134 / 171
八章 陽だまりの花園
1、曇天
しおりを挟む
許夏雪は、馬を駆けさせていた。
逃げないと。果てへ。もっと果てへ。その言葉ばかりが、夏雪の思考を支配している。
馬を疾駆させることなど、これまでなかった気がする。前後の揺れだけではなく、ふだんは感じない左右の揺れがきつい。
買い物代行を生業とする夏雪は、後宮に毒を持ちこんでいた。
他の買い物よりも実入りがいいからだ。当然だ。誰にも言えぬ秘密の買い物であれば、いくらでも吹っかけられる。値切られることもない。
「これまでうまくいってたのに」
氷雨が、夏雪の顔を叩く。髪もずぶ濡れだ。いつもはきれいに波打つ髪も、まるで浜に打ちあげられた海藻のようにみすぼらしい。
「なんでばれるのよ」
寒さで凍えた唇からこぼれた声は、風にさらわれた。
川岸に並んだ木々は、どれも芽吹いてもいない。曇天の下で黒い影に沈み、骸のように風に吹かれている。
「あいつ……薬師なの? 医官でもないのに。なんで」
もう後宮では商売ができない。
杷京も無理かもしれない。あの宮女も、勤務年数が長くなれば退職するだろう。杷京で出会う可能性は高い。
「あんなにもずっと後宮に通っていたのに。なんで石真さんは、見つからないのよ」
もっと毒の知識を教えてくれていたら。薬師であることを隠した女が、後宮にいると伝えてくれていたら。
「そうよ! あたしはもっと、うまくやれたのよ!」
叫ぶ夏雪の口の中に、冷たい氷が入りこんだ。
◇◇◇
春分を過ぎ、裘を羽織る必要もなくなった。だが、冬と春の季節がせめぎあうこの時期は、長雨が多い。
翠鈴は、雨の中を光柳に呼び出されていた。
書令史の部屋は、墨汁の匂いが満ちていた。紙に書いた文字が、乾きにくいのだろう。
「どうかなさいましたか?」
午後なので、まだ夕刻の仕事には間がある。
「かみが……おさまらない」
机の席に座り、肩を落とした光柳の声は小さい。翠鈴は部屋の中を見まわした。
書令史は陛下の言葉や辞令を書きとめるのが仕事だ。巻物や紙は確かに多いし、棚にも詰まっているけれど。決して収まらないほどではない。
「違うんですよ。翠鈴」
傘を差していたとはいえ。服や髪が湿って、冷えてしまった翠鈴に、雲嵐がお茶を出してくれた。
ほわっとした温かな湯気が、翠鈴の鼻をくすぐる。
「芽丁玉竹ですね」
「分かりますか?」
「はい。この清らかな香りは忘れようにも、忘れられません」
「だそうですよ。よかったですね、光柳さま」
翠鈴に椅子を勧めると、雲嵐は碗を小さな卓子に置いた。
丁寧な手つきだ。コトリとも音がしない。
「もしかして。雨の中を歩いてきたから。光柳さまは、気づかってくださったんですか」
「うっ、まぁ、そうかもしれないな」
光柳が、翠鈴のついた卓子の席に着く。ちょうど翠鈴と向かいあう位置だ。
芽丁玉竹は最高級のお茶だ。皇后や四夫人であれば、口にすることも珍しくないだろうが。翠鈴のような下っ端の宮女では、一生に一度も飲むこともないだろう。
話をしながら飲むには、このお茶はあまりにももったいない。
翠鈴は少しずつ口に含んだ。お茶の澄んだ香りを、そしてまろやかな味を楽しむ。やはり空になった碗までが、かぐわしい。
「それで。わたしを呼び出した御用は何でしょうか」
「見てのとおりだ」
光柳の声は曇っている。ここのところの空模様のように。
「見ても分かりませんが」
困った翠鈴は、光柳の背後に立つ雲嵐に視線を向けた。だが、雲嵐は「どうしようもありません」とでも言いたげに、首をふる。
「いや、どう見てもわかるだろう。ほら、湿気で髪にクセが出ている」
一つに結んだ黒髪を、光柳は手に取る。
まぁ、確かに毛がうねってはいるが。
「光柳さまは、詩作がうまくいかず、お困りなのです」
代わって説明したのは、雲嵐だった。
