2 / 7
2、生意気なメイド長
しおりを挟む
翌日の午後。フロレンシアは自室で刺繍をしていた。
刺繍は得意だ。鳥や花の模様を組み合わせて、ベッドカバーやテーブルクロスを飾っていく。
男爵の実家は古い家系だが、領地は狭く収入も少なかった。
それゆえ、フロレンシアは手芸の腕を高めた。
フロレンシアの刺繍は、結婚式のドレスやベールで人気だ。しかも王族が日々使用するハンカチやリネン類に施された頭文字の刺繍も、彼女の手になるものだ。
結婚してからも、刺繍の注文は途切れることなく入ってくる。
『今度、ドレスの刺繍の打ち合わせに王宮に来てほしいのだけれど。でも、都合がつかないのなら、わたくしが伯爵家に参ります。デザイン画を用意しておくわね』
モニカ王女からの手紙を、フロレンシアは思いだしていた。
ほかにも、刺繍のお礼の手紙をくれる令嬢や夫人も多い。
上流階級のなかで、フロレンシアは名の売れた刺繍作家だ。
「生きていくだけのお金なら、あるんだけれど」
窓の外を眺めながら、フロレンシアはため息をついた。
庭の木々はほとんどの葉を落としている。重く曇った空から、ちらほらと雪が舞い降りてきた。
「でも妹が出戻れば、お兄さまの縁談がまとまらなくなってしまうわ」
一人暮らしをしてもいいのだけれど。夫が素直に離婚に応じるかは分からない。
「愛情なんてかけらもないのにね。あの人は平民の愛人と結婚できないから、仕方なくわたしを妻にしただけだし。両親も伯爵からの求婚を断ることはできなかったもの」
ささくれだった心は、一針一針と模様を刺していくごとに落ちついてくる。
足もとが冷えるが、暖炉のない部屋なので我慢するしかない。
静寂を破る音が響いた。
苛立たしげにドアがノックされたのだ。
「夫は今日は帰らないと聞いていたけれど」
返事をする前に、ドアは勢いよく開く。
「奥さま。なんですか、この服は。汚れが落ちてないじゃないですか。臭いも残っています」
入ってきたのは年配のメイド長だった。背後にはランドリーメイドをふたり、伴っている。
「わたしたち、ちゃんと奥さまに頼んだんですよ。仕事が忙しいから、お願いしますって」
「でも、奥さまは意地が悪いから。ちょっと水で濡らしただけで終わらせてるんです」
まるで自分たちが正しいかのように、メイド達は訴えている。
メイド長は、眉間にしわを寄せてフロレンシアを睨みつけた。
「伯爵に捨てられているくせに。たかが男爵の娘のくせに。なにが『奥さま』ですか! この館に住まわせてもらっているだけでも、あなたは感謝しないといけないんですよ」
きんきんと甲高い声が、室内に響く。
メイド長もランドリーメイドも、夫である伯爵も知らない。フロレンシアの刺繍が、王族から贔屓にされていることを。
フロレンシアは、思わず笑いをこぼしてしまった。
副団長のエミリオが想像していたよりも、メイド達の質がずっとずっと悪かったからだ。
「メイド達が仕事をさぼるのは許すのに、わたしが手を抜くと怒るんですね。あなたは面白いですね。それで部下の教育ができるのですか? ああ、だからまっとうなメイドがこの家にはいないんですね」
すらすらと言葉が出てきたのは、今朝、エミリオが味方になってくれたからかもしれない。
洗濯の不備は、副団長に文句を言えとエミリオは言ってくれた。当然口にはできないけれど。
メイド長は顔をまっ赤にした。
指の筋が浮き立つほどに、乾いた洗濯物を握りしめている。
「旦那さまに言いつけてやりますっ。じきに戻っていらっしゃいますから、覚悟なさるように!」
バンッ、と派手な音を立ててドアが閉まる。
「今日は夕食抜きかしら」
フロレンシアは肩を落とした。
メイド長を怒らせれば食事抜き。夫が外で夕食をとる日は、フロレンシアの食事は硬くなったパンに、野菜くずが浮いているだけのスープ。使用人達の方が、まともなもの食べている。
結婚してから五年の間に、フロレンシアはやせ細ってしまった。
夫とベッドを共にしたことはないけれど。もし体を重ねたとしても、この栄養状態の悪さでは、子供などできないだろう。
実家の両親には、自分が虐待にも似た扱いを受けていることは話していない。
心配をかけさせたくないのだ。
(それでも噂は耳にしているはずだわ。いつでも戻ってきなさいと、お父さまもお母さまも話してくれたことがあるもの)
ただ男爵家の娘である自分から、は伯爵である夫に離縁をつきつけることはできない。
離婚してくれれば、楽になれるののに。
刺繍は得意だ。鳥や花の模様を組み合わせて、ベッドカバーやテーブルクロスを飾っていく。
男爵の実家は古い家系だが、領地は狭く収入も少なかった。
それゆえ、フロレンシアは手芸の腕を高めた。
