75 / 176
四章 猛毒草
9、嫌われているので
しおりを挟む
光柳たちのいる隣室で。翠鈴は、蔡昭媛の話に耳を傾けた。
か細くて、聞き取りにくい声だ。しかもくぐもっている。
椅子に座った翠鈴は少し前かがみになって、身を乗りだして、少しでも距離を詰めるように心がける。
「呉正鳴さまは、わたくしのことを嫌っておいでです」
「面と向かって言われたのですか?」
翠鈴に問われて、蔡昭媛は目を伏せる。とてもつらそうに。
「あなたは、他の嬪と比べても見劣りする。どんなに着飾ろうと、陛下の目に留まることなどない。化粧をしようが、髪をきれいに結おうが無駄だ。私が夜にあなたの顔を見ることは、決してない、と」
「無礼な奴ですね」
思わず翠鈴の口から、率直な言葉が出てしまった。
「無礼、なのですか? わたくしが地味で、陰気くさいのは事実ですのに。ですから責められておりますのに」
蔡昭媛は、ぽかんと口を開いた。
「陰気くさいとまで、罵られたんですか?」
翠鈴は眉根を寄せる。
この人は、罵倒されているのは自分に原因があるからだと信じ込んでいる。
失礼な宦官に非があるとは考えないのだろうか。余計なお世話だと、反発しないのだろうか。
(いや、無理かな。実家である蔡家に力があれば、陛下ももっと彼女を大事にするだろうし。蔡昭媛さまは子供を授からないどころか、それ以前に陛下の相手をすることもない)
女性としての魅力で、陛下を虜にする人もいる。身分は、あまり関係ない。
今の蔡昭媛は顔色は悪いし、髪もぱさついている。体も痩せている。
だが、これは本来の彼女ではないだろう。
病というほどではないが。気虚の状態は、精神にも体にも悪い。
「その宦官……呉正鳴ですか? そいつに仕返しをしてやろとは思わないのですか?」
翠鈴の問いかけに、蔡昭媛は身をすくませた。
「恐ろしいことをおっしゃらないで。殿方に逆らうなど、無理に決まっています」
「では、誰かが代わりに、相手を成敗してほしいとは?」
我ながら、意地の悪い質問だと翠鈴は思う。
けれど、誰かが救ってくれると待っていても事態は変わらない。
「事実、蔡昭媛さまは後宮で暮らし続けるのもお辛そうです。実家に戻されて……まぁ、今の状態では尼寺に行くのは免除されそうですが。そうなれば……」
あれ?
翠鈴は言葉を途切れさせた。
なんだろう。何かが引っかかる。
「この続きは、日を改めさせていただいてもよろしいですか?」
「え?」
「思い込みで話を進めるのは、よくありません。明日にでも医局に行って、気虚に効く薬をもらってください。未央宮の翠鈴の名を出してくだされば、薬を用意してもらえるでしょう」
立ち上がった翠鈴は、まだ座っている蔡昭媛を見据えた。
「その宦官は、あなたに『私が夜にあなたの顔を見ることは、決してないではないか』と言い放ったんですよね?」
こくりと蔡昭媛はうなずいた。
「はい。呉正鳴は陛下の閨房渡りに関する業務に就いています。ですから、陛下がわたくしの元へいらっしゃらない以上、呉正鳴もまた、わたくしと夜に会うことはありません」
医局で苦しそうに呻いていた宦官と、蔡昭媛を虐める宦官が同一人物であると繋がった。
部屋を出ていく蔡昭媛を、翠鈴は見送った。
何かが解決したわけではない。
けれど、誰にも言えぬことを話したので、少しはすっきりしたのだろうか。
未央宮を訪れた時よりも、蔡昭媛の目つきはしっかりしていた。
「陛下の渡りを管理する宦官と、陛下の渡りのない嬪。まず顔を合わせることもない関係だわ」
なのに、呉正鳴は蔡昭媛を虐めている。
用のない彼女の宮まで、わざわざやって来る。嫌味を言うために。
(昭媛の永仁宮は、後宮の中でも外れの方にあるのに)
廊下に出たところで、隣の部屋の扉が開いた。
「雪雪さま」
なぜか表情を輝かせた侍女の范敬が、主を出迎える。
理由はすぐに分かった。侍女の背後に光柳が立っていたからだ。隣には雲嵐もいる。
翠鈴を見つけた光柳は、ぱぁっと笑顔が花開いた。
(なんでそっちの部屋は、光柳さまも侍女も輝いてるの?)
