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二章 麟美の偽者

25、話さない優しさ

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 雨桐ユィ―トンが退室の挨拶をしたとき。翠鈴は彼女に声をかけた。
「もしや、胃腸が弱くていらっしゃいませんか?」と。

「どうして分かるのですか?」

 翠鈴に体調を指摘されて、雨桐が目を見開く。つぶらな瞳は、老いた小犬を思わせた。

振戦しんせんがみられます」

 振戦とは己の意思と関係なく、手や足が震えることだ。

 放っておいてもよかったのかもしれない。宇軒の処罰が、どのようなものになるのか、翠鈴には分からない。
 それでも。お節介かもしれないけれど。

「雨桐さまは、痰が絡みやすいのでしょうね。湿った咳をなさっています。それに手の震えが、文字や絵に現れていらっしゃいますね。これは胃腸が悪い証拠です」
「私のことが分かるの? すごいわね、あなた」

 きらめきを宿した瞳で、雨桐が翠鈴を見つめる。

 この人の美点は無邪気さだ。それを宇軒に利用されてきたけれど。嘘をつかれても年をとっても、曇ることのない純真さを持ち続けることは難しい。

「もしかしてお医者さまかしら」

 翠鈴は、いいえと首をふる。

「わたしはただの薬師のはしくれです」

 医師や医官は、後宮のすべての人間に目を配ることはできない。自ら医局に赴いてもらわなければ、知りようもない。

 そして、ほとんどの人は多少の不調は見過ごしてしまう。
「様子を見よう」などと言って、忘れてしまう。

 素人の「様子を見る」は「放置する」と同義なのに。
 生きづらさを抱えながら、何年も何十年も無駄にしてしまうのだ。

(知識がないなら、誰かに問えばいい。誰かを頼ればいい。さいわいここには医局がある。妃嬪だけではなく、働く者たちも健康でなければ、後宮は機能しなくなる)

 無知は怖い。それよりも恐ろしいのは関心のなさだ。
 自分の症状に対しても、他人の異変に対しても。

「確かな診断は、医局を訪れてください。手の震えは、甲状腺の病も考えられますから」
「こうじょうせん、って何かしら」

 まぁ、知らないよね。五臓六腑に含まれないんだから。
 雨桐の問いかけに、翠鈴はうなずいた。

「喉にある器官です。体がだるい、歩いていてつまずく、息が上がる。そうした症状がありますね」

 翠鈴は雨桐の首もとをじっと見つめた。
 ただでさえ鋭い目つきだ。雨桐が息を呑む音が聞こえる。

 これは翠鈴の専門だ。光柳も雲嵐も言葉も発せず、物音すら立てない。

「甲状腺の腫れはなさそうです。おそらくは胃腸の虚弱と思われます。医官に胡玲という者がおります。彼女に『未央宮の陸翠鈴に勧められた』と仰ってください。薬を処方してもらえます。手の震えも、喉も胃腸も今後は楽になるでしょう」

 きっと長年、振戦に悩まされてきたのだろう。
 雨桐は何度も「ありがとう」をくり返して、去っていった。

「真実を話さないのも、優しさか」

 雨桐が退室したあと。光柳は椅子に座って、ため息をついた。

 すでに日は陰りはじめている。
 窗から射しこむ光は、床を橙色に照らしている。
 そろそろ司燈の仕事の時間だ。

「夢の中に居続けるのを選んだ人に『それは夢だ。目を覚ませ』と、厳しい現実をつきつけることはできません」
「そうだな。阿雨は、私が子供の頃から夢見がちな人だった」

 後宮を去った麟美が、いつか戻ってくるのではないか。ほら、息子の光柳は戻って来たではないか。
 投獄された宇軒も、いつか戻ってくるのではないか。
 待ってさえいれば、希望を捨てなければ。

 そして雨桐は詩を詠む。
 まっすぐで、感情をそのままに言葉にして。

 今後売られることのない雨桐の詩は、溜まっていく一方だ。

 それでも雨桐は待ち続ける。
 いつか、自身が重ねた紙の雪崩に呑みこまれるまで。
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