140 / 171
八章 陽だまりの花園
7、休日の夜
しおりを挟む
夜になった。
宿舎の別棟で、布団に入った光柳は天井を見上げている。
月明りが窗から射しこみ、床に四角い光が落ちている。
昼間の温かさは薄れたが。それでも寒いというほどではない。心地よい夜だ。
「眠れませんか?」
隣の寝台から、雲嵐が声をかけてきた。最近、光柳は不眠症だから。こうして「眠れないか」と訊かれるのには慣れているのだが。
今夜は雲嵐の口調が、いつもと違う。語尾が軽やかなのだ。ふだんはもっと心配した風であるのに。
「眠れないな」
「今日は、よかったですね」
暗さに目が慣れたせいだろうか。横になっている雲嵐が、微笑んでいるのが分かった。
「翠鈴は、私と一緒に来てくれるのだな」
後宮を出て、共に暮らすということ。それは一生を共にすることに他ならない。
宦官であっても、妻を持つことはある。
公には認められてはいないが。職を辞した宦官は、一生を孤独に暮らすこととなる。ゆえに女官と結婚する者もいる。
男としての体ではないからなのか。あるいは子をなして、子孫を望むことができないからなのか。宦官は、ふつうの男よりも妻に格別の愛情をもつ。
妻と死別した場合は、再婚をする男は多いのだが。宦官の場合は、再婚を望まぬ者が多いと聞く。
一生にひとりだけの、最愛の女性。そんな人に出会えるとは、これまでの人生で考えたこともなかった。
「そういえば、不眠に効く花を翠鈴からもらっていましたね」
雲嵐の言葉に、光柳は起きあがった。
花園での別れぎわに、麻の小袋を翠鈴がくれたのだ。
「薫衣草と冬菩提樹だと言っていたな」
聞いたことのない植物の名だ。漢方というわけでもなさそうだ。
不思議なことに翠鈴は、一般には知られていない生薬にも詳しい。
光柳は寝台から降りて、棚の上に置いていた小袋を手に取った。
すっきりとした涼しい香りだった。
――お茶の代わりに飲んでもいいですし、枕元に置いておくのもいいですよ。安眠の効果があります。
翠鈴の説明を、光柳は思い出した。
手で小袋を握る。夜の静けさに、かすかな音が染みた。
「どうだ? 眠いか?」
雲嵐の鼻に小袋を差しだしてみる。
「よくは分かりませんが。翠鈴が勧めるのでしたら、きっと効果があるのでしょう」
「雲嵐は、翠鈴を信頼しているのだな」
ふと、不安が光柳の胸をよぎった。
雲嵐の寝台に腰を下ろして、薫衣草を再びかいでみる。知らない匂いなのに。初夏の香りがした。
「なぁ、雲嵐。私が後宮を出る時は、一緒に来てくれるか?」
これまで尋ねたことのなかった問いだ。
子供の頃から、共に育ったから。後宮に入るのも一緒だったから。寄り添いながら生きてきたから。
けれど、自分が翠鈴を見つけたように。雲嵐もまた、最愛の人を見つけるに違いない。
そうなれば、彼を縛りつけることはできない。
「もし……だな、雲嵐が誰かを」
誰かを好きになって、その女性と暮らしたいと願うのなら。
言いかけた言葉が、途中で止まる。
返事を聞くのが怖い。光柳は、急に喉の渇きを覚えた。
「光柳さま?」
「いや、いい。何でもない。おやすみ」
光柳は立ちあがった。背中に視線を感じる。ふり返ることができない。
「誤解をなさっておいでのようですが。私は、主従の関係に縛られているとは思っていませんよ」
穏やかな声だった。まるで今夜の月明りのような。
「これまで散々、わがままをおっしゃってきたのに。今さら、聞き訳がよくなると怖いですね」
「待て、怖いってなんだよ。まるで私が性格が悪いみたいじゃないか」
「よくはないですよ」
うっ、と光柳は言葉に詰まった。
自覚はある。確かに雲嵐の方が、自分よりも何倍も何十倍も性格がいい。
再び、光柳は雲嵐の寝台に腰かけた。
「今日、花園で翠鈴にも話しましたが。私は馬で後宮に荷を運んだり、書状を各地に届ける仕事ができます。翠鈴は、薬を商いにできるでしょう。皆、それぞれ稼ぐ力は持っております。ですから、光柳さまがおひとりで背負うことはないんですよ」
雲嵐の言葉に、光柳は目を見開いた。