ちょっと愚痴りたくなった。
か細くて、聞き取りにくい声だ。しかもくぐもっている。
椅子に座った翠鈴は少し前かがみになって、身を乗りだして、少しでも距離を詰めるように心がける。
「呉正鳴さまは、わたくしのことを嫌っておいでです」
「面と向かって言われたのですか?」
翠鈴に問われて、蔡昭媛は目を伏せる。とてもつらそうに。
「あなたは、他の嬪と比べても見劣りする。どんなに着飾ろうと、陛下の目に留まることなどない。化粧をしようが、髪をきれいに結おうが無駄だ。私が夜にあなたの顔を見ることは、決してない、と」
「無礼な奴ですね」
思わず翠鈴の口から、率直な言葉が出てしまった。
「無礼、なのですか? わたくしが地味で、陰気くさいのは事実ですのに。ですから責められておりますのに」
蔡昭媛は、ぽかんと口を開いた。
「陰気くさいとまで、罵られたんですか?」
翠鈴は眉根を寄せる。
この人は、罵倒されているのは自分に原因があるからだと信じ込んでいる。
失礼な宦官に非があるとは考えないのだろうか。余計なお世話だと、反発しないのだろうか。
(いや、無理かな。実家である蔡家に力があれば、陛下ももっと彼女を大事にするだろうし。蔡昭媛さまは子供を授からないどころか、それ以前に陛下の相手をすることもない)
女性としての魅力で、陛下を虜にする人もいる。身分は、あまり関係ない。
今の蔡昭媛は顔色は悪いし、髪もぱさついている。体も痩せている。
だが、これは本来の彼女ではないだろう。
病というほどではないが。気虚の状態は、精神にも体にも悪い。
「その宦官……呉正鳴ですか? そいつに仕返しをしてやろとは思わないのですか?」
翠鈴の問いかけに、蔡昭媛は身をすくませた。
「恐ろしいことをおっしゃらないで。殿方に逆らうなど、無理に決まっています」
「では、誰かが代わりに、相手を成敗してほしいとは?」
我ながら、意地の悪い質問だと翠鈴は思う。
けれど、誰かが救ってくれると待っていても事態は変わらない。
「事実、蔡昭媛さまは後宮で暮らし続けるのもお辛そうです。実家に戻されて……まぁ、今の状態では尼寺に行くのは免除されそうですが。そうなれば……」
あれ?
翠鈴は言葉を途切れさせた。
なんだろう。何かが引っかかる。
「この続きは、日を改めさせていただいてもよろしいですか?」
「え?」
「思い込みで話を進めるのは、よくありません。明日にでも医局に行って、気虚に効く薬をもらってください。未央宮の翠鈴の名を出してくだされば、薬を用意してもらえるでしょう」
立ち上がった翠鈴は、まだ座っている蔡昭媛を見据えた。
「その宦官は、あなたに『私が夜にあなたの顔を見ることは、決してないではないか』と言い放ったんですよね?」
こくりと蔡昭媛はうなずいた。
「はい。呉正鳴は陛下の閨房渡りに関する業務に就いています。ですから、陛下がわたくしの元へいらっしゃらない以上、呉正鳴もまた、わたくしと夜に会うことはありません」
医局で苦しそうに呻いていた宦官と、蔡昭媛を虐める宦官が同一人物であると繋がった。
部屋を出ていく蔡昭媛を、翠鈴は見送った。
何かが解決したわけではない。
けれど、誰にも言えぬことを話したので、少しはすっきりしたのだろうか。
未央宮を訪れた時よりも、蔡昭媛の目つきはしっかりしていた。
「陛下の渡りを管理する宦官と、陛下の渡りのない嬪。まず顔を合わせることもない関係だわ」
なのに、呉正鳴は蔡昭媛を虐めている。
用のない彼女の宮まで、わざわざやって来る。嫌味を言うために。
(昭媛の永仁宮は、後宮の中でも外れの方にあるのに)
廊下に出たところで、隣の部屋の扉が開いた。
「雪雪さま」
なぜか表情を輝かせた侍女の范敬が、主を出迎える。
理由はすぐに分かった。侍女の背後に光柳が立っていたからだ。隣には雲嵐もいる。
翠鈴を見つけた光柳は、ぱぁっと笑顔が花開いた。
(なんでそっちの部屋は、光柳さまも侍女も輝いてるの?)
