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六章 出会い
4、初めての出会い
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寿華宮は壮麗だ。周囲は紅色の壁がそびえ、門は蘭淑妃の未央宮の門よりも高く重厚である。
中に四つの建物があり、庭を囲んでいるとのことだが。中に入らない翠鈴には、奥へと続く路地を紅色の壁が囲んでいる部分しか見えない。
「いかなきゃだめ? ツイリン」
いざ寿華宮に入ろうというところで、ようやく桃莉は緊張を思いだしたようだ。
翠鈴に問いかける声が上ずって、かすれている。
「はい。ここからは桃莉さまのお仕事ですよ。蘭淑妃の名代は、桃莉さま以外にはできないことです」
「でもぉ」
桃莉は翠鈴の腰にしがみついた。見上げてくる目が、潤んでいる。
しょうがない。まだ五歳なのだ。
(けれど、梅娜さまだけでは失礼に当たるし。皇后陛下から、今日がいいと指定されているんだし)
「桃莉さま。参りましょう」
キッと表情を引き締めて、梅娜が桃莉の手を握った。
さすが侍女頭。気合が入っている。
「翠鈴はここでちゃんと待っていてくれます。あとは、私に任せてくださ……いたっ」
いや。実際は、落ち着かなかったのだろう。梅娜は舌を噛んでしまった。
「大丈夫。皇后陛下はお優しいと聞くわ」
翠鈴は、桃莉と梅娜の手をそれぞれ握った。
◇◇◇
翠鈴と分かれた梅娜と桃莉は、寿華宮の侍女に案内されて中へと入った。
緊張のあまり、桃莉は右手と右足が一緒に出ている。
侍女頭として注意すべきなのだが。ここで桃莉が慌てて転んでしまっては、元も子もない。
皇后陛下にお渡しする腹帯は、梅娜が持っている。蘭淑妃から預かったもので、西王母の廟で、安産の祈祷をしてもらっている。
ふと、小さな人影が走り出てきた。
風をはらんで、その子が首に巻いた圍巾がなびく。ほのかな香りが立った。
お香に似ているが。穏やかで甘い香りの奥に、柑橘の爽やかさを感じた。
「危ないです。桃莉さま」
梅娜は桃莉を抱きあげた。翠鈴ほどの力がないので桃莉を担ぐことはできない。地面から足が離れて、ぷらんとしている程度だ。
「だれ?」
現れた女の子が問うた。
(どうして子供が? 賢妃のお子さまは、まだ赤子でいらっしゃるし。皇后陛下のお身内の可能性が高いわ)
梅娜は瞬時に判断し、桃莉を降ろした。
「初めまして。この方は桃莉公主と申します。蘭淑妃のお子さまでいらっしゃいます」
「タオリィ?」
その女の子は桃莉に近づくと、じーっと顔を覗きこんできた。瞬きすらしない。
もともと人見知りの桃莉は、梅娜の背後に隠れてしまう。
「潔華さま。走りまわっては危ないですよ」
皇后の侍女が、現れた女の子に声をかける。
七歳くらいだろうか。少し背が高く、細身ですらりとしている。首もとの襟が詰まった上衣に、動きやすい軽やかな裙をはいている。
「ごめんね。人が来るって知らなかったから。えっとね、施潔華といいます。伯母さまに会いに来たんだよ、です」
肩までの栗色の髪が、光を宿す。
(やはり施家のお子さまなので。皇后陛下の姪でいらっしゃるんだわ)
梅娜は姿勢をただした。
「でも後宮って子供がいないって聞いてたから。うれしいな。桃莉だっけ、いっしょに遊ぼ」
矢継ぎ早に潔華に話しかけられて、桃莉は固まってしまった。
「え? なんで?」
梅娜の後ろにまわりこんだ潔華が、指でつんつんと桃莉の肩をつつく。さらに桃莉の顔がこわばった。
「あれ?」と、潔華が何かに気づいたように声をあげた。
「もしかして。泥で遊んでた?」
「ひぃぃぃ」と、悲鳴を上げたのは梅娜だった。
しまった。急な代理だったから、桃莉さまの衣裳に香を焚きしめていない。髪は梳いたけれど、もしかして泥がついていたのを見過ごしたのかもしれない。
「うん」と、桃莉公主は小さくうなずいた。
傍らに翠鈴がいたなら、桃莉は彼女の手をぎゅっと握りしめていただろう。
だが、翠鈴は寿華宮の中に入れない。
初めて母親から任された大役に、桃莉はキッと顔を上げた。
「チャータンをつくったの、どろで。おみずで、びしゃびしゃにするの。おさとうは、ゆき……だよ。です」
だが心意気はあっても、すぐに声が消え入りそうになる。
「うわぁ。いいね」
潔華の笑顔が弾けた。もう泥遊びなんて年齢ではないだろうに。
その笑顔につられたのか、桃莉が侍女頭の梅娜の陰から顔を出す。
「おともだち、だ」
「え?」
潔華が首をかしげる。
「タオリィのおともだち。でしょ?」
人見知りのはずなのに。桃莉はきらきらの澄んだ瞳で、潔華を見つめる。
他の妃に赤子はいるが。桃莉は後宮で、たったひとりの幼児だ。雪や泥でいろんなものを作っても、一緒に楽しんでくれるのは翠鈴だけ。