「妙なことを申し上げましたか?」
「いや、何も」
光柳の口元がほころぶ。
そうだった。雲嵐に「ついてきてくれるか」などと、確かめると逆に怒られてしまう。雲嵐は仕方なく自分に従ってくれているのではない。
「もう寝るとするか」
薫衣草の袋を、光柳は再び雲嵐の鼻に近づけた。
「不思議ですね。今度は眠く感じます」
「よかった。私もだ」
子供の頃なら、こんな夜は雲嵐と一緒に夜更かしをして、語り明かしていた。
取り置きの冬糖の飴を舐めながら。つまらないことを言っては笑いころげ。母や侍女に「もう夜中ですよ」とたしなめられたものだ。
だが、ここは離宮ではないし。自分たちはもう子供ではない。
明日は仕事だ。無茶はするまい。
宿舎の別棟で、布団に入った光柳は天井を見上げている。
月明りが窗から射しこみ、床に四角い光が落ちている。
昼間の温かさは薄れたが。それでも寒いというほどではない。心地よい夜だ。
「眠れませんか?」
隣の寝台から、雲嵐が声をかけてきた。最近、光柳は不眠症だから。こうして「眠れないか」と訊かれるのには慣れているのだが。
今夜は雲嵐の口調が、いつもと違う。語尾が軽やかなのだ。ふだんはもっと心配した風であるのに。
「眠れないな」
「今日は、よかったですね」
暗さに目が慣れたせいだろうか。横になっている雲嵐が、微笑んでいるのが分かった。
「翠鈴は、私と一緒に来てくれるのだな」
後宮を出て、共に暮らすということ。それは一生を共にすることに他ならない。
宦官であっても、妻を持つことはある。
公には認められてはいないが。職を辞した宦官は、一生を孤独に暮らすこととなる。ゆえに女官と結婚する者もいる。
男としての体ではないからなのか。あるいは子をなして、子孫を望むことができないからなのか。宦官は、ふつうの男よりも妻に格別の愛情をもつ。
妻と死別した場合は、再婚をする男は多いのだが。宦官の場合は、再婚を望まぬ者が多いと聞く。
一生にひとりだけの、最愛の女性。そんな人に出会えるとは、これまでの人生で考えたこともなかった。
「そういえば、不眠に効く花を翠鈴からもらっていましたね」
雲嵐の言葉に、光柳は起きあがった。
花園での別れぎわに、麻の小袋を翠鈴がくれたのだ。
「薫衣草と冬菩提樹だと言っていたな」
聞いたことのない植物の名だ。漢方というわけでもなさそうだ。
不思議なことに翠鈴は、一般には知られていない生薬にも詳しい。
光柳は寝台から降りて、棚の上に置いていた小袋を手に取った。
すっきりとした涼しい香りだった。
――お茶の代わりに飲んでもいいですし、枕元に置いておくのもいいですよ。安眠の効果があります。
翠鈴の説明を、光柳は思い出した。
手で小袋を握る。夜の静けさに、かすかな音が染みた。
「どうだ? 眠いか?」
雲嵐の鼻に小袋を差しだしてみる。
「よくは分かりませんが。翠鈴が勧めるのでしたら、きっと効果があるのでしょう」
「雲嵐は、翠鈴を信頼しているのだな」
ふと、不安が光柳の胸をよぎった。
雲嵐の寝台に腰を下ろして、薫衣草を再びかいでみる。知らない匂いなのに。初夏の香りがした。
「なぁ、雲嵐。私が後宮を出る時は、一緒に来てくれるか?」
これまで尋ねたことのなかった問いだ。
子供の頃から、共に育ったから。後宮に入るのも一緒だったから。寄り添いながら生きてきたから。
けれど、自分が翠鈴を見つけたように。雲嵐もまた、最愛の人を見つけるに違いない。
そうなれば、彼を縛りつけることはできない。
「もし……だな、雲嵐が誰かを」
誰かを好きになって、その女性と暮らしたいと願うのなら。
言いかけた言葉が、途中で止まる。
返事を聞くのが怖い。光柳は、急に喉の渇きを覚えた。
「光柳さま?」
「いや、いい。何でもない。おやすみ」
光柳は立ちあがった。背中に視線を感じる。ふり返ることができない。
「誤解をなさっておいでのようですが。私は、主従の関係に縛られているとは思っていませんよ」
穏やかな声だった。まるで今夜の月明りのような。