ちょっと愚痴りたくなった。
22
お気に入りに追加
720
あなたにおすすめの小説
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。
職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい
LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。
相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。
何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。
相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。
契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~
流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。
しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。
けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
継母の品格 〜 行き遅れ令嬢は、辺境伯と愛娘に溺愛される 〜
出口もぐら
恋愛
【短編】巷で流行りの婚約破棄。
令嬢リリーも例外ではなかった。家柄、剣と共に生きる彼女は「女性らしさ」に欠けるという理由から、婚約破棄を突き付けられる。
彼女の手は研鑽の証でもある、肉刺や擦り傷がある。それを隠すため、いつもレースの手袋をしている。別にそれを恥じたこともなければ、婚約破棄を悲しむほど脆弱ではない。
「行き遅れた令嬢」こればかりはどうしようもない、と諦めていた。
しかし、そこへ辺境伯から婚約の申し出が――。その辺境伯には娘がいた。
「分かりましたわ!これは契約結婚!この小さなお姫様を私にお守りするようにと仰せですのね」
少しばかり天然、快活令嬢の継母ライフ。
■この作品は「小説家になろう」にも投稿しています。
【完結】勤労令嬢、街へ行く〜令嬢なのに下働きさせられていた私を養女にしてくれた侯爵様が溺愛してくれるので、国いちばんのレディを目指します〜
鈴木 桜
恋愛
貧乏男爵の妾の子である8歳のジリアンは、使用人ゼロの家で勤労の日々を送っていた。
誰よりも早く起きて畑を耕し、家族の食事を準備し、屋敷を隅々まで掃除し……。
幸いジリアンは【魔法】が使えたので、一人でも仕事をこなすことができていた。
ある夏の日、彼女の運命を大きく変える出来事が起こる。
一人の客人をもてなしたのだ。
その客人は戦争の英雄クリフォード・マクリーン侯爵の使いであり、ジリアンが【魔法の天才】であることに気づくのだった。
【魔法】が『武器』ではなく『生活』のために使われるようになる時代の転換期に、ジリアンは戦争の英雄の養女として迎えられることになる。
彼女は「働かせてください」と訴え続けた。そうしなければ、追い出されると思ったから。
そんな彼女に、周囲の大人たちは目一杯の愛情を注ぎ続けた。
そして、ジリアンは少しずつ子供らしさを取り戻していく。
やがてジリアンは17歳に成長し、新しく設立された王立魔法学院に入学することに。
ところが、マクリーン侯爵は渋い顔で、
「男子生徒と目を合わせるな。微笑みかけるな」と言うのだった。
学院には幼馴染の謎の少年アレンや、かつてジリアンをこき使っていた腹違いの姉もいて──。
☆第2部完結しました☆
初耳なのですが…、本当ですか?
あおくん
恋愛
侯爵令嬢の次女として、父親の仕事を手伝ったり、邸の管理をしたりと忙しくしているアニーに公爵家から婚約の申し込みが来た!
でも実際に公爵家に訪れると、異世界から来たという少女が婚約者の隣に立っていて…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる