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九章 呂充儀

1、こちらは、どなた?

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 早朝。空は瑠璃の粉を溶いたかのような藍色に包まれている。
 まだ蘭淑妃や侍女たちは眠っているようだが。すでに食堂の煙突からは湯気が立ちのぼり、空へと吸いこまれていた。

「ちょっと、ちょっと、翠鈴ツイリン。大変よ」

 先に未央宮の門をくぐった由由ヨウヨウが、外に飛んで出てきた。まだうす暗いのに。由由の顔が青ざめているのが分かる。

「どうしよう。どうしたらいいの?」
「何かあったの?」

 門を抜けた翠鈴は「うわっ」と声を上げた。
 柔らかいものにつまずいたのだ。甘ったるい脂粉のにおいが鼻をかすめた。

 動物じゃない。人だ。大人。え? でも後宮で? しかも未央宮の敷地内で? 蘭淑妃じゃないよね。侍女でもないよね。じゃあ誰?

 一瞬のうちに、さまざまな考えが泡のように生じては消える。
 かろうじて転ばずにすんだ翠鈴は、倒れている女性の側にしゃがんだ。

「どうなさったんですか?」

「失礼します」と声をかけて、女性の鼻のあたりに手を添える。微かではあるが呼吸を感じる。
 けれど勝手に動かしていいのかどうか、判断がつかない。

「由由。医局に……いいえ、まだこの時間は誰も出勤していないわね。女官の宿舎に行けば胡玲がいるし、他の医官もそろそろ食堂に行く頃だから。医官を連れてきて」
「わかった」

 由由は駆けだした。
 場合によっては、医官が医者を呼んでくれるだろう。

 風が吹いた。庭に咲く雪柳の小さく白い花が、火影のように揺られてこぼれていく。
 散る花はまるで小雪のようで。地に伏した女性の体に降りかかる。

蔡昭媛ツァイしょうえんさま」

 どうしてだろう。翠鈴の口から、今はもう後宮にいない嬪の名が紡がれた。
 確か蔡昭媛の名は、雪雪シュエシュエであった。

◇◇◇

 未央宮で女性が倒れていた日の朝。

 皇帝である劉傑倫リウジエルン朝議ちょうぎに出ていた。

 早朝に、内廷の門の前に官吏を集めて報告を聞く。二日に一度の会議だ。
 なにも外で会議を開かずともと、劉傑倫は常々思っているが。伝統だと言われれば、しょうがない。

 三十も半ばを過ぎると、若さは遠い過去のものだ。とくに今年は雪が多くて朝議に出るのも難儀した。

 とにかく冷えるのだ。
 もこもこに厚着をしては、皇帝の威厳に関わる気もするが。寒さには勝てない。風は冷たく、しかも底冷えというのか足もとから寒さが這いあがってきていた。

「春の朝議は、暖かくて助かるな」

 朝議を終えた帰り道。執務室までもう少しというところで、傑倫ジエルンは側近に呼びとめられた。

 側近は人払いをした後で、皇帝に耳打ちした。よほどのことだ。
 潔倫は眉間に深いしわを刻む。

「主上。呂充儀ルーじゅうぎさまが行方不明だそうです」
「は?」

 直接耳の奥に届いた言葉を、傑倫は理解できなかった。

「誘拐……は、ありえんか」
「女官の中には、宦官と恋仲になる者もおりますが」

 つまり夜明けまでの逢瀬を楽しむために、呂充儀は宮を抜け出したということか。

「まさか。光柳クアンリュウの元へ向かったのではあるまいな」
「では書令史しょれいしの部屋を捜せばよろしいですね。今日の朝議で陛下のお言葉を記していたのは、松光柳ではありませんでしたから」

 うぬぬ、と傑倫ジエルンは親指の爪を噛む。
 皇帝らしからぬ行為だと、暁慶から注意されることがあるが。今ここに暁慶はいない。

「もし呂充儀さまと松光柳が供におりましたら。彼を罰すればよろしいですね」
「そなたはバカかっ!」

 あまりの大声に、側近は顔を強ばらせる。だが、頭に血が上っている皇帝は気づかない。

「双方とも大事に決まっておろうが。光柳の美貌と品性に、女性が血迷ってしまうこともあるだろう。それは呂充儀の罪でも、光柳の罪でもない」

 とにかく光柳を変な虫から守らなければならない。そして、呂充儀を変な虫にさせてはならない。

 傑倫は今も怒り続けている。
 少年であった光柳に懸想して、しつこく付きまとった宮女たちのことを。元々繊細であった光柳は、世話係の宮女たちのせいで神経質になってしまった。

 そして一時期の光柳を人間不信にまで追い込んだ、叔父の少波シャオボーのことを。
 いや。あんな下衆は叔父でもなんでもない。

(どうなさったのか。何か心境の変化でもおありになったのだろうか)

 側近は呆気にとられた。

 これまでの皇帝は、皇后と四夫人は丁重に遇していたが。九嬪やそれ以下の側室には関心が薄かったはずだ。

 彼は知る由もない。皇帝が、娘である桃莉タオリィ公主に「いい子じゃない?」「わるい子?」なのかと問い詰められてしまったことを。
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