上 下
89 / 171
五章 女炎帝

7、侵入者【1】

しおりを挟む
 翌朝。夜更かしをしてしまった翠鈴ツイリンは、あくびが止まらなかった。
 なにしろ陳燕チェンイェンの話が長かったのだ。

 しかも夜明けに合わせて、未央宮の下げ灯籠を消して回らなければならない。

「眠そうね、翠鈴」
「うん。ちょっと頭が働かないかも」

 食堂で、由由ヨウヨウと並んで座り朝食をとる。
 油条ヨウティヤオを手で折ってどぼん。
 あれ? ふだんと音が違う。

「ちがうちがう。翠鈴。それ、鹹豆醤シェントウジャンじゃなくって、お茶」
「あー。やっちゃった」

 温かい塩味の豆乳に、酢や醤油、ネギに干した小エビを入れたのが鹹豆醤シェントウジャンだ。酢で凝固して、ほろほろとした豆乳に油条をひたすと、とてもおいしい。

 うすい茎茶を吸ってしまった油条を、翠鈴は「困ったなぁ」と眺める。
 しょうがない。今日は宮灯の掃除のついでに、座ったままでちょっと寝よう。

 午後。翠鈴はさぼっていないように見せながら、仮眠をとった。
 床に座って、自分の前には宮灯を置いておく。右手に布を持って、さも「宮灯を磨いている途中ですよー」という風を装って、目を閉じる。

 未央宮にある作業部屋には、翠鈴ひとりだけ。
 庭から桃莉公主の声が聞こえる。蘭淑妃も一緒なのだろう。桃莉タオリィ公主は軽やかにはしゃいでいる。

「桃莉。その鉢は触ってはいけませんよ」と、蘭淑妃の声が聞こえた。

 そういえば、盆山ぼんざんに使う松の盆栽があったな。てのひらに載るほどに小さいのに、樹形は風格ある松に育っている。
 未央宮に飾るために、園丁が丹精込めて手入れしている逸品だ。

 あの松は高そうだなぁ。今日も風が冷たいなぁ。桃莉公主のしもやけは、完治なさっただろうか。
 眠いので、翠鈴の思考はバラバラだ。

 火鉢はないが。まどから射しこむ陽射しで、室内は寒すぎるほどでもない。瞼がとろんと落ちるのが妙に心地いい。

 だが、眠りは妨げられた。

「早く探せ」
「どこに逃げ込んだ」

 緊迫した声が、遠くから聞こえる。
 翠鈴は跳び起きた。

 力任せに扉を開き、声のした方を確認する。右? 左? 違う。前方の門だ。
 だが、まずは皆の安全の確認を。
 翠鈴は回廊を走った。さっきまで眠っていたとは思えぬ速さだ。

「ツイリン。どうしたの?」

 侍女たちに囲まれた蘭淑妃と桃莉公主が、目を丸くする。
 さすがに淑妃の侍女は心得たもので、主たちを囲んで守っている。

「あの声は何でしょう」
「分かりません。ですが『どこに逃げ込んだ』と聞こえました。不審な者が、未央宮に侵入する可能性があります。早く中にお入りになってください」

 蘭淑妃の問いかけに、翠鈴は答えた。
 淑妃はすぐに、桃莉公主の肩を抱いて歩きはじめる。

「翠鈴。大丈夫でしょうか」

 侍女のひとりが翠鈴にすがりついてきた。声がかすれている。無理もない。四夫人に仕える侍女ともなれば、良家のお嬢さまなのだから。

「様子を見てきます。誰か、宮の外に出て人を呼んできてください。裏からなら行けるでしょう。あとは部屋に鍵を掛けて、安全が確認されるまでは開けぬように」

 翠鈴は司燈の仕事で使う、金属の棒を手にした。長い棒ならば相手の動きを封じることができる。
 薬草を摘むために、子供の頃から山野を歩いていた翠鈴は、体が鍛えられている。