どんなに懐いていても、翠鈴は大人だ。仕事もあるし、遊んでくれる時間は短い。
中に四つの建物があり、庭を囲んでいるとのことだが。中に入らない翠鈴には、奥へと続く路地を紅色の壁が囲んでいる部分しか見えない。
「いかなきゃだめ? ツイリン」
いざ寿華宮に入ろうというところで、ようやく桃莉は緊張を思いだしたようだ。
翠鈴に問いかける声が上ずって、かすれている。
「はい。ここからは桃莉さまのお仕事ですよ。蘭淑妃の名代は、桃莉さま以外にはできないことです」
「でもぉ」
桃莉は翠鈴の腰にしがみついた。見上げてくる目が、潤んでいる。
しょうがない。まだ五歳なのだ。
(けれど、梅娜さまだけでは失礼に当たるし。皇后陛下から、今日がいいと指定されているんだし)
「桃莉さま。参りましょう」
キッと表情を引き締めて、梅娜が桃莉の手を握った。
さすが侍女頭。気合が入っている。
「翠鈴はここでちゃんと待っていてくれます。あとは、私に任せてくださ……いたっ」
いや。実際は、落ち着かなかったのだろう。梅娜は舌を噛んでしまった。
「大丈夫。皇后陛下はお優しいと聞くわ」
翠鈴は、桃莉と梅娜の手をそれぞれ握った。
◇◇◇
翠鈴と分かれた梅娜と桃莉は、寿華宮の侍女に案内されて中へと入った。
緊張のあまり、桃莉は右手と右足が一緒に出ている。
侍女頭として注意すべきなのだが。ここで桃莉が慌てて転んでしまっては、元も子もない。
皇后陛下にお渡しする腹帯は、梅娜が持っている。蘭淑妃から預かったもので、西王母の廟で、安産の祈祷をしてもらっている。
ふと、小さな人影が走り出てきた。
風をはらんで、その子が首に巻いた圍巾がなびく。ほのかな香りが立った。
お香に似ているが。穏やかで甘い香りの奥に、柑橘の爽やかさを感じた。
「危ないです。桃莉さま」
梅娜は桃莉を抱きあげた。翠鈴ほどの力がないので桃莉を担ぐことはできない。地面から足が離れて、ぷらんとしている程度だ。
「だれ?」
現れた女の子が問うた。
(どうして子供が? 賢妃のお子さまは、まだ赤子でいらっしゃるし。皇后陛下のお身内の可能性が高いわ)
梅娜は瞬時に判断し、桃莉を降ろした。
「初めまして。この方は桃莉公主と申します。蘭淑妃のお子さまでいらっしゃいます」
「タオリィ?」
その女の子は桃莉に近づくと、じーっと顔を覗きこんできた。瞬きすらしない。
もともと人見知りの桃莉は、梅娜の背後に隠れてしまう。
「潔華さま。走りまわっては危ないですよ」
皇后の侍女が、現れた女の子に声をかける。
七歳くらいだろうか。少し背が高く、細身ですらりとしている。首もとの襟が詰まった上衣に、動きやすい軽やかな裙をはいている。
「ごめんね。人が来るって知らなかったから。えっとね、施潔華といいます。伯母さまに会いに来たんだよ、です」
肩までの栗色の髪が、光を宿す。
(やはり施家のお子さまなので。皇后陛下の姪でいらっしゃるんだわ)
梅娜は姿勢をただした。
「でも後宮って子供がいないって聞いてたから。うれしいな。桃莉だっけ、いっしょに遊ぼ」
矢継ぎ早に潔華に話しかけられて、桃莉は固まってしまった。
「え? なんで?」
梅娜の後ろにまわりこんだ潔華が、指でつんつんと桃莉の肩をつつく。さらに桃莉の顔がこわばった。
「あれ?」と、潔華が何かに気づいたように声をあげた。
「もしかして。泥で遊んでた?」
「ひぃぃぃ」と、悲鳴を上げたのは梅娜だった。
しまった。急な代理だったから、桃莉さまの衣裳に香を焚きしめていない。髪は梳いたけれど、もしかして泥がついていたのを見過ごしたのかもしれない。
「うん」と、桃莉公主は小さくうなずいた。
傍らに翠鈴がいたなら、桃莉は彼女の手をぎゅっと握りしめていただろう。
だが、翠鈴は寿華宮の中に入れない。
初めて母親から任された大役に、桃莉はキッと顔を上げた。
「チャータンをつくったの、どろで。おみずで、びしゃびしゃにするの。おさとうは、ゆき……だよ。です」
だが心意気はあっても、すぐに声が消え入りそうになる。
「うわぁ。いいね」
潔華の笑顔が弾けた。もう泥遊びなんて年齢ではないだろうに。
その笑顔につられたのか、桃莉が侍女頭の梅娜の陰から顔を出す。
「おともだち、だ」
「え?」
潔華が首をかしげる。
「タオリィのおともだち。でしょ?」
人見知りのはずなのに。桃莉はきらきらの澄んだ瞳で、潔華を見つめる。
他の妃に赤子はいるが。桃莉は後宮で、たったひとりの幼児だ。雪や泥でいろんなものを作っても、一緒に楽しんでくれるのは翠鈴だけ。
どんなに懐いていても、翠鈴は大人だ。仕事もあるし、遊んでくれる時間は短い。
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