75 / 184
四章 猛毒草
9、嫌われているので
しおりを挟む
光柳たちのいる隣室で。翠鈴は、蔡昭媛の話に耳を傾けた。
か細くて、聞き取りにくい声だ。しかもくぐもっている。
椅子に座った翠鈴は少し前かがみになって、身を乗りだして、少しでも距離を詰めるように心がける。
「呉正鳴さまは、わたくしのことを嫌っておいでです」
「面と向かって言われたのですか?」
翠鈴に問われて、蔡昭媛は目を伏せる。とてもつらそうに。
「あなたは、他の嬪と比べても見劣りする。どんなに着飾ろうと、陛下の目に留まることなどない。化粧をしようが、髪をきれいに結おうが無駄だ。私が夜にあなたの顔を見ることは、決してない、と」
「無礼な奴ですね」
思わず翠鈴の口から、率直な言葉が出てしまった。
「無礼、なのですか? わたくしが地味で、陰気くさいのは事実ですのに。ですから責められておりますのに」
蔡昭媛は、ぽかんと口を開いた。
「陰気くさいとまで、罵られたんですか?」
翠鈴は眉根を寄せる。
この人は、罵倒されているのは自分に原因があるからだと信じ込んでいる。
失礼な宦官に非があるとは考えないのだろうか。余計なお世話だと、反発しないのだろうか。
(いや、無理かな。実家である蔡家に力があれば、陛下ももっと彼女を大事にするだろうし。蔡昭媛さまは子供を授からないどころか、それ以前に陛下の相手をすることもない)
女性としての魅力で、陛下を虜にする人もいる。身分は、あまり関係ない。
今の蔡昭媛は顔色は悪いし、髪もぱさついている。体も痩せている。
だが、これは本来の彼女ではないだろう。
病というほどではないが。気虚の状態は、精神にも体にも悪い。
「その宦官……呉正鳴ですか? そいつに仕返しをしてやろとは思わないのですか?」
翠鈴の問いかけに、蔡昭媛は身をすくませた。
「恐ろしいことをおっしゃらないで。殿方に逆らうなど、無理に決まっています」
「では、誰かが代わりに、相手を成敗してほしいとは?」
我ながら、意地の悪い質問だと翠鈴は思う。
けれど、誰かが救ってくれると待っていても事態は変わらない。
「事実、蔡昭媛さまは後宮で暮らし続けるのもお辛そうです。実家に戻されて……まぁ、今の状態では尼寺に行くのは免除されそうですが。そうなれば……」
あれ?
翠鈴は言葉を途切れさせた。
なんだろう。何かが引っかかる。
「この続きは、日を改めさせていただいてもよろしいですか?」
「え?」
「思い込みで話を進めるのは、よくありません。明日にでも医局に行って、気虚に効く薬をもらってください。未央宮の翠鈴の名を出してくだされば、薬を用意してもらえるでしょう」
立ち上がった翠鈴は、まだ座っている蔡昭媛を見据えた。
「その宦官は、あなたに『私が夜にあなたの顔を見ることは、決してないではないか』と言い放ったんですよね?」
こくりと蔡昭媛はうなずいた。
「はい。呉正鳴は陛下の閨房渡りに関する業務に就いています。ですから、陛下がわたくしの元へいらっしゃらない以上、呉正鳴もまた、わたくしと夜に会うことはありません」
医局で苦しそうに呻いていた宦官と、蔡昭媛を虐める宦官が同一人物であると繋がった。
部屋を出ていく蔡昭媛を、翠鈴は見送った。
何かが解決したわけではない。
けれど、誰にも言えぬことを話したので、少しはすっきりしたのだろうか。
未央宮を訪れた時よりも、蔡昭媛の目つきはしっかりしていた。
「陛下の渡りを管理する宦官と、陛下の渡りのない嬪。まず顔を合わせることもない関係だわ」
なのに、呉正鳴は蔡昭媛を虐めている。
用のない彼女の宮まで、わざわざやって来る。嫌味を言うために。
(昭媛の永仁宮は、後宮の中でも外れの方にあるのに)
廊下に出たところで、隣の部屋の扉が開いた。
「雪雪さま」
なぜか表情を輝かせた侍女の范敬が、主を出迎える。
理由はすぐに分かった。侍女の背後に光柳が立っていたからだ。隣には雲嵐もいる。
翠鈴を見つけた光柳は、ぱぁっと笑顔が花開いた。
(なんでそっちの部屋は、光柳さまも侍女も輝いてるの?)