フロレンシアの刺繍は、結婚式のドレスやベールで人気だ。しかも王族が日々使用するハンカチやリネン類に施された頭文字の刺繍も、彼女の手になるものだ。
結婚してからも、刺繍の注文は途切れることなく入ってくる。
『今度、ドレスの刺繍の打ち合わせに王宮に来てほしいのだけれど。でも、都合がつかないのなら、わたくしが伯爵家に参ります。デザイン画を用意しておくわね』
モニカ王女からの手紙を、フロレンシアは思いだしていた。
ほかにも、刺繍のお礼の手紙をくれる令嬢や夫人も多い。
上流階級のなかで、フロレンシアは名の売れた刺繍作家だ。
「生きていくだけのお金なら、あるんだけれど」
窓の外を眺めながら、フロレンシアはため息をついた。
庭の木々はほとんどの葉を落としている。重く曇った空から、ちらほらと雪が舞い降りてきた。
「でも妹が出戻れば、お兄さまの縁談がまとまらなくなってしまうわ」
一人暮らしをしてもいいのだけれど。夫が素直に離婚に応じるかは分からない。
「愛情なんてかけらもないのにね。あの人は平民の愛人と結婚できないから、仕方なくわたしを妻にしただけだし。両親も伯爵からの求婚を断ることはできなかったもの」
ささくれだった心は、一針一針と模様を刺していくごとに落ちついてくる。
足もとが冷えるが、暖炉のない部屋なので我慢するしかない。
静寂を破る音が響いた。
苛立たしげにドアがノックされたのだ。
「夫は今日は帰らないと聞いていたけれど」
返事をする前に、ドアは勢いよく開く。
「奥さま。なんですか、この服は。汚れが落ちてないじゃないですか。臭いも残っています」
入ってきたのは年配のメイド長だった。背後にはランドリーメイドをふたり、伴っている。
「わたしたち、ちゃんと奥さまに頼んだんですよ。仕事が忙しいから、お願いしますって」
「でも、奥さまは意地が悪いから。ちょっと水で濡らしただけで終わらせてるんです」
まるで自分たちが正しいかのように、メイド達は訴えている。
メイド長は、眉間にしわを寄せてフロレンシアを睨みつけた。
「伯爵に捨てられているくせに。たかが男爵の娘のくせに。なにが『奥さま』ですか! この館に住まわせてもらっているだけでも、あなたは感謝しないといけないんですよ」
きんきんと甲高い声が、室内に響く。
メイド長もランドリーメイドも、夫である伯爵も知らない。フロレンシアの刺繍が、王族から贔屓にされていることを。
フロレンシアは、思わず笑いをこぼしてしまった。
副団長のエミリオが想像していたよりも、メイド達の質がずっとずっと悪かったからだ。
「メイド達が仕事をさぼるのは許すのに、わたしが手を抜くと怒るんですね。あなたは面白いですね。それで部下の教育ができるのですか? ああ、だからまっとうなメイドがこの家にはいないんですね」
すらすらと言葉が出てきたのは、今朝、エミリオが味方になってくれたからかもしれない。
洗濯の不備は、副団長に文句を言えとエミリオは言ってくれた。当然口にはできないけれど。
メイド長は顔をまっ赤にした。
指の筋が浮き立つほどに、乾いた洗濯物を握りしめている。
「旦那さまに言いつけてやりますっ。じきに戻っていらっしゃいますから、覚悟なさるように!」
バンッ、と派手な音を立ててドアが閉まる。
「今日は夕食抜きかしら」
フロレンシアは肩を落とした。
メイド長を怒らせれば食事抜き。夫が外で夕食をとる日は、フロレンシアの食事は硬くなったパンに、野菜くずが浮いているだけのスープ。使用人達の方が、まともなもの食べている。
結婚してから五年の間に、フロレンシアはやせ細ってしまった。
夫とベッドを共にしたことはないけれど。もし体を重ねたとしても、この栄養状態の悪さでは、子供などできないだろう。
実家の両親には、自分が虐待にも似た扱いを受けていることは話していない。
心配をかけさせたくないのだ。
(それでも噂は耳にしているはずだわ。いつでも戻ってきなさいと、お父さまもお母さまも話してくれたことがあるもの)
ただ男爵家の娘である自分から、は伯爵である夫に離縁をつきつけることはできない。
離婚してくれれば、楽になれるののに。
159
お気に入りに追加
1,423
あなたにおすすめの小説
【完結】私が貴方の元を去ったわけ
なか
恋愛
「貴方を……愛しておりました」
国の英雄であるレイクス。
彼の妻––リディアは、そんな言葉を残して去っていく。
離婚届けと、別れを告げる書置きを残された中。
妻であった彼女が突然去っていった理由を……
レイクスは、大きな後悔と、恥ずべき自らの行為を知っていく事となる。
◇◇◇
プロローグ、エピローグを入れて全13話
完結まで執筆済みです。
久しぶりのショートショート。
懺悔をテーマに書いた作品です。
もしよろしければ、読んでくださると嬉しいです!
