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二章 麟美の偽者
24、待っています
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光柳は宋雨桐を見て「阿雨」と呟いた。
「雨ちゃん」というほどの、親しい間柄の呼び名だ。しかも年長者から、年下の者への。
面識もなく、二十歳以上も年下の光柳が使う呼称ではない。
「はい……。阿雨でございますよ。光柳さま」
応じる雨桐の声は、かすれていた。
つぶらな瞳が、みるみる濡れていく。白髪交じりの髪が、窗からの陽ざしを受けてきらきらと輝いた。
「おひさしゅうございます」
雨桐は、小さく咳きこんだ。
最初に会った時から、日が経っているのに。風邪にしては長すぎではないか? 翠鈴は目を細める。
「失礼ですが。麟美さまが『阿雨』とお呼びになっていらしたんですね」
「はい。麟美さまは、私の先輩でいらしたので。かわいがっていただきました。幼い光柳さまも、私の描く絵を喜んでくださいました。紙ではなく、地面に枝で描いたものですが」
翠鈴の問いに、雨桐は答えた。
子供だった光柳は、目をキラキラと輝かせて土の上に記される犬の絵を見つめていたのだろう。
椅子に座り、お茶を勧められた雨桐は「もったいないことです」と頭を下げる。
碗に添えた指が震えている。
(なるほど。確かにこの指では、文字も絵も上手には書けないだろうな)
光柳が、雨桐に事情を説明する。
宇軒が、刑部の管理下にあることも。
「どうしても信じられません。なにかの間違いとしか思えません」
膝の上でそろえた小さな手を、雨桐は震わせている。
「宇軒は、あの子は優しい子でした。私が自分の詩を雑に扱うものですから。大事にしなさい、できないのなら自分が預かると言って管理してくれたんです」
「管理ですか」
差し出がましいかとも思ったが。翠鈴は問いかけた。
「はい。紙魚に食われぬように虫干しもしてくれていたようです。ほんとうに優しい子で。私のことを詩の才があると、事あるごとに褒めてくれるんです。おだてられると嬉しいものですね。私は以前にもまして、どんどん詩を詠むようになりました」
雨桐の表情が曇る。
彼女にとっての宇軒は親切な青年だ。だからこそ、彼が陛下に対して不敬を働いたことも、投獄されたことも納得できないのだろう。
「先日、甘露宮の侍女が私の古い詩を買ったようでしたが。あんなものは捨て売りの値段ですから。宇軒が渡してくれた売り上げも、銅貨一枚でしたよ」
光柳と翠鈴は顔を見あわせた。
それはちがう。あなたの詩は法外な高値をつけられていた。宇軒は、売り上げの九割九分以上を着服していた。
その言葉を、ふたりして飲み込む。
(たしかに宇軒にとって、雨桐は麟美だ。いくらでも詩を生み出してくれる。麟美という銘さえあれば、偽物であっても人は金子を惜しまない)
だからこそ、宇軒は雨桐を讃えた。お世辞を言い続ける間に、自分でも雨桐こそが最高の詩人であると錯覚したのだろう。
質がいいか悪いかではない。宇軒の考えでは、お金になる詩がよい詩なのだ。
――雨桐さま。あなたは騙されています。
そう言えれば、どんなにか楽だろう。
けれど雨桐にとって、宇軒はたったひとりの理解者だ。
――あの男は詐欺を働いています。あなたを金づるとしてしか見ていません。
その事実を伝えれば、雨桐はさらに傷ついてしまう。
正しさは、時に毒となる。嘘の方が薬になる場合もあるのだ。
「誰が私の詩に、毒を塗ったのやら。光柳さま。宇軒はいつ釈放されますか?」
雨桐は問うた。
「観月の宴に乱入した件は、軽々しく許せるものではない。大理寺の調査を受けて、刑部はそう判断したのだろう」
ぬるくなってしまった透天香のお茶を、光柳は飲み干した。
雨桐を見る目が、つらそうに歪んでいる。
いま彼が飲みたいのは、お茶ではなく酒だろう。
宇軒が光柳に用いた毒は、命までは奪わない。
けれど。光柳はまぎれもなく帝の血縁だ。それは帝に、この王朝に仇なすことに他ならない。
いずれ宇軒に処罰が下る。
光柳の血筋は公表はされていない。ならば、処刑まではされない可能性がある。重くて流刑か、軽ければ鞭打ち。
ただ鞭といっても用いられるの竹や棒だ。重犯罪ともなれば、鞭打つ回数に制限はなく、命を落とす者もいる。
もう宇軒は戻ってはこないだろう。
翠鈴も光柳も、宇軒の未来が想像できる。
だから口にではできない。
室内の空気が重く澱んだ気がした。
「大丈夫ですよ」
妙に軽やかな声が聞こえた。