逃げないと。果てへ。もっと果てへ。その言葉ばかりが、夏雪の思考を支配している。
馬を疾駆させることなど、これまでなかった気がする。前後の揺れだけではなく、ふだんは感じない左右の揺れがきつい。
買い物代行を生業とする夏雪は、後宮に毒を持ちこんでいた。
他の買い物よりも実入りがいいからだ。当然だ。誰にも言えぬ秘密の買い物であれば、いくらでも吹っかけられる。値切られることもない。
「これまでうまくいってたのに」
氷雨が、夏雪の顔を叩く。髪もずぶ濡れだ。いつもはきれいに波打つ髪も、まるで浜に打ちあげられた海藻のようにみすぼらしい。
「なんでばれるのよ」
寒さで凍えた唇からこぼれた声は、風にさらわれた。
川岸に並んだ木々は、どれも芽吹いてもいない。曇天の下で黒い影に沈み、骸のように風に吹かれている。
「あいつ……薬師なの? 医官でもないのに。なんで」
もう後宮では商売ができない。
杷京も無理かもしれない。あの宮女も、勤務年数が長くなれば退職するだろう。杷京で出会う可能性は高い。
「あんなにもずっと後宮に通っていたのに。なんで石真さんは、見つからないのよ」
もっと毒の知識を教えてくれていたら。薬師であることを隠した女が、後宮にいると伝えてくれていたら。
「そうよ! あたしはもっと、うまくやれたのよ!」
叫ぶ夏雪の口の中に、冷たい氷が入りこんだ。
◇◇◇
春分を過ぎ、裘を羽織る必要もなくなった。だが、冬と春の季節がせめぎあうこの時期は、長雨が多い。
翠鈴は、雨の中を光柳に呼び出されていた。
書令史の部屋は、墨汁の匂いが満ちていた。紙に書いた文字が、乾きにくいのだろう。
「どうかなさいましたか?」
午後なので、まだ夕刻の仕事には間がある。
「かみが……おさまらない」
机の席に座り、肩を落とした光柳の声は小さい。翠鈴は部屋の中を見まわした。
書令史は陛下の言葉や辞令を書きとめるのが仕事だ。巻物や紙は確かに多いし、棚にも詰まっているけれど。決して収まらないほどではない。
「違うんですよ。翠鈴」
傘を差していたとはいえ。服や髪が湿って、冷えてしまった翠鈴に、雲嵐がお茶を出してくれた。
ほわっとした温かな湯気が、翠鈴の鼻をくすぐる。
「芽丁玉竹ですね」
「分かりますか?」
「はい。この清らかな香りは忘れようにも、忘れられません」
「だそうですよ。よかったですね、光柳さま」
翠鈴に椅子を勧めると、雲嵐は碗を小さな卓子に置いた。
丁寧な手つきだ。コトリとも音がしない。
「もしかして。雨の中を歩いてきたから。光柳さまは、気づかってくださったんですか」
「うっ、まぁ、そうかもしれないな」
光柳が、翠鈴のついた卓子の席に着く。ちょうど翠鈴と向かいあう位置だ。
芽丁玉竹は最高級のお茶だ。皇后や四夫人であれば、口にすることも珍しくないだろうが。翠鈴のような下っ端の宮女では、一生に一度も飲むこともないだろう。
話をしながら飲むには、このお茶はあまりにももったいない。
翠鈴は少しずつ口に含んだ。お茶の澄んだ香りを、そしてまろやかな味を楽しむ。やはり空になった碗までが、かぐわしい。
「それで。わたしを呼び出した御用は何でしょうか」
「見てのとおりだ」
光柳の声は曇っている。ここのところの空模様のように。
「見ても分かりませんが」
困った翠鈴は、光柳の背後に立つ雲嵐に視線を向けた。だが、雲嵐は「どうしようもありません」とでも言いたげに、首をふる。
「いや、どう見てもわかるだろう。ほら、湿気で髪にクセが出ている」
一つに結んだ黒髪を、光柳は手に取る。
まぁ、確かに毛がうねってはいるが。
「光柳さまは、詩作がうまくいかず、お困りなのです」
代わって説明したのは、雲嵐だった。
128
お気に入りに追加
700
あなたにおすすめの小説
