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八章 陽だまりの花園
15、苦土と素鶏【2】
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「薬を飲めば、足の攣りは治まります。ですが、夜更けや夜明けにふくらはぎや足指の痛みで目を覚ますのは、おつらいでしょう」
翠鈴の説明に、皇帝は大きく目を見開き「確かに」と呟いた。
「そうだ、ここのところ熟睡できておらぬのだ。もっと薬湯を飲めばいいのか?」
「いいえ。調理の時に岩塩ではなく海塩を用いるように、御膳房にお命じください。さらに豆腐脳や豆奬、魚をお召しあがりになれば、症状は徐々に治まるでしょう」
「塩に違いがあるのか?」
「ございます」
皇帝は料理などなさらないから、塩にも種類があるとは知らぬだろう。
岩塩は地下から採掘したものだ。海塩は海水を蒸発させたもの。
肉料理には岩塩のほうが味が引き立っておいしい。だが、海塩には岩塩にはない栄養が含まれている。それは海で育った魚や海藻にも多い。苦い味がするので、苦土と呼ばれる。
苦土は、大豆にも含まれているが。残念ながら、陛下は大豆をお好みではない。
「分かった。そなたの言うことを、御膳房に伝えさせよう。豆腐は好きではないのだが」
「素鶏という、鶏に食感の似た押し豆腐がございます。調理法で、かなり鶏肉に近くなるようです」
「ほぉ」と、皇帝は感心しながら翠鈴の頭の先からつま先まで眺める。
威厳に満ちた自分の父親が、翠鈴の話にじっと耳を傾けているからだろうか。桃莉公主が、おずおずと翠鈴の手を握った。
「ツイリン、タオリィとたんぽぽのおちゃをつくったんだよ」
小さな手に、ぎゅっと力がこもるのが翠鈴の指に伝わって来た。
めったに物怖じしない翠鈴が、緊張しているものだから。桃莉なりに、励ましてくれているようだ。
「そうかそうか。たいしたものだ」
皇帝は破顔した。ようやく娘から話しかけてもらえたのだから、喜びもひとしおだろう。
「はっぱとねっこをきざんで、かわかすの。タオリィだったら、そのままぎゅーってしぼるんだけど」
それはお茶なのか? むしろ飲んでは体に障るのでは?
問いたい気持ちを、陛下は呑みこんだようだ。
だが桃莉との会話の腰を折りたくないのだろう。「うんうん」と目を細めてうなずいている。
「さて、忘れぬうちに御膳房に使いをやらねばな。戻るとするか」
陛下は桃莉の頭を撫で、そして踵を返した。
「畏れながら主上。今夜も呂充儀さまの元へお渡りになるのでは」
後ろに控える呉正鳴が、言葉を発する。その声が震えている。閨房渡りを記録する宦官は、基本的に皇帝と言葉を交わすことなどないのだろう。
「いや、よしておこう。呂充儀に伝えておいてくれ」
陛下一行の姿が遠くなり、翠鈴は肩を落とした。
緊張なんてものじゃない。どっと疲れが出てしまった。
◇◇◇
「ユィンラン。だっこ、だっこ」
桃莉は、雲嵐の前でぴょんぴょんと跳ねている。
茎だけになったたんぽぽの束が、桃莉の動きにあわせて揺れた。
「おとうさま、かえったから。ツイリンみたいにはしって」
「あの、翠鈴。これはどういうことでしょうか」
明らかに困惑を顔に浮かべた雲嵐が、翠鈴に視線を送る。
ですよね。事情が分かりませんよね。
「この間、手洗いを拒んだ桃莉さまを抱えて、井戸まで走ったんです。それがたいそうお気に召したようで」
「そうですか。大変でしたね」
普段から桃莉の手が泥まみれなのを、雲嵐は知っているからだろう。翠鈴にねぎらいの言葉をかけてくれた。
「では、公主さま。失礼いたします」
ひょいと雲嵐に抱えられて、桃莉は「わぁ」と歓声を上げる。
左腕にすっぽりと収まった桃莉は、雲嵐の頭にしがみついている。
一緒に宮城の外に出たことがあるから、その時に懐いたのかもしれない。翠鈴は推測した。
「たかいねぇ。ほしがちかいよ」
すでに空には星が瞬いていた。薄い雲が、ところどころ紗の布を広げたようにかかっている。