ちょっと愚痴りたくなった。
か細くて、聞き取りにくい声だ。しかもくぐもっている。
椅子に座った翠鈴は少し前かがみになって、身を乗りだして、少しでも距離を詰めるように心がける。
「呉正鳴さまは、わたくしのことを嫌っておいでです」
「面と向かって言われたのですか?」
翠鈴に問われて、蔡昭媛は目を伏せる。とてもつらそうに。
「あなたは、他の嬪と比べても見劣りする。どんなに着飾ろうと、陛下の目に留まることなどない。化粧をしようが、髪をきれいに結おうが無駄だ。私が夜にあなたの顔を見ることは、決してない、と」
「無礼な奴ですね」
思わず翠鈴の口から、率直な言葉が出てしまった。
「無礼、なのですか? わたくしが地味で、陰気くさいのは事実ですのに。ですから責められておりますのに」
蔡昭媛は、ぽかんと口を開いた。
「陰気くさいとまで、罵られたんですか?」
翠鈴は眉根を寄せる。
この人は、罵倒されているのは自分に原因があるからだと信じ込んでいる。
失礼な宦官に非があるとは考えないのだろうか。余計なお世話だと、反発しないのだろうか。
(いや、無理かな。実家である蔡家に力があれば、陛下ももっと彼女を大事にするだろうし。蔡昭媛さまは子供を授からないどころか、それ以前に陛下の相手をすることもない)
女性としての魅力で、陛下を虜にする人もいる。身分は、あまり関係ない。
今の蔡昭媛は顔色は悪いし、髪もぱさついている。体も痩せている。
だが、これは本来の彼女ではないだろう。
病というほどではないが。気虚の状態は、精神にも体にも悪い。
「その宦官……呉正鳴ですか? そいつに仕返しをしてやろとは思わないのですか?」
翠鈴の問いかけに、蔡昭媛は身をすくませた。
「恐ろしいことをおっしゃらないで。殿方に逆らうなど、無理に決まっています」
「では、誰かが代わりに、相手を成敗してほしいとは?」
我ながら、意地の悪い質問だと翠鈴は思う。
けれど、誰かが救ってくれると待っていても事態は変わらない。
「事実、蔡昭媛さまは後宮で暮らし続けるのもお辛そうです。実家に戻されて……まぁ、今の状態では尼寺に行くのは免除されそうですが。そうなれば……」
あれ?
翠鈴は言葉を途切れさせた。
なんだろう。何かが引っかかる。
「この続きは、日を改めさせていただいてもよろしいですか?」
「え?」
「思い込みで話を進めるのは、よくありません。明日にでも医局に行って、気虚に効く薬をもらってください。未央宮の翠鈴の名を出してくだされば、薬を用意してもらえるでしょう」
立ち上がった翠鈴は、まだ座っている蔡昭媛を見据えた。
「その宦官は、あなたに『私が夜にあなたの顔を見ることは、決してないではないか』と言い放ったんですよね?」
こくりと蔡昭媛はうなずいた。
「はい。呉正鳴は陛下の閨房渡りに関する業務に就いています。ですから、陛下がわたくしの元へいらっしゃらない以上、呉正鳴もまた、わたくしと夜に会うことはありません」
医局で苦しそうに呻いていた宦官と、蔡昭媛を虐める宦官が同一人物であると繋がった。
部屋を出ていく蔡昭媛を、翠鈴は見送った。
何かが解決したわけではない。
けれど、誰にも言えぬことを話したので、少しはすっきりしたのだろうか。
未央宮を訪れた時よりも、蔡昭媛の目つきはしっかりしていた。
「陛下の渡りを管理する宦官と、陛下の渡りのない嬪。まず顔を合わせることもない関係だわ」
なのに、呉正鳴は蔡昭媛を虐めている。
用のない彼女の宮まで、わざわざやって来る。嫌味を言うために。
(昭媛の永仁宮は、後宮の中でも外れの方にあるのに)
廊下に出たところで、隣の部屋の扉が開いた。
「雪雪さま」
なぜか表情を輝かせた侍女の范敬が、主を出迎える。
理由はすぐに分かった。侍女の背後に光柳が立っていたからだ。隣には雲嵐もいる。
翠鈴を見つけた光柳は、ぱぁっと笑顔が花開いた。
(なんでそっちの部屋は、光柳さまも侍女も輝いてるの?)
ちょっと愚痴りたくなった。
24
お気に入りに追加
734
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。

転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)


契約婚なのだから契約を守るべきでしたわ、旦那様。
よもぎ
恋愛
白い結婚を三年間。その他いくつかの決まり事。アンネリーナはその条件を呑み、三年を過ごした。そうして結婚が終わるその日になって三年振りに会った戸籍上の夫に離縁を切り出されたアンネリーナは言う。追加の慰謝料を頂きます――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる