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三章 湯泉宮と雲嵐の過去

11、助けて

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「雲嵐。どこー」

 怯えた声を出しながら、光柳が近づいてくる。

 雲嵐は、崖の下に落ちていた。
 高さは大人の背丈ほどだ。とくにケガもしていない。

(大丈夫ですよって教えてあげないと。心配なさる)

 雲嵐が声を上げようとしたその時だった。
 雨が木々の葉を叩く音がした。とうとう降りはじめたのだ。

(どうしよう。光柳さまがぬれてしまう)

 雲嵐は崖から垂れさがる草を掴んで、上ろうとした。
 けれど、湿った土に生えている草は、すぐに抜けてしまう。

「雲嵐?」

 雨音にまぎれて、声が聞こえた。
 顔を上げれば、光柳が覗きこんでいた。

「だいじょうぶ? すぐに助けるからね」

 光柳は手を差し伸べるが。細くて華奢な腕で、雲嵐を引っぱりあげることなど不可能だ。
 雲嵐は背伸びをして、毬を手渡した。

「雨に濡れますから。先に戻っていてください」
「でも」
「大丈夫。ぼくは頑丈ですから。雨が止んだら戻ります」

 光柳が毬をしっかり持ったことを確認する。

「もう手放さないでくださいね。落とさないでくださいね」
「わかった」

 光柳は、強くうなずいて去っていった。

 ああ。もうダメだろうな。
 雲嵐はため息をついた。

 光柳をずぶ濡れの状態で、離宮に戻らせたら。どんなに温厚な麟美リンメイさまだって、お怒りになるにちがいない。

 子供だけで離宮を出るんじゃなかった。光柳さまを説得して、毬を探すのは大人に任せればよかったんだ。
 夏の午後に激しい雨が降るのは、分かっていたのに。

(きっと別の子が、遊び相手として連れてこられる。ぼくはお払い箱だ)

 ほんの少しの間だけの主従だった。仲よくしてくださるから、勘違いしてしまった。

 湿った土のにおいする中で、雲嵐はひざを抱えて座りこんだ。
 バシバシバシッと激しい雨が、葉や地面に叩きつけている。

「もっとご一緒したかったな」

 ううん、そうじゃない。自分の口から出た言葉を、雲嵐は否定した。

「ずっとご一緒したかったんだ」

 遠く聞こえるのは、雷鳴かと思った。
 けれど耳をすませば「ユィンラン」と聞こえる。

 降りしきる雨のせいで、視界は白に閉ざされている。
 崖の下から見上げると、雨粒に叩かれて顔が痛い。目を開けていられない。

 それでも、雲嵐は瞼を開いた。
 雨がやんだから。

 ちがう。雲嵐を見つめる光柳と麟美の顔があったから。親子ふたりが、その頭や体で雨を防いでくれたから。

「……なんで?」
「『なんで?』は、こちらの言葉ですよ。廊下に書き置きが落ちていたので、驚いて探しに来たのですよ。わたくしも侍女たちにも話さずに、急いで出てきてしまって。そうしたら、光柳が泣きながら飛びついてくるではありませんか。『雲嵐を助けて』って。大丈夫ですか? 怪我は? 足はひねっていませんか?」

 日頃は落ち着いている麟美が、一気にまくしたてる。
 静かな佇まいは消え失せて、ふり乱した黒髪はびしょ濡れだ。

「怒られるかと思っていました」

 帝の血を引く大事な子に、何かあったらどうするのかと。

「怒っていますよ。見れば分かるでしょう?」

 けれど麟美が怒っているのは、雲嵐に無茶をするなということだ。それは心配からの怒りだ。雲嵐を大事に思ってくれているからこそだ。

「ぼく……ぼく、は……」

 うわぁぁぁぁぁ、と雲嵐は叫ぶように泣いた。

 家族から離れる時も、男でなくなった時も泣かなかったのに。

◇◇◇

 幼い頃の話をするのは、雲嵐にとってもなかなかに恥ずかしいものだったのだろう。
 苦笑しながら、碗を手にしたが。口に運んでから、それが空であることに気づいたようだ。

「どうぞ」

 翠鈴が注いだお茶を、雲嵐は礼を告げながら飲んだ。
 光柳はというと、腕を組んで眠ったふりをしている。

 主と護衛というには、光柳と雲嵐は近しい存在に見えた。友人のような気安さ。血のつながった兄である皇帝よりも、民族すらも違う雲嵐を、光柳は大事にしている。

「いいですね。幼なじみになるんでしょうか」

 翠鈴は、光柳に「お茶はいかがですか」と問いかけた。
 もしこれが礼儀にうるさい相手ならば、従者に先に茶を注いだことを咎めだてるだろう。怒りだす可能性も高い。
 だが、光柳はそうではない。

 雲嵐が長くしゃべって喉が渇いたなら。彼を優先させるべきだと、判断する。
 それは、想像力があってのことだ。
 
 光柳のそういうところが好ましい。

(わたしも雲嵐さまも、光柳さまに甘くなってしまうのは、しょうがないのかもしれない)

 こんなにも振り回されているのに。面倒だな、と思ってしまうのに。
 温泉とやらに向かう旅を、楽しんでいる自分がいる。
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