「まぁ。ここが後宮っていうのだけが、幸いかもしれない」

 閉じられた世界にいるのが女性と宦官だけなのだから。さすがに翠鈴でも、筋骨たくましい男性相手だと力では敵わない。

 がさりと音がした。
 翠鈴は、棒を構えて淑妃たちを背中で隠す。

 淑妃や侍女の足音が遠ざかり、扉が閉まる音がした。もう大丈夫だ。

 首に巻いた、絹のように繊細な圍巾ウェイジンをぎゅっと握りしめる。
 どうか力を。と、ここにいない人に念じながら。

「出てきなさい」

 命じる翠鈴の声は、凍てついた氷を思わせた。

 風が起こる。翠鈴に向かって。
 棒を両手で構えなおして、顔を防御する。硬い音がして、棒に衝撃を感じた。
 湿った土のにおいが漂った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

稀代の大賢者は0歳児から暗躍する〜公爵家のご令息は運命に抵抗する〜

撫羽
ファンタジー
ある邸で秘密の会議が開かれていた。 そこに出席している3歳児、王弟殿下の一人息子。実は前世を覚えていた。しかもやり直しの生だった!? どうしてちびっ子が秘密の会議に出席するような事になっているのか? 何があったのか? それは生後半年の頃に遡る。 『ばぶぁッ!』と元気な声で目覚めた赤ん坊。 おかしいぞ。確かに俺は刺されて死んだ筈だ。 なのに、目が覚めたら見覚えのある部屋だった。両親が心配そうに見ている。 しかも若い。え? どうなってんだ? 体を起こすと、嫌でも目に入る自分のポヨンとした赤ちゃん体型。マジかよ!? 神がいるなら、0歳児スタートはやめてほしかった。 何故だか分からないけど、人生をやり直す事になった。実は将来、大賢者に選ばれ魔族討伐に出る筈だ。だが、それは避けないといけない。 何故ならそこで、俺は殺されたからだ。 ならば、大賢者に選ばれなければいいじゃん!と、小さな使い魔と一緒に奮闘する。 でも、それなら魔族の問題はどうするんだ? それも解決してやろうではないか! 小さな胸を張って、根拠もないのに自信満々だ。 今回は初めての0歳児スタートです。 小さな賢者が自分の家族と、大好きな婚約者を守る為に奮闘します。 今度こそ、殺されずに生き残れるのか!? とは言うものの、全然ハードな内容ではありません。 今回も癒しをお届けできればと思います。

富豪外科医は、モテモテだが結婚しない?

青夜
キャラ文芸
東大医学部卒。今は港区の大病院に外科医として勤める主人公。 親友夫婦が突然の事故で亡くなった。主人公は遺された四人の子どもたちを引き取り、一緒に暮らすことになった。 資産は十分にある。 子どもたちは、主人公に懐いてくれる。 しかし、何の因果か、驚天動地の事件ばかりが起きる。 幼く美しい巨大財閥令嬢 ⇒ 主人公にベタベタです。 暗殺拳の美しい跡取り ⇒ 昔から主人公にベタ惚れです。 元レディースの超美しいナース ⇒ 主人公にいろんな意味でベタベタです。 大精霊 ⇒ お花を咲かせる類人猿です。 主人公の美しい長女 ⇒ もちろん主人公にベタベタですが、最強です。 主人公の長男 ⇒ 主人公を神の如く尊敬します。 主人公の双子の娘 ⇒ 主人公が大好きですが、大事件ばかり起こします。 その他美しい女たちと美しいゲイの青年 ⇒ みんなベタベタです。 伝説のヤクザ ⇒ 主人公の舎弟になります。 大妖怪 ⇒ 舎弟になります。 守り神ヘビ ⇒ 主人公が大好きです。 おおきな猫 ⇒ 主人公が超好きです。 女子会 ⇒ 無事に終わったことはありません。 理解不能な方は、是非本編へ。 決して後悔させません! 捧腹絶倒、涙流しまくりの世界へようこそ。 ちょっと過激な暴力描写もあります。 苦手な方は読み飛ばして下さい。 性描写は控えめなつもりです。 どんなに読んでもゼロカロリーです。

諦めて溺愛されてください~皇帝陛下の湯たんぽ係やってます~

七瀬京
キャラ文芸
庶民中の庶民、王宮の洗濯係のリリアは、ある日皇帝陛下の『湯たんぽ』係に任命される。 冷酷無比極まりないと評判の皇帝陛下と毎晩同衾するだけの簡単なお仕事だが、皇帝陛下は妙にリリアを気に入ってしまい……??

