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八章 陽だまりの花園

7、休日の夜

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 夜になった。
 宿舎の別棟で、布団に入った光柳は天井を見上げている。

 月明りがまどから射しこみ、床に四角い光が落ちている。
 昼間の温かさは薄れたが。それでも寒いというほどではない。心地よい夜だ。

「眠れませんか?」

 隣の寝台から、雲嵐が声をかけてきた。最近、光柳は不眠症だから。こうして「眠れないか」と訊かれるのには慣れているのだが。

 今夜は雲嵐の口調が、いつもと違う。語尾が軽やかなのだ。ふだんはもっと心配した風であるのに。

「眠れないな」
「今日は、よかったですね」

 暗さに目が慣れたせいだろうか。横になっている雲嵐が、微笑んでいるのが分かった。

「翠鈴は、私と一緒に来てくれるのだな」

 後宮を出て、共に暮らすということ。それは一生を共にすることに他ならない。

 宦官であっても、妻を持つことはある。
 公には認められてはいないが。職を辞した宦官は、一生を孤独に暮らすこととなる。ゆえに女官と結婚する者もいる。

 男としての体ではないからなのか。あるいは子をなして、子孫を望むことができないからなのか。宦官は、ふつうの男よりも妻に格別の愛情をもつ。
 妻と死別した場合は、再婚をする男は多いのだが。宦官の場合は、再婚を望まぬ者が多いと聞く。

 一生にひとりだけの、最愛の女性。そんな人に出会えるとは、これまでの人生で考えたこともなかった。

「そういえば、不眠に効く花を翠鈴からもらっていましたね」

 雲嵐の言葉に、光柳は起きあがった。
 花園での別れぎわに、麻の小袋を翠鈴がくれたのだ。

薫衣草くんいそう冬菩提樹ふゆぼだいじゅだと言っていたな」

 聞いたことのない植物の名だ。漢方というわけでもなさそうだ。
 不思議なことに翠鈴は、一般には知られていない生薬にも詳しい。

 光柳は寝台から降りて、棚の上に置いていた小袋を手に取った。
 すっきりとした涼しい香りだった。

――お茶の代わりに飲んでもいいですし、枕元に置いておくのもいいですよ。安眠の効果があります。

 翠鈴の説明を、光柳は思い出した。
 手で小袋を握る。夜の静けさに、かすかな音が染みた。

「どうだ? 眠いか?」

 雲嵐の鼻に小袋を差しだしてみる。

「よくは分かりませんが。翠鈴が勧めるのでしたら、きっと効果があるのでしょう」
「雲嵐は、翠鈴を信頼しているのだな」

 ふと、不安が光柳の胸をよぎった。
 雲嵐の寝台に腰を下ろして、薫衣草を再びかいでみる。知らない匂いなのに。初夏の香りがした。

「なぁ、雲嵐。私が後宮を出る時は、一緒に来てくれるか?」

 これまで尋ねたことのなかった問いだ。
 子供の頃から、共に育ったから。後宮に入るのも一緒だったから。寄り添いながら生きてきたから。

 けれど、自分が翠鈴を見つけたように。雲嵐もまた、最愛の人を見つけるに違いない。
 そうなれば、彼を縛りつけることはできない。

「もし……だな、雲嵐が誰かを」

 誰かを好きになって、その女性と暮らしたいと願うのなら。
 言いかけた言葉が、途中で止まる。

 返事を聞くのが怖い。光柳は、急に喉の渇きを覚えた。

「光柳さま?」
「いや、いい。何でもない。おやすみ」

 光柳は立ちあがった。背中に視線を感じる。ふり返ることができない。

「誤解をなさっておいでのようですが。私は、主従の関係に縛られているとは思っていませんよ」

 穏やかな声だった。まるで今夜の月明りのような。

「これまで散々、わがままをおっしゃってきたのに。今さら、聞き訳がよくなると怖いですね」
「待て、怖いってなんだよ。まるで私が性格が悪いみたいじゃないか」
「よくはないですよ」

 うっ、と光柳は言葉に詰まった。

 自覚はある。確かに雲嵐の方が、自分よりも何倍も何十倍も性格がいい。
 再び、光柳は雲嵐の寝台に腰かけた。

「今日、花園で翠鈴にも話しましたが。私は馬で後宮に荷を運んだり、書状を各地に届ける仕事ができます。翠鈴は、薬を商いにできるでしょう。皆、それぞれ稼ぐ力は持っております。ですから、光柳さまがおひとりで背負うことはないんですよ」

 雲嵐の言葉に、光柳は目を見開いた。

「妙なことを申し上げましたか?」
「いや、何も」

 光柳の口元がほころぶ。
 そうだった。雲嵐に「ついてきてくれるか」などと、確かめると逆に怒られてしまう。雲嵐は仕方なく自分に従ってくれているのではない。

「もう寝るとするか」

 薫衣草の袋を、光柳は再び雲嵐の鼻に近づけた。

「不思議ですね。今度は眠く感じます」
「よかった。私もだ」

 子供の頃なら、こんな夜は雲嵐と一緒に夜更かしをして、語り明かしていた。
 取り置きの冬糖ドンタンの飴を舐めながら。つまらないことを言っては笑いころげ。母や侍女に「もう夜中ですよ」とたしなめられたものだ。

 だが、ここは離宮ではないし。自分たちはもう子供ではない。
 明日は仕事だ。無茶はするまい。
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