「これまで散々、わがままをおっしゃってきたのに。今さら、聞き訳がよくなると怖いですね」
「待て、怖いってなんだよ。まるで私が性格が悪いみたいじゃないか」
「よくはないですよ」
うっ、と光柳は言葉に詰まった。
自覚はある。確かに雲嵐の方が、自分よりも何倍も何十倍も性格がいい。
再び、光柳は雲嵐の寝台に腰かけた。
「今日、花園で翠鈴にも話しましたが。私は馬で後宮に荷を運んだり、書状を各地に届ける仕事ができます。翠鈴は、薬を商いにできるでしょう。皆、それぞれ稼ぐ力は持っております。ですから、光柳さまがおひとりで背負うことはないんですよ」
雲嵐の言葉に、光柳は目を見開いた。
「妙なことを申し上げましたか?」
「いや、何も」
光柳の口元がほころぶ。
そうだった。雲嵐に「ついてきてくれるか」などと、確かめると逆に怒られてしまう。雲嵐は仕方なく自分に従ってくれているのではない。
「もう寝るとするか」
薫衣草の袋を、光柳は再び雲嵐の鼻に近づけた。
「不思議ですね。今度は眠く感じます」
「よかった。私もだ」
子供の頃なら、こんな夜は雲嵐と一緒に夜更かしをして、語り明かしていた。
取り置きの冬糖の飴を舐めながら。つまらないことを言っては笑いころげ。母や侍女に「もう夜中ですよ」とたしなめられたものだ。
だが、ここは離宮ではないし。自分たちはもう子供ではない。
明日は仕事だ。無茶はするまい。
108
お気に入りに追加
700
あなたにおすすめの小説
夫に惚れた友人がよく遊びに来るんだが、夫に「不倫するつもりはない」と言われて来なくなった。
ほったげな
恋愛
夫のカジミールはイケメンでモテる。友人のドーリスがカジミールに惚れてしまったようで、よくうちに遊びに来て「食事に行きませんか?」と夫を誘う。しかし、夫に「迷惑だ」「不倫するつもりはない」と言われてから来なくなった。
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
公爵令嬢は逃げ出すことにした【完結済】
佐原香奈
恋愛
公爵家の跡取りとして厳しい教育を受けるエリー。
異母妹のアリーはエリーとは逆に甘やかされて育てられていた。
幼い頃からの婚約者であるヘンリーはアリーに惚れている。
その事実を1番隣でいつも見ていた。
一度目の人生と同じ光景をまた繰り返す。
25歳の冬、たった1人で終わらせた人生の繰り返しに嫌気がさし、エリーは逃げ出すことにした。
これからもずっと続く苦痛を知っているのに、耐えることはできなかった。
何も持たず公爵家の門をくぐるエリーが向かった先にいたのは…
完結済ですが、気が向いた時に話を追加しています。
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
私の以外の誰かを愛してしまった、って本当ですか?
樋口紗夕
恋愛
「すまない、エリザベス。どうか俺との婚約を解消して欲しい」
エリザベスは婚約者であるギルベルトから別れを切り出された。
他に好きな女ができた、と彼は言う。
でも、それって本当ですか?
エリザベス一筋なはずのギルベルトが愛した女性とは、いったい何者なのか?
夫が大人しめの男爵令嬢と不倫していました
hana
恋愛
「ノア。お前とは離婚させてもらう」
パーティー会場で叫んだ夫アレンに、私は冷徹に言葉を返す。
「それはこちらのセリフです。あなたを只今から断罪致します」
未亡人となった側妃は、故郷に戻ることにした
星ふくろう
恋愛
カトリーナは帝国と王国の同盟により、先代国王の側室として王国にやって来た。
帝国皇女は正式な結婚式を挙げる前に夫を失ってしまう。
その後、義理の息子になる第二王子の正妃として命じられたが、王子は彼女を嫌い浮気相手を溺愛する。
数度の恥知らずな婚約破棄を言い渡された時、カトリーナは帝国に戻ろうと決めたのだった。
他の投稿サイトでも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる