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八章 陽だまりの花園

14、苦土と素鶏【1】

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 翠鈴は、ほんのわずかな異変に気づいた。
 桃莉に差し伸べた皇帝陛下の手が、微かに震えている。

 尊顔を凝視することはできないので。翠鈴は可能な限りうつむいてはいるのだが。
 左足をわずかに引きずっているように見える。

(陛下なら侍医がいらっしゃるから。病であれば、すぐに治療が施されるだろう)

 病気ではなく、陛下自身も侍医に相談するほどのひどい症状ではないのだろうが。ふと気になった。

「どうかしたか? 翠鈴」

 光柳に声をかけられて、翠鈴は自分の口元を手で隠して、そっと耳打ちした。
 声が洩れ聞こえるかもしれないが。下女が直接皇帝に話しかけることはできない。

「陛下に、就寝中に足がることがおありになるか、お尋ねください」
「ふむ。陛下、就寝中に足が攣ることがおありですか?」
「なぜ分かる? ここのところ、ずっとだ」

 やはり、と翠鈴は考えた。
 直接に症状を訊くことができれば、早いのに。医官になるよう勧められたのに、断ったのだからしょうがない。

芍薬甘草湯しゃくやくかんぞうとうは服用なさっておいでですか?」
「しゃく、やくかん、ぞうとう? は服用なさっておいでですか?」

 いや。単語を切る位置が違うから。
 翠鈴はもどかしくてたまらない。

 案の定、皇帝は首をかしげている。しばらく経ったのち「ああ、芍薬甘草湯のことか」と、こぶしを握った右手を開いた左手で叩いた。
 その拳を握る時も、皇帝の指は曲がりにくそうだ。

「その薬湯であれば、侍医に飲まされたな。それがどうした?」

 どうした? と問われても、光柳に答えの用意はない。光柳は、翠鈴にちらっと視線を向けた。

「もしや豆腐脳トウフナオ豆奬トウジアンはお好みではありませんか?」

 今度は生薬の名前ではないので、光柳は翠鈴の言葉のままに伝えることができた。
 豆奬は、豆乳のことだ。

「豆奬は、どろどろしておるからな。まぁ、どちらも苦手だ」
「では魚は? あと、塩は海塩ではなく岩塩を使っておいででしょうか」
「歯ごたえがないから魚も好かんが。塩はどうだろうな? 余には違いが分からん」

 翠鈴の言葉のままに問いかける光柳だが。なにゆえに、こんな質問を続けるのか、翠鈴に問いたそうだ。
 翠鈴は可能な限り顔を上げず、瞼を伏せていた。

「光柳。その宮女が、余に質問をしたのであろう? これから行かねばならぬところがある。特別に余と言葉を交わすことを許してやろう。顔を上げて、言ってみろ」

 後半の言葉は、翠鈴に向けられたものだった。
 翠鈴は息を呑んだ。

 今の自分は観月の宴で、先帝に寵愛された詩人である松麟美ソンリンメイの代理ではない。ただの下女だ。薬師ではあるが、医官ですらない。

 陛下の症状は、病ではない。振戦しんせんや足が攣ったときの生薬を、侍医の指導どおりに服用なさっているようだが。

(いくら薬を飲み続けても。根本を治さねば、意味はない)

 ぐっとこぶしを握りしめて、翠鈴は顔を上げる。夜風が邪魔をしているのではないかと思えるほど、頭を動かすのが重い。

「畏れながら申しあげます。手も足も、どちらの症状も筋肉が強ばっておいでです。芍薬甘草湯では症状を抑えることはできますが」
「ふむ。他にも飲んでおるぞ。薫衣草くんいそうといったかな。それと洋甘菊ようかんぎくであったかな」

 洋甘菊は、加密列カミツレともいう花だ。どちらも新杷国ではあまり用いられない。

(侍医の処方ではない。だとしたら、誰が?)

 気にかかったが、さすがに陛下に対して、そこまで踏みこんで問うことはできない。

「芍薬甘草湯には、筋肉のこわばりに即効性があります。薫衣草、洋甘菊は、穏やかに効きます」
「なるほど。どちらも良いものだな」

 侍医以外の者を、よほど信頼しているのだろう。皇帝は満足そうな笑みを浮かべた。

 薫衣草も洋甘菊も、西の国の生薬だ。
 翠鈴や胡玲フーリン以外にも、西の生薬に詳しい人が後宮にいることを、翠鈴は初めて知った。
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