【完結】選ばれなかった王女は、手紙を残して消えることにした。
曽根原ツタ
恋愛
「お姉様、私はヴィンス様と愛し合っているの。だから邪魔者は――消えてくれない?」
「分かったわ」
「えっ……」
男が生まれない王家の第一王女ノルティマは、次の女王になるべく全てを犠牲にして教育を受けていた。
毎日奴隷のように働かされた挙句、将来王配として彼女を支えるはずだった婚約者ヴィンスは──妹と想いあっていた。
裏切りを知ったノルティマは、手紙を残して王宮を去ることに。
何もかも諦めて、崖から湖に飛び降りたとき──救いの手を差し伸べる男が現れて……?
★小説家になろう様で先行更新中
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
義妹と一緒になり邪魔者扱いしてきた婚約者は…私の家出により、罰を受ける事になりました。
coco
恋愛
可愛い義妹と一緒になり、私を邪魔者扱いする婚約者。
耐えきれなくなった私は、ついに家出を決意するが…?
義妹がすぐに被害者面をしてくるので、本当に被害者にしてあげましょう!
新野乃花(大舟)
恋愛
「フランツお兄様ぁ〜、またソフィアお姉様が私の事を…」「大丈夫だよエリーゼ、僕がちゃんと注意しておくからね」…これまでにこのような会話が、幾千回も繰り返されれきた。その度にソフィアは夫であるフランツから「エリーゼは繊細なんだから、言葉や態度には気をつけてくれと、何度も言っているだろう!!」と責められていた…。そしてついにソフィアが鬱気味になっていたある日の事、ソフィアの脳裏にあるアイディアが浮かんだのだった…!
※過去に投稿していた「孤独で虐げられる気弱令嬢は次期皇帝と出会い、溺愛を受け妃となる」のIFストーリーになります!
※カクヨムにも投稿しています!
妹が私こそ当主にふさわしいと言うので、婚約者を譲って、これからは自由に生きようと思います。
雲丹はち
恋愛
「ねえ、お父さま。お姉さまより私の方が伯爵家を継ぐのにふさわしいと思うの」
妹シエラが突然、食卓の席でそんなことを言い出した。
今まで家のため、亡くなった母のためと思い耐えてきたけれど、それももう限界だ。
私、クローディア・バローは自分のために新しい人生を切り拓こうと思います。
ごめんなさい、お淑やかじゃないんです。
ましろ
恋愛
「私には他に愛する女性がいる。だから君は形だけの妻だ。抱く気など無い」
初夜の場に現れた途端、旦那様から信じられない言葉が冷たく吐き捨てられた。
「なるほど。これは結婚詐欺だと言うことですね!」
「……は?」
自分の愛人の為の政略結婚のつもりが、結婚した妻はまったく言う事を聞かない女性だった!
「え、政略?それなら最初に条件を提示してしかるべきでしょう?後出しでその様なことを言い出すのは詐欺の手口ですよ」
「ちなみに実家への愛は欠片もないので、経済的に追い込んでも私は何も困りません」
口を開けば生意気な事ばかり。
この結婚、どうなる?
✱基本ご都合主義。ゆるふわ設定。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる