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九章 呂充儀
6、言わぬ優しさ
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翠鈴は、呂充儀の部屋へと光柳を案内した。
すでに雲嵐は、先に入っている。
(これで充儀さまも、落ち着かれるといいんだけど)
雲嵐と故郷の話をすれば、妊娠の不安も少しは紛れるかもしれない。
でも。ほんとうに話ははずむの?
頭をかすめた疑問は、鳥のように一瞬にして飛び去った。
「あなたは杜雲嵐というのね」
翠鈴が扉を開いたとき。軽やかな呂充儀の声が聞こえてきた。
「懐かしいわ。侍女以外の同郷の人に出会えるなんて」
雲嵐は、寝台の前の椅子に座っている。いつもの穏やかな表情だ。
「わたくしね。故郷で仲のよかった友人がいたのよ。杜葉児というのだけれど。あなたの妹かしら。それとも従妹? ああ、瞼を閉じると見えるようだわ」
呂充儀は語りはじめた。
地面を焦がすほどに暑い昼が過ぎると、道沿いにどこまでも並んだ楊柳の木が影絵のように見える。
ロバの牽く荷車を追い越して、馬で駆けていく爽快さ。
「ねぇ、あなたも馬には乗れるのでしょ」
「はい。一応は」
雲嵐は控えめに答えた。
「あら、残念。その程度なの? 見かけ倒しなのね。わたくし馬の扱いは上手なのよ。今は無理だけれど、いずれ乗馬を教えてあげるわ」
雲嵐はただ謙遜しているだけだ。
なのに呂充儀は、得意げに話し続ける。滔々と。
無駄話に付きあわされている幼なじみを、光柳は腕を組んで見据えている。壁に背を預けて立ったままで。
「葉児は元気かしら。もうとうに嫁入りしたわよね。あの子ったら面白いのよ。雲嵐さん、覚えてる?」
「いえ、私はその方を存じあげません」
「いくら辺境の小国とはいえ、わたくしは息国の王族ですもの。勝手に出歩くことなんてできないでしょう? なのに、葉児ったら、町を出て平原に行こうって誘うのよ」
「平原、ですか」
雲嵐の言葉に、呂充儀は声をひそめた。
「そうよ。蛮族が暮らす土地までは遠いけれど。平原の端までなら、馬で駆ければ半日で着くわ。蛮族は、何十年も前に奴隷として旧い杷国に連れていかれたって聞くけれど。まだ残っている人もいるから、度胸試しね」
わたくしは怖いもの知らずだから、と呂充儀は笑った。
雲嵐の表情は変わらない。静かな笑みをたたえたままだ。むしろ、あえて顔に気持ちを出していないともいえる。
翠鈴の隣に立つ光柳が、舌打ちをした。
ほんの小さな音で。苦々しさの満ちた舌打ちは、翠鈴にしか聞こえなかった。
(これ、まずいんじゃないの?)
翠鈴は、雲嵐の生い立ちは詳しくはない。
けれど、共に湯泉宮に行ったときに話を聞いたことがある。
雲嵐は、呂充儀が蛮族と見下している平原の民だ。
呂充儀が故郷の王国で公主であったときには、雲嵐はすでに新杷国の離宮で暮らしていただろう。
「杜」という苗字も、のちに便宜的につけられたもので。「雲嵐」の名も、光柳があげたものだ。
たしか、雲嵐の本当の名は「サン」だったのではないか。
数字の「三」で、三番目の子の意味だ。
「見つかったら怒られるから。そーっと王宮を抜け出してね。ほら、葉児って怖がりでしょ。『やめましょうよ』って何度も訴えるのよ」
呂充儀が楽しそうに語れば語るほどに、雲嵐の影は濃くなっていく。
王族である呂充儀には、想像がつかないのだろう。
故郷で蔑視してきた民族の子孫が、王都の後宮にいることをなど。
先祖が奴隷であれば、いつまでも襤褸をまとった奴婢のままでいると思い込んでいる。
「おい……」
我慢しきれなくなったのだろう。とうとう光柳が一歩を踏みだした。
だが、雲嵐は軽く手をあげて、光柳を制す。
庇いだては無用、という風に。
呂充儀は、なおも思い出話を語る。彼女の過去に雲嵐は存在していないのに。まるで友人の葉児と会話するように。
淡い褐色の肌が似ている。それ以外、雲嵐と葉児に一致する部分などなかろうに。性別すら違うのに。
「どういうことだ。人違いどころか、捏造だ」
「雲嵐さまは、あえて話にのってさしあげてるんですよ。杜葉児のことを知らぬと言っても、充儀さまには聞こえていないんですから」
翠鈴は、小声で光柳に伝える。
「なんで話を聞く必要がある」
「呂充儀さまは、陛下の子を宿して不安でいらっしゃるんです。今の状況で、呂充儀の里帰りは無理です。雲嵐さまは、その遠さをよくご存じです。呂充儀さまは、ご自分の宮から逃げ出したくなるほどに心細いのですよ」
「愚弄されてまで、親切にする理由がない。相手のことを考えぬのなら、充儀は壁に向かってしゃべればいい」
光柳の主張ももっともだ。
呂充儀は雲嵐を同じ王国の人間だと信じて疑わない。確認すらしない。
たぶん誰でもいいのだろう。西の匂いのする人間であれば。
「お優しいんですよ。雲嵐さまは」
「私には厳しいぞ」
光柳は口を尖らせた。
そうかなぁ? 光柳さまほど、雲嵐さまに甘やかされている人はいないと思うけど。
呂充儀さまの話を聞いてあげているのは、ただ表面的な優しさだ。親身になればなるほど、口うるさくなるのはしょうがないと思う。
すでに雲嵐は、先に入っている。
(これで充儀さまも、落ち着かれるといいんだけど)
雲嵐と故郷の話をすれば、妊娠の不安も少しは紛れるかもしれない。
でも。ほんとうに話ははずむの?
