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一章 姉の仇
17、無理だよ。もう逃がさない
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「なんだよ、忙しいってのに呼び出しやがって」
石真は、不機嫌そうに口をゆがめた。
左頬に古いひっかき傷がある。その部分は、周囲の皮膚が赤黒く濁っていた。
「書令史ごときが、わざわざ遣いを出すんじゃねぇよ。お前が、俺のところまでやって来い」
ああ、こいつは気づかないんだ。
翠鈴は、怒りよりも哀れさを感じた。
目の前に座っている書令史が、身分を偽っていることに。どう見たって位の低い人間には見えないのに。隠そうとしても、品格は溢れ出てしまうものなのに。
ずかずかと足音を立てて、石真が入ってくる。
ちらっと翠鈴を一瞥したが、表情を変えることもない。むしろ「なんでこいつは座ってるんだ」とでも言いたげだ。
ほのかに尖った樟脳のにおいがした。
「陸翠鈴。こいつで間違いないな」
光柳に促されて、翠鈴はうなずいた。
「陸」の苗字は珍しい。なのに石真は、それがかつての婚約者と同じ苗字であることにも気づかない。
「おい、何の用か先に話せ。長くなるなら、椅子をよこせ」
「罪人を座らせる椅子はない」
鋭い口調で、光柳は言い放った。
「草刈りの日から、服を洗濯していないのね」
翠鈴は冷ややかな声で指摘した。
「はっ? 臭いとでもいいたいのか?」
石真は怪訝に眉をひそめる。
ほら。草刈りの担当であったことを否定しない。あの日、あの時。石真が未央宮の庭にいた事実が何を意味するのか。こいつは気づいてもいないから。
翠鈴の目は、ひたと石真を見据えている。凍えた金属的な視線だ。
本当に目つきで人を射殺せるのなら。今、この場で石真を殺している。
「服かしら。それとも沓? 蝮草の実を摘んだ時の、樟脳の匂いがまだ残っているわ。公主に毒を盛ることに、これっぽちも罪悪感はなかったのね」
翠鈴の言葉から、何の用で呼ばれたのか石真は気づいたのだろう。
石真は、すぐに踵を返して逃げようとした。
「無理だよ。もう逃がさない」
翠鈴は椅子から立ち上がる。カタッと硬い音がした。
顔を見たくもなかったのに。衝立の後ろに隠れようと思っていたのに。
実際に仇を前にして、逃げ隠れるという選択肢は翠鈴の頭から消えた。
「陸明玉。もう名前すらも覚えていない? あんたが殺した婚約者だよ。毒の知識を彼女から仕入れただろう?」
「お前……」
扉の前で、石真はふり向いた。
「いや、人違いだろう。俺は確かに石真だが。同姓同名の奴と間違っているんじゃないか」
石真の目は、明らかに泳いでいた。真正面に立つ翠鈴の顔を、まともに見ようともしない。
「間違ってないよ。石真、いや豪友」
低い声で言うと、翠鈴は立ち上がった。
「過去の使い捨ての偽名なんて、もう忘れた?」
「なんで、その名を」
石真の声がかすれる。震えて、か細くて。
姉さん、見てる?
こいつは、姉さんがこうあって欲しいと願った優しい男を、逞しい男を演じていただけなのよ。
石真は、不機嫌そうに口をゆがめた。
左頬に古いひっかき傷がある。その部分は、周囲の皮膚が赤黒く濁っていた。
「書令史ごときが、わざわざ遣いを出すんじゃねぇよ。お前が、俺のところまでやって来い」
ああ、こいつは気づかないんだ。
翠鈴は、怒りよりも哀れさを感じた。
目の前に座っている書令史が、身分を偽っていることに。どう見たって位の低い人間には見えないのに。隠そうとしても、品格は溢れ出てしまうものなのに。
ずかずかと足音を立てて、石真が入ってくる。
ちらっと翠鈴を一瞥したが、表情を変えることもない。むしろ「なんでこいつは座ってるんだ」とでも言いたげだ。
ほのかに尖った樟脳のにおいがした。
「陸翠鈴。こいつで間違いないな」
光柳に促されて、翠鈴はうなずいた。
「陸」の苗字は珍しい。なのに石真は、それがかつての婚約者と同じ苗字であることにも気づかない。
「おい、何の用か先に話せ。長くなるなら、椅子をよこせ」
「罪人を座らせる椅子はない」
鋭い口調で、光柳は言い放った。
「草刈りの日から、服を洗濯していないのね」
翠鈴は冷ややかな声で指摘した。
「はっ? 臭いとでもいいたいのか?」
石真は怪訝に眉をひそめる。
ほら。草刈りの担当であったことを否定しない。あの日、あの時。石真が未央宮の庭にいた事実が何を意味するのか。こいつは気づいてもいないから。
翠鈴の目は、ひたと石真を見据えている。凍えた金属的な視線だ。
本当に目つきで人を射殺せるのなら。今、この場で石真を殺している。
「服かしら。それとも沓? 蝮草の実を摘んだ時の、樟脳の匂いがまだ残っているわ。公主に毒を盛ることに、これっぽちも罪悪感はなかったのね」
翠鈴の言葉から、何の用で呼ばれたのか石真は気づいたのだろう。
石真は、すぐに踵を返して逃げようとした。
「無理だよ。もう逃がさない」
翠鈴は椅子から立ち上がる。カタッと硬い音がした。
顔を見たくもなかったのに。衝立の