さすがに公主を抱えて走るのは憚られたのだろう。雲嵐は、未央宮の塀の前をゆっくりと歩いている。
桃莉のはしゃぐ声が遠くなる。どこか異国の言葉を聞いているかのようだ。
翠鈴の説明に、皇帝は大きく目を見開き「確かに」と呟いた。
「そうだ、ここのところ熟睡できておらぬのだ。もっと薬湯を飲めばいいのか?」
「いいえ。調理の時に岩塩ではなく海塩を用いるように、御膳房にお命じください。さらに豆腐脳や豆奬、魚をお召しあがりになれば、症状は徐々に治まるでしょう」
「塩に違いがあるのか?」
「ございます」
皇帝は料理などなさらないから、塩にも種類があるとは知らぬだろう。
岩塩は地下から採掘したものだ。海塩は海水を蒸発させたもの。
肉料理には岩塩のほうが味が引き立っておいしい。だが、海塩には岩塩にはない栄養が含まれている。それは海で育った魚や海藻にも多い。苦い味がするので、苦土と呼ばれる。
苦土は、大豆にも含まれているが。残念ながら、陛下は大豆をお好みではない。
「分かった。そなたの言うことを、御膳房に伝えさせよう。豆腐は好きではないのだが」
「素鶏という、鶏に食感の似た押し豆腐がございます。調理法で、かなり鶏肉に近くなるようです」
「ほぉ」と、皇帝は感心しながら翠鈴の頭の先からつま先まで眺める。
威厳に満ちた自分の父親が、翠鈴の話にじっと耳を傾けているからだろうか。桃莉公主が、おずおずと翠鈴の手を握った。
「ツイリン、タオリィとたんぽぽのおちゃをつくったんだよ」
小さな手に、ぎゅっと力がこもるのが翠鈴の指に伝わって来た。
めったに物怖じしない翠鈴が、緊張しているものだから。桃莉なりに、励ましてくれているようだ。
「そうかそうか。たいしたものだ」
皇帝は破顔した。ようやく娘から話しかけてもらえたのだから、喜びもひとしおだろう。
「はっぱとねっこをきざんで、かわかすの。タオリィだったら、そのままぎゅーってしぼるんだけど」
それはお茶なのか? むしろ飲んでは体に障るのでは?
問いたい気持ちを、陛下は呑みこんだようだ。
だが桃莉との会話の腰を折りたくないのだろう。「うんうん」と目を細めてうなずいている。
「さて、忘れぬうちに御膳房に使いをやらねばな。戻るとするか」
陛下は桃莉の頭を撫で、そして踵を返した。
「畏れながら主上。今夜も呂充儀さまの元へお渡りになるのでは」
後ろに控える呉正鳴が、言葉を発する。その声が震えている。閨房渡りを記録する宦官は、基本的に皇帝と言葉を交わすことなどないのだろう。
「いや、よしておこう。呂充儀に伝えておいてくれ」
陛下一行の姿が遠くなり、翠鈴は肩を落とした。
緊張なんてものじゃない。どっと疲れが出てしまった。
◇◇◇
「ユィンラン。だっこ、だっこ」
桃莉は、雲嵐の前でぴょんぴょんと跳ねている。
茎だけになったたんぽぽの束が、桃莉の動きにあわせて揺れた。
「おとうさま、かえったから。ツイリンみたいにはしって」
「あの、翠鈴。これはどういうことでしょうか」
明らかに困惑を顔に浮かべた雲嵐が、翠鈴に視線を送る。
ですよね。事情が分かりませんよね。
「この間、手洗いを拒んだ桃莉さまを抱えて、井戸まで走ったんです。それがたいそうお気に召したようで」
「そうですか。大変でしたね」
普段から桃莉の手が泥まみれなのを、雲嵐は知っているからだろう。翠鈴にねぎらいの言葉をかけてくれた。
「では、公主さま。失礼いたします」
ひょいと雲嵐に抱えられて、桃莉は「わぁ」と歓声を上げる。
左腕にすっぽりと収まった桃莉は、雲嵐の頭にしがみついている。
一緒に宮城の外に出たことがあるから、その時に懐いたのかもしれない。翠鈴は推測した。
「たかいねぇ。ほしがちかいよ」
すでに空には星が瞬いていた。薄い雲が、ところどころ紗の布を広げたようにかかっている。
さすがに公主を抱えて走るのは憚られたのだろう。雲嵐は、未央宮の塀の前をゆっくりと歩いている。
桃莉のはしゃぐ声が遠くなる。どこか異国の言葉を聞いているかのようだ。
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