頭をかすめた疑問は、鳥のように一瞬にして飛び去った。
「あなたは杜雲嵐というのね」
翠鈴が扉を開いたとき。軽やかな呂充儀の声が聞こえてきた。
「懐かしいわ。侍女以外の同郷の人に出会えるなんて」
雲嵐は、寝台の前の椅子に座っている。いつもの穏やかな表情だ。
「わたくしね。故郷で仲のよかった友人がいたのよ。杜葉児というのだけれど。あなたの妹かしら。それとも従妹? ああ、瞼を閉じると見えるようだわ」
呂充儀は語りはじめた。
地面を焦がすほどに暑い昼が過ぎると、道沿いにどこまでも並んだ楊柳の木が影絵のように見える。
ロバの牽く荷車を追い越して、馬で駆けていく爽快さ。
「ねぇ、あなたも馬には乗れるのでしょ」
「はい。一応は」
雲嵐は控えめに答えた。
「あら、残念。その程度なの? 見かけ倒しなのね。わたくし馬の扱いは上手なのよ。今は無理だけれど、いずれ乗馬を教えてあげるわ」
雲嵐はただ謙遜しているだけだ。
なのに呂充儀は、得意げに話し続ける。滔々と。
無駄話に付きあわされている幼なじみを、光柳は腕を組んで見据えている。壁に背を預けて立ったままで。
「葉児は元気かしら。もうとうに嫁入りしたわよね。あの子ったら面白いのよ。雲嵐さん、覚えてる?」
「いえ、私はその方を存じあげません」
「いくら辺境の小国とはいえ、わたくしは息国の王族ですもの。勝手に出歩くことなんてできないでしょう? なのに、葉児ったら、町を出て平原に行こうって誘うのよ」
「平原、ですか」
雲嵐の言葉に、呂充儀は声をひそめた。
「そうよ。蛮族が暮らす土地までは遠いけれど。平原の端までなら、馬で駆ければ半日で着くわ。蛮族は、何十年も前に奴隷として旧い杷国に連れていかれたって聞くけれど。まだ残っている人もいるから、度胸試しね」
わたくしは怖いもの知らずだから、と呂充儀は笑った。
雲嵐の表情は変わらない。静かな笑みをたたえたままだ。むしろ、あえて顔に気持ちを出していないともいえる。
翠鈴の隣に立つ光柳が、舌打ちをした。
ほんの小さな音で。苦々しさの満ちた舌打ちは、翠鈴にしか聞こえなかった。
(これ、まずいんじゃないの?)
翠鈴は、雲嵐の生い立ちは詳しくはない。
けれど、共に湯泉宮に行ったときに話を聞いたことがある。
雲嵐は、呂充儀が蛮族と見下している平原の民だ。
呂充儀が故郷の王国で公主であったときには、雲嵐はすでに新杷国の離宮で暮らしていただろう。
「杜」という苗字も、のちに便宜的につけられたもので。「雲嵐」の名も、光柳があげたものだ。
たしか、雲嵐の本当の名は「サン」だったのではないか。
数字の「三」で、三番目の子の意味だ。
「見つかったら怒られるから。そーっと王宮を抜け出してね。ほら、葉児って怖がりでしょ。『やめましょうよ』って何度も訴えるのよ」
呂充儀が楽しそうに語れば語るほどに、雲嵐の影は濃くなっていく。
王族である呂充儀には、想像がつかないのだろう。
故郷で蔑視してきた民族の子孫が、王都の後宮にいることをなど。
先祖が奴隷であれば、いつまでも襤褸をまとった奴婢のままでいると思い込んでいる。
「おい……」
我慢しきれなくなったのだろう。とうとう光柳が一歩を踏みだした。
だが、雲嵐は軽く手をあげて、光柳を制す。
庇いだては無用、という風に。
呂充儀は、なおも思い出話を語る。彼女の過去に雲嵐は存在していないのに。まるで友人の葉児と会話するように。
淡い褐色の肌が似ている。それ以外、雲嵐と葉児に一致する部分などなかろうに。性別すら違うのに。
「どういうことだ。人違いどころか、捏造だ」
「雲嵐さまは、あえて話にのってさしあげてるんですよ。杜葉児のことを知らぬと言っても、充儀さまには聞こえていないんですから」
翠鈴は、小声で光柳に伝える。
「なんで話を聞く必要がある」
「呂充儀さまは、陛下の子を宿して不安でいらっしゃるんです。今の状況で、呂充儀の里帰りは無理です。雲嵐さまは、その遠さをよくご存じです。呂充儀さまは、ご自分の宮から逃げ出したくなるほどに心細いのですよ」
「愚弄されてまで、親切にする理由がない。相手のことを考えぬのなら、充儀は壁に向かってしゃべればいい」
光柳の主張ももっともだ。
呂充儀は雲嵐を同じ王国の人間だと信じて疑わない。確認すらしない。
たぶん誰でもいいのだろう。西の匂いのする人間であれば。
「お優しいんですよ。雲嵐さまは」
「私には厳しいぞ」
光柳は口を尖らせた。
そうかなぁ? 光柳さまほど、雲嵐さまに甘やかされている人はいないと思うけど。
呂充儀さまの話を聞いてあげているのは、ただ表面的な優しさだ。親身になればなるほど、口うるさくなるのはしょうがないと思う。
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