道な扱いは、貴族ならば誰もが知っている。仮にもお前が伯爵であるから、お前の妻であるから、この家から救い出すことができなかったのだ」
エミリオはディマスを見おろした。身長の高いエミリオの冷ややかな目に睨まれて、ディマスはよろけながら一歩下がった。
「だがフロレンシアさまは、晴れて自由な身となった」
「よかったぁ。ずっと気になっていたのよね。先代の伯爵はいい人だったから、フロレンシアのご両親も結婚させたのでしょうけど。まーぁ、あり得ないわよね。こんな性根の腐った男にこき使われるなんて」
「ね?」とモニカ王女に微笑まれて、フロレンシアは目の前が開けて見えた。
寒々しい廊下が、輝いて見える。
ひと月後。
夜の間に降った雪は、朝には木々も庭も白く染めていた。
粉砂糖をふりかけたような景色は、まるで絵本みたいだ。
今日、伯爵家を出ていくフロレンシアを迎えに来たのは、エミリオだった。
「モニカ殿下が、早くフロレンシアさまを連れてくるようにと急かすので、大変でした」
柔らかな声で話しながら、騎士服のエミリオがトランクを持つ。
たったひとつだけの、フロレンシアの荷物を馬車に積み込んだ。
「五年はここに暮らしていらしたのに。少ないですね」
「本当ですね。生活していたようには思えません」
メイドの方が持ち物が多いだろう。フロレンシアは苦笑した。
「でも荷物が少ない分、身軽に旅立つことができます」
「確かに」
見送りは家令だけだった。
屋敷を出ていくまでの一か月。ディマスはフロレンシアを避けていた。
親族から愛人を家に迎えることを、厳しく叱責されたらしい。フロレンシアに愛人とその子の世話をさせようとしていたことも。妻と離縁したことも。
ディマス自身の行いのせいで、爵位を他の者に譲った方がいいという話が、親族の間で議論されているようだ。
馬車も御者もモニカが寄越してくれたものだ。「伯爵の馬車を王宮に入れたくなんてないわ」と、たいそう怒っていたらしい。
屋敷を見あげると、二階の窓の陰からフロレンシアをうかがう姿がある。ディマスだろう。
フロレンシアを先にワゴンに乗せて、隣の席にエミリオが座った。
彼女の頭や肩に降りかかった雪を、エミリオが手で払ってくれる。
「二人きりなんて、緊張します」
「そうですか? 洗濯の時もティーハウスでも二人きりでしたよ」
余裕のある笑顔を浮かべるエミリオだが。膝の上に置いた手は、きつく握りしめられていた。
(もしかして、エミリオさまも実は緊張なさっているの?)
「ハンカチを返さないままで、申し訳ありませんでした」
「いえ?」
急にどうしたのだろう、とフロレンシアは首を傾げた。
「返さずにいれば、またあなたに会える機会ができるだろうと。引き延ばしておりました。騎士らしくありませんね」
馬車は走り出した。車輪の音が、エミリオの声に重なって聞き取りにくい。
けれど、彼の頬がすこし赤らんでいることに、フロレンシアは気づいた。
「この屋敷の主も、そう遠くない未来に代わるでしょう。使用人も家令以外は、全員入れ替えるようです。使用人は紹介状も書いてもらえないので、次の仕事を見つけられないでしょう」
「いい思い出はひとつもなかったけれど。エミリオさまが、わたしを案じてくれたことだけは心に残っています」
勇気を出してフロレンシアは告げた。
エミリオは一瞬目を見開いてから、遅れてやわらかく微笑んだ。
「これからはもっとあなたと一緒にいますよ。これでも副団長ですので、王宮には出入りしやすいのです」
フロレンシアを閉じこめていた屋敷が、小さくなっていく。
馬車の外では、雲間から射す光を浴びて雪景色の丘がきらきらと煌めいていた。
(了)
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