婚約破棄はいいですが、あなた学院に届け出てる仕事と違いませんか?

来住野つかさ
恋愛
侯爵令嬢オリヴィア・マルティネスの現在の状況を端的に表すならば、絶体絶命と言える。何故なら今は王立学院卒業式の記念パーティの真っ最中。華々しいこの催しの中で、婚約者のシェルドン第三王子殿下に婚約破棄と断罪を言い渡されているからだ。 パン屋で働く苦学生・平民のミナを隣において、シェルドン殿下と側近候補達に断罪される段になって、オリヴィアは先手を打つ。「ミナさん、あなた学院に提出している『就業許可申請書』に書いた勤務内容に偽りがありますわよね?」―― よくある婚約破棄ものです。R15は保険です。あからさまな表現はないはずです。 ※この作品は『カクヨム』『小説家になろう』にも掲載しています。

今日からはじめる錬金生活〜家から追い出されたので王都の片隅で錬金術店はじめました〜

束原ミヤコ
恋愛
マユラは優秀な魔導師を輩出するレイクフィア家に生まれたが、魔導の才能に恵まれなかった。 そのため幼い頃から小間使いのように扱われ、十六になるとアルティナ公爵家に爵位と金を引き換えに嫁ぐことになった。 だが夫であるオルソンは、初夜の晩に現れない。 マユラはオルソンが義理の妹リンカと愛し合っているところを目撃する。 全てを諦めたマユラは、領地の立て直しにひたすら尽力し続けていた。 それから四年。リンカとの間に子ができたという理由で、マユラは離縁を言い渡される。 マユラは喜び勇んで家を出た。今日からはもう誰かのために働かなくていい。 自由だ。 魔法は苦手だが、物作りは好きだ。商才も少しはある。 マユラは王都の片隅で、錬金術店を営むことにした。 これは、マユラが偉大な錬金術師になるまでの、初めの一歩の話──。

妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?

木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。 彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。 公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。 しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。 だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。 二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。 彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。 ※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。

破鏡悲歌~傾国の寵姫は復讐の棘を孕む

無憂
恋愛
下級官吏の娘であった蔡紫玲は、不遇の皇子・伯祥の妃に選ばれる。互いに比翼連理を誓った二人の蜜月はわずか数か月。紫玲の美しさに目をつけた皇帝は権力を振りかざして紫玲を奪い、後宮に入れた。伯祥の死を知った紫玲は、復讐を決意する――  玉匣清光不復持、菱花散亂月輪虧。  秦臺一照山鶏後、便是孤鸞罷舞時。  (唐・李商隠「破鏡」) 割れた鏡に込められた夫婦の愛と執着の行き着く先は。中華復讐譚。

公爵令嬢は逃げ出すことにした【完結済】

佐原香奈
恋愛
公爵家の跡取りとして厳しい教育を受けるエリー。 異母妹のアリーはエリーとは逆に甘やかされて育てられていた。 幼い頃からの婚約者であるヘンリーはアリーに惚れている。 その事実を1番隣でいつも見ていた。 一度目の人生と同じ光景をまた繰り返す。 25歳の冬、たった1人で終わらせた人生の繰り返しに嫌気がさし、エリーは逃げ出すことにした。 これからもずっと続く苦痛を知っているのに、耐えることはできなかった。 何も持たず公爵家の門をくぐるエリーが向かった先にいたのは… 完結済ですが、気が向いた時に話を追加しています。

処理中です...