上 下
51 / 176
三章 湯泉宮と雲嵐の過去

2、お誘い

しおりを挟む
「三千里の流刑だ。首枷をつけられて、労役を課される。しかも本来は一年間の労役だが。刑部けいぶ宇軒ユーシェンに三年を命じた」

 かなり重い刑だ。翠鈴ツイリンは息を呑んだ。

 むろん、三年は陛下の意向だ。
 宇軒が観月の宴の邪魔をしただけなら、一年の労役だったかもしれない。
 やはり光柳クアンリュウを守るためだろう。

 かつて後宮を去った光柳を、先帝が無理に呼び戻された。今の陛下は、父親の強制で義弟の人生を狂わせてしまったことを悔いておられるに違いない。

 陛下には、他にも義弟がいらっしゃる。
 光柳のように母親が女官ではなく、妃嬪という高い身分を母に持つ弟たちだ。

 それでも、陛下は光柳をもっとも慈しんでおられる。

丁宇軒ティンユーシェンは、もうこの杷京はきょうに戻ってこられませんね」

 宇軒が就く労役が何かはわからない。
 けれど辺境ならば、土木作業の可能性が高い。

 楼も塔もない、広々とした空の下。宇軒は、杷京はきょうの方角を見つめ続けるのだろうか。
 砂埃の舞う風に吹かれて。彼を信じて待つ、女官の雨桐ユィ―トンの面影を追うのだろうか。

 光柳を侮辱しただけではなく、雨桐を利用していたことに気づく日は来るのだろうか。

「そうだな、王都に戻るのは無理だろう。刑期を終えた後も、宇軒は辺境の地で暮らし続けることとなる」

 光柳は静かに告げた。
 彼は、義兄の愛情に気づいていないかもしれない。あるいは知っていて、気づかぬふりをしているのか。
 
 光柳が碗を手にする。だが、口に運んだ時にそれが空であることに気づいたようだ。

 すぐに雲嵐ユィンランが、茶壺ちゃこという急須から茶を注ぐ。
 ふわりと湯気が立った。
 光柳に礼を告げられて、雲嵐の表情が和らいだ。

(陛下も雲嵐さまも、光柳さまのことを大事になさっているよね)

 後宮という閉鎖された空間なのに。身分を偽って、行動も制限されているのに。
 それでも光柳はのびのびと、素直に育ってきたように思えた。

(まぁ、書令史ひとりに部屋をひとつ与えられている時点で、たいそう甘いんだけど)

 雲嵐に礼を告げた光柳が、翠鈴に視線を向ける。
 
「今日の要件についてだが」
「丁宇軒の話ではないんですか? もう用事は済んだと思っていました」

「いや、それもあるのだが」と、光柳の歯切れは悪い。

「その、なんだ。観月の宴の礼がしたい」

 礼? それはぜひ。と翠鈴は卓に身を乗りだした。

(給金を上げるのはさすがに無理かもしれないけど。時間外手当と月餅のほかにも、褒賞はもらえるということ?)

 ああ、何を買おう。
 このあいだ、蘭淑妃にいただいた香檳シャンピン茶かなぁ。蜜の香りが高くて。おいしかったなぁ。

 翠鈴は、うっとりと目を細めた。

 今飲んでいるのも、おいしいけれど。
 小さな碗に手を添えて、翠鈴はお茶を飲み干した。

「褒美は期待してくれていい」
「そんなに弾んでくださるんですか」
「そうだ。君を温泉に招待しよう」
「は?」

 手にした碗を落としそうになってしまった。
 おんせん、ってなに?

「帰省の時以外は、後宮から許可なく出ることも難しいだろう。なに、大丈夫。私が蘭淑妃と侍女頭に話を通しておこう」
「いや、その。おんせんって」
「私と一緒であれば、許可もすぐに下りる」

