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九章 呂充儀

8、優しい人

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 夜が降りてきた。食堂へ向かう翠鈴は、途中まで光柳たちと共に歩いた。

 春の夜は、甘い香りの風が吹く。
 後宮内の小路では、すでに仕事を終えたり、食事を済ませた宮女や女官がのんびりと歩いている。
 暗がりなので、遠目では光柳がいるとは気づかないようだ。騒ぐでもなく、ただたゆたう水面のような会話が聞こえてくる。

「呂充儀に、明日も来いと言われてしまったな」
「そうですね」

 光柳の口調はきつい。雲嵐は、ため息交じりに応じた。

「仕事があるので、さすがに断りましたが」
「それでも、仕事終わりや休憩時間に会いに来いと命じていた」

 道に転がる石を、光柳は蹴った。ころろ、と転がる石をまた蹴る。ほんとうは力いっぱい蹴飛ばしたいのではないかと、翠鈴は推察する。

「なぁ。放っておいていいだろう? 雲嵐があのひんにかまってやる義理はない」

 それはそうだろう。翠鈴も同感した。
 本来ならば、呂充儀を見舞うのは皇帝のはずだ。だが、よりにもよって妊娠した充儀が、四夫人である蘭淑妃の宮に転がり込んでいる。

(陛下もさすがに、未央宮にお越しになるのは無理だよね)

 もしかしたら雲嵐に会いたいというだけではなく。陛下と会いたくないという理由もあって、呂充儀は未央宮に逃げこんだのかもしれない。

(ううん。考えすぎかな。そこまで周到に計画を練るような人には見えないし)

 仕事終わりの時間は、開放感があって好きだ。夕食を終えたら宮女の宿舎に戻るか、もういちど未央宮に顔を出すか。それとも夜更けに薬を売りに行くか。

 日々のくり返しが続くことが、翠鈴にとっては安心感につながっている。
 だが、今夜は違う。気が重い。

 翠鈴が利用する食堂の前で、光柳は立ちどまった。

「あの充儀は、早く文彗宮ぶんけいきゅうに戻した方がいい」
「はい、わたしもそう思います」

「だが、決定するのは蘭淑妃だ。そして、呂充儀が動けないと主張するならば、淑妃であっても指示は難しい」

 言ったところで、しょうがないと分かっているのだろう。光柳はため息をこぼした。

 食堂の開いた扉から、にぎやかな話し声が聞こえてくる。食器のふれあう音。醤油や、ネギと生姜を炒めたときの香ばしい匂い。食堂内の明るい光が、外まで照らしている。

 だから余計にだろうか。光柳の背後に控える雲嵐が、夜の暗さににじんで見えた。

「大丈夫ですか? 雲嵐さま」
「平気ですよ」

 雲嵐は即答した。
 だが、次の瞬間。今にも泣きそうに眉を下げたのだ。

「いえ、嘘はいけませんね。その、ひどく疲れました」

 驚いたことに、雲嵐は前に立つ光柳の肩にとんっと、ひたいをつけた。
 光柳はびっくりした様子もない。ただ視線を、ちらっと雲嵐に向けただけだ。その目つきは優しい。

「子供の頃から、いつも雲嵐は『いい子』でいたからな。『いい子』に疲れた時は、こうして私にくっつくんだ」
「くっつき虫だと、光柳さまによくからかわれました」

 瞼を閉じて、雲嵐が苦笑した。
 笑顔がくたびれている。呂充儀の話し相手が、どれほど雲嵐の精神をすり減らしていたのかが、手に取るように伝わってくる。

「そうそう。雲嵐がへこんだ時は、背中合わせで座ったりな。窮屈だから離れてほしくても、くっつき虫は退いてくれないんだよ」
「寒い時期にちょうどいいんですよ」
「何を言ってるんだ、雲嵐。夏の暑い離宮でも、汗をかきながら背中をくっつけてきただろう。あれは苦行だったぞ」

 からかわれるのに、離れないんだ。
 疑問に思った翠鈴だが。すぐに腑に落ちた。すでに雲嵐が、軽口を叩いていたからだ。

(ああ、そうか。雲嵐さまにとって、光柳さまは守るべき存在であり。同時に守られてもいるんだ)

 光柳は繊細で神経質なところがある。だからこそ、いつも温厚な雲嵐が心の面でも支えているように思えるが。

 優しい人は、極限まで我慢する傾向がある。
 そんな雲嵐の心を支えてあげられるのは、共に育った光柳だけだろう。

 それほどに、呂充儀の無邪気な攻撃に雲嵐は疲弊している。

「あの人は、誰と話をしているんでしょう。私に誰を重ねているんでしょう」

 せめて呂充儀が、目の前にいる雲嵐と対話してくれたのなら。雲嵐は、こんなにも疲れなかったのかもしれない。
 手放したくはないのに、日参しろというのに。

 自分と同郷の、過去を共有する人物を演じろと命じられているようなものだ。
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