「私は宇軒が釈放される日を待っていますよ。待つのは得意なんです」
雨桐は微笑んだ。湿った咳をしながら。
「雨ちゃん」というほどの、親しい間柄の呼び名だ。しかも年長者から、年下の者への。
面識もなく、二十歳以上も年下の光柳が使う呼称ではない。
「はい……。阿雨でございますよ。光柳さま」
応じる雨桐の声は、かすれていた。
つぶらな瞳が、みるみる濡れていく。白髪交じりの髪が、窗からの陽ざしを受けてきらきらと輝いた。
「おひさしゅうございます」
雨桐は、小さく咳きこんだ。
最初に会った時から、日が経っているのに。風邪にしては長すぎではないか? 翠鈴は目を細める。
「失礼ですが。麟美さまが『阿雨』とお呼びになっていらしたんですね」
「はい。麟美さまは、私の先輩でいらしたので。かわいがっていただきました。幼い光柳さまも、私の描く絵を喜んでくださいました。紙ではなく、地面に枝で描いたものですが」
翠鈴の問いに、雨桐は答えた。
子供だった光柳は、目をキラキラと輝かせて土の上に記される犬の絵を見つめていたのだろう。
椅子に座り、お茶を勧められた雨桐は「もったいないことです」と頭を下げる。
碗に添えた指が震えている。
(なるほど。確かにこの指では、文字も絵も上手には書けないだろうな)
光柳が、雨桐に事情を説明する。
宇軒が、刑部の管理下にあることも。
「どうしても信じられません。なにかの間違いとしか思えません」
膝の上でそろえた小さな手を、雨桐は震わせている。
「宇軒は、あの子は優しい子でした。私が自分の詩を雑に扱うものですから。大事にしなさい、できないのなら自分が預かると言って管理してくれたんです」
「管理ですか」
差し出がましいかとも思ったが。翠鈴は問いかけた。
「はい。紙魚に食われぬように虫干しもしてくれていたようです。ほんとうに優しい子で。私のことを詩の才があると、事あるごとに褒めてくれるんです。おだてられると嬉しいものですね。私は以前にもまして、どんどん詩を詠むようになりました」
雨桐の表情が曇る。
彼女にとっての宇軒は親切な青年だ。だからこそ、彼が陛下に対して不敬を働いたことも、投獄されたことも納得できないのだろう。
「先日、甘露宮の侍女が私の古い詩を買ったようでしたが。あんなものは捨て売りの値段ですから。宇軒が渡してくれた売り上げも、銅貨一枚でしたよ」
光柳と翠鈴は顔を見あわせた。
それはちがう。あなたの詩は法外な高値をつけられていた。宇軒は、売り上げの九割九分以上を着服していた。
その言葉を、ふたりして飲み込む。
(たしかに宇軒にとって、雨桐は麟美だ。いくらでも詩を生み出してくれる。麟美という銘さえあれば、偽物であっても人は金子を惜しまない)
だからこそ、宇軒は雨桐を讃えた。お世辞を言い続ける間に、自分でも雨桐こそが最高の詩人であると錯覚したのだろう。
質がいいか悪いかではない。宇軒の考えでは、お金になる詩がよい詩なのだ。
――雨桐さま。あなたは騙されています。
そう言えれば、どんなにか楽だろう。
けれど雨桐にとって、宇軒はたったひとりの理解者だ。
――あの男は詐欺を働いています。あなたを金づるとしてしか見ていません。
その事実を伝えれば、雨桐はさらに傷ついてしまう。
正しさは、時に毒となる。嘘の方が薬になる場合もあるのだ。
「誰が私の詩に、毒を塗ったのやら。光柳さま。宇軒はいつ釈放されますか?」
雨桐は問うた。
「観月の宴に乱入した件は、軽々しく許せるものではない。大理寺の調査を受けて、刑部はそう判断したのだろう」
ぬるくなってしまった透天香のお茶を、光柳は飲み干した。
雨桐を見る目が、つらそうに歪んでいる。
いま彼が飲みたいのは、お茶ではなく酒だろう。
宇軒が光柳に用いた毒は、命までは奪わない。
けれど。光柳はまぎれもなく帝の血縁だ。それは帝に、この王朝に仇なすことに他ならない。
いずれ宇軒に処罰が下る。
光柳の血筋は公表はされていない。ならば、処刑まではされない可能性がある。重くて流刑か、軽ければ鞭打ち。
ただ鞭といっても用いられるの竹や棒だ。重犯罪ともなれば、鞭打つ回数に制限はなく、命を落とす者もいる。
もう宇軒は戻ってはこないだろう。
翠鈴も光柳も、宇軒の未来が想像できる。
だから口にではできない。
室内の空気が重く澱んだ気がした。
「大丈夫ですよ」
妙に軽やかな声が聞こえた。
「私は宇軒が釈放される日を待っていますよ。待つのは得意なんです」
雨桐は微笑んだ。湿った咳をしながら。
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