 光柳は得意げだ。
 翠鈴の側にすすっと寄った雲嵐が、腰を落として耳打ちする。

「温泉とは、地中から湧いた湯の風呂です」

 井戸のこと? え、でも水じゃなくて湯? 湯の井戸なの? 沸かす必要がないのなら、お風呂がとても簡単なのでは?
 疑問がふつふつと湧いてくる。

 だが、さすがに問いかけることはできなかった。自分に常識がないのかもしれないと、珍しく不安になったからだ。

 翠鈴は知らない。
 新杷国しんはこくの広い国土で、温泉地はたったの二か所しかない珍しいものであることを。

 光柳が少年時代を過ごした南の離宮。その近くが温泉地であったことを。雲嵐は、主の護衛でその温泉の供をしたことがあることを。

「楽しみだな。そうは思わないか、翠鈴」

 あの、別に行きたいとは一言も申しておりませんが。

 断りたいのに。
 翠鈴はすでに混乱していた。

 側に立つ雲嵐が「我儘な主で申し訳ございません」とでも言いたげに、うつむいている。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい

LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。 相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。 何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。 相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。 契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

継母の品格 〜 行き遅れ令嬢は、辺境伯と愛娘に溺愛される 〜

出口もぐら
恋愛
【短編】巷で流行りの婚約破棄。  令嬢リリーも例外ではなかった。家柄、剣と共に生きる彼女は「女性らしさ」に欠けるという理由から、婚約破棄を突き付けられる。  彼女の手は研鑽の証でもある、肉刺や擦り傷がある。それを隠すため、いつもレースの手袋をしている。別にそれを恥じたこともなければ、婚約破棄を悲しむほど脆弱ではない。 「行き遅れた令嬢」こればかりはどうしようもない、と諦めていた。  しかし、そこへ辺境伯から婚約の申し出が――。その辺境伯には娘がいた。 「分かりましたわ!これは契約結婚!この小さなお姫様を私にお守りするようにと仰せですのね」  少しばかり天然、快活令嬢の継母ライフ。 ■この作品は「小説家になろう」にも投稿しています。

妹に虐げられましたが、今は幸せに暮らしています

絹乃
恋愛
母亡きあと、後妻と妹に、子爵令嬢のエレオノーラは使用人として働かされていた。妹のダニエラに縁談がきたが、粗野で見た目が悪く、子どものいる隣国の侯爵が相手なのが嫌だった。面倒な結婚をエレオノーラに押しつける。街で迷子の女の子を助けたエレオノーラは、麗しく優しい紳士と出会う。彼こそが見苦しいと噂されていたダニエラの結婚相手だった。紳士と娘に慕われたエレオノーラだったが、ダニエラは相手がイケメンと知ると態度を豹変させて、奪いに来た。

初耳なのですが…、本当ですか?

あおくん
恋愛
侯爵令嬢の次女として、父親の仕事を手伝ったり、邸の管理をしたりと忙しくしているアニーに公爵家から婚約の申し込みが来た! でも実際に公爵家に訪れると、異世界から来たという少女が婚約者の隣に立っていて…。

【完結】勤労令嬢、街へ行く〜令嬢なのに下働きさせられていた私を養女にしてくれた侯爵様が溺愛してくれるので、国いちばんのレディを目指します〜

鈴木 桜
恋愛
貧乏男爵の妾の子である8歳のジリアンは、使用人ゼロの家で勤労の日々を送っていた。 誰よりも早く起きて畑を耕し、家族の食事を準備し、屋敷を隅々まで掃除し……。 幸いジリアンは【魔法】が使えたので、一人でも仕事をこなすことができていた。 ある夏の日、彼女の運命を大きく変える出来事が起こる。 一人の客人をもてなしたのだ。 その客人は戦争の英雄クリフォード・マクリーン侯爵の使いであり、ジリアンが【魔法の天才】であることに気づくのだった。 【魔法】が『武器』ではなく『生活』のために使われるようになる時代の転換期に、ジリアンは戦争の英雄の養女として迎えられることになる。 彼女は「働かせてください」と訴え続けた。そうしなければ、追い出されると思ったから。 そんな彼女に、周囲の大人たちは目一杯の愛情を注ぎ続けた。 そして、ジリアンは少しずつ子供らしさを取り戻していく。 やがてジリアンは17歳に成長し、新しく設立された王立魔法学院に入学することに。 ところが、マクリーン侯爵は渋い顔で、 「男子生徒と目を合わせるな。微笑みかけるな」と言うのだった。 学院には幼馴染の謎の少年アレンや、かつてジリアンをこき使っていた腹違いの姉もいて──。 ☆第2部完結しました☆

処理中です...