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
君は、妾の子だから、次男がちょうどいい
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは、婚約中だが、彼は王都に住み、マリアは片田舎で遠いため、会ったことはなかった。でも、ある時、マリアは、妾の子であると、知られる。そんな娘は大事な子息とは、結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして、次の日には、迎えの馬車がやって来た。
【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った
五色ひわ
恋愛
辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。真実を確かめるため、アメリアは3年ぶりに王都へと旅立った。
※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
【完結】悪役令嬢エヴァンジェリンは静かに死にたい
小達出みかん
恋愛
私は、悪役令嬢。ヒロインの代わりに死ぬ役どころ。
エヴァンジェリンはそうわきまえて、冷たい婚約者のどんな扱いにも耐え、死ぬ日のためにもくもくとやるべき事をこなしていた。
しかし、ヒロインを虐めたと濡れ衣を着せられ、「やっていません」と初めて婚約者に歯向かったその日から、物語の歯車が狂いだす。
――ヒロインの身代わりに死ぬ予定の悪役令嬢だったのに、愛されキャラにジョブチェンしちゃったみたい(無自覚)でなかなか死ねない! 幸薄令嬢のお話です。
安心してください、ハピエンです――
6年後に戦地から帰ってきた夫が連れてきたのは妻という女だった
白雲八鈴
恋愛
私はウォルス侯爵家に15歳の時に嫁ぎ婚姻後、直ぐに夫は魔王討伐隊に出兵しました。6年後、戦地から夫が帰って来ました、妻という女を連れて。
もういいですか。私はただ好きな物を作って生きていいですか。この国になんて出ていってやる。
ただ、皆に喜ばれる物を作って生きたいと願う女性がその才能に目を付けられ周りに翻弄されていく。彼女は自由に物を作れる道を歩むことが出来るのでしょうか。
番外編
謎の少女強襲編
彼女が作り出した物は意外な形で人々を苦しめていた事を知り、彼女は再び帝国の地を踏むこととなる。
私が成した事への清算に行きましょう。
炎国への旅路編
望んでいた炎国への旅行に行く事が出来ない日々を送っていたが、色々な人々の手を借りながら炎国のにたどり着くも、そこにも帝国の影が・・・。
え?なんで私に誰も教えてくれなかったの?そこ大事ー!
*本編は完結済みです。
*誤字脱字は程々にあります。
*なろう様にも投稿させていただいております。
別に構いませんよ、離縁するので。
杉本凪咲
恋愛
父親から告げられたのは「出ていけ」という冷たい言葉。
他の家族もそれに賛同しているようで、どうやら私は捨てられてしまうらしい。
まあいいですけどね。私はこっそりと笑顔を浮かべた。
旦那様に離婚を突きつけられて身を引きましたが妊娠していました。
ゆらゆらぎ
恋愛
ある日、平民出身である侯爵夫人カトリーナは辺境へ行って二ヶ月間会っていない夫、ランドロフから執事を通して離縁届を突きつけられる。元の身分の差を考え気持ちを残しながらも大人しく身を引いたカトリーナ。
実家に戻り、兄の隣国行きについていくことになったが隣国アスファルタ王国に向かう旅の途中、急激に体調を崩したカトリーナは医師の診察を受けることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる