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四章 猛毒草

13、毒の壺

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「あなた、よく無事だったわね。本当なら、主の蔡昭媛ツァイしょうえんさまよりも、具合が悪くなっていたはずなのに」

 翠鈴ツイリンの言葉に、蔡昭媛は「どういうことなの?」と、范敬ファンジンの顔を見た。

「それとも気丈にふるまうことで、不調を悟られぬようにしているのかしら」

 図星だったらしい。
 翠鈴の指摘に、范敬はびくりと身をすくませた。

「そちらの呉正鳴ウージョンミンの症状は、毒によるものです。おそらくは大芹おおぜり毒芹どくぜりとも言いますが。最凶の毒草のひとつです」

 翠鈴は周囲を見渡した。
 医師がいる、医官もいる。けれど人払いをしている場合ではない。

 もし誰もいなくなれば、この侍女は再び大芹を呉正鳴の口に突っ込むだろう。
 飲みこみやすいように、小さく切った猛毒を。

 大芹に触れるだけでも、痙攣や麻痺を起こす。
 ほんの少し口に入れただけで、呼吸停止に陥る者もいる。
 触れても、食べても死亡する危険が高い。

(この侍女は危険だ。毒に対して中途半端な知識がある)

 范敬は動くだろうと、翠鈴は考えていた。だが、まさか猛毒草を壺に入れて持ち歩いているなど、想定外だ。

 翠鈴にしても胡玲にしても、薬師なので毒の知識は当然ある。だからこそ、見誤った。
 触れるだけで死に至る毒を、素手で杜撰に扱う者がいるなど。あり得ない、あってはならないことだ。

 医局に人が入ってくる気配がした。

 翠鈴が横目で見ると、光柳と雲嵐の姿があった。
 呉正鳴に、話を聞くためにやって来たのだろう。

 当の呉正鳴は、苦しそうに呻いている。寝台の枕の周囲に、大芹のかけらや葉が落ちている。
 幸い、顔にはかかっていないが。医官たちがすぐに敷布を交換した。

「どうして呉正鳴に毒を食べさせたの? 薬と偽って」
「わ、私は……雪雪シュエシュエさまをお守りしようと」

 翠鈴に答える范敬の声は震えている。
 手の震えは緊張なのか。それとも大芹に触れたせいで、痙攣をおこしているのか。

 以前。秋明菊の草汁が染みた紙に触れた陳燕チェンイェンの手を、翠鈴はすぐに水で洗い流した。

 陳燕も范敬も、どちらも翠鈴を愚弄したが。助ける、助けないの基準はその点ではない。
 この侍女には、明確な殺意がある。
 范敬ファンジンの具合が悪いのであれば、呉正鳴を殺せないと翠鈴は判断した。

(だから嫌なのよ。薬師は人の命を救うけれど。場合によっては、人の命に優先順位をつけなければならないのだから)

 翠鈴は強く拳を握りしめた。てのひらに爪が食い込むほどに。
 それでも自分がやらなければならない。蔡昭媛は翠鈴を頼ってきたのだから。
 重い。あまりにも重い判断だ。

「主を守るために、嫌味を言う意地悪な宦官を殺すの? 嫌いならば、殺せばいいなんて。子供でも、そんな単純な考え方はしないわ。それに、あなたが守りたいという蔡昭媛さまに嫌疑がかかるのではなくて?」

「ですが……あの男が、悪いんです。雪雪さまが嫌がっておいでなのに。愚図で見すぼらしくて、意志が弱くて。女性としての魅力もない。そんな風に、雪雪さまのことを罵るばかりで。わざわざ罵倒するために、宮にやってきて」

 蔡昭媛は、呉正鳴の姿を見るたびに脅えていたらしい。声を聞くたびに、冷や汗をかいていたらしい。
 それでも呉正鳴はやって来る。

「一度でも、夜に訪れたいものだね。陛下と君の閨での様子を記録したいものだ。だが、そんな日は来ない。君とはいつだって昼にしか会わない」と、皮肉を言うために。

 中傷するためだけに、わざわざ関係のない嬪のもとを、宦官が訪れるだろうか。
 否。呉正鳴には別の目的があったはずだ。

「……オレ、は、雪雪さまを、穢されたくなかった」

 か細い声が、寝台から聞こえた。
 少し意識が明瞭になったらしい。呉正鳴が、虚ろではあるが目を開いている。

「雪雪さまがご病気なら、それが気の病であっても……陛下は彼女を遠ざける」

 それは陛下に抱かれることが、すなわち穢れであると。呉正鳴は話している。
 しかも、帝の嬪を鬱の状態に落とし、この後宮から外に出してやりたいと。

 なんという不敬。妃嬪は帝の子を産むために、集められているというのに。

「あんたには分からないわ」と、范敬はこぼした。

「後宮を追いだされても、雪雪さまは幸せになどなれない。こんなにも衰弱なさっては、尼寺ですら受け入れてはくれない。昭媛の位を剥奪された雪雪さまを、蔡家が歓待するわけがない」

 ぎりっと歯ぎしりをする音が聞こえた。
 范敬は、寝台に横たわる呉正鳴を睨みつけている。親の仇かと思えるほどに、厳しい目つきで。

「穢されたくなかったというのなら。呉正鳴、あなたは蔡昭媛の元に陛下が訪れることが分かっていたのね」

 翠鈴は問うた。

 たとえ気まぐれであったとしても。陛下は、蔡昭媛を抱こうと思いついた。
 おそらくは「そういえば、まだ一度も手を付けたことのない嬪がいたな」と、周囲に話したのだろう。

 渡りが本決まりとなれば、先触れがいる。永仁宮でも、陛下を迎える用意をしなければならないのだから。

「あんたが雪雪さまを追い込まなければ。雪雪さまは、御子を授かったかもしれないのに」

 范敬が床を殴る。何度も、何度も。
 切り刻まれた大芹の根茎と葉が、彼女の拳で潰されていく。

(ああ、もうダメだ)

 翠鈴は天井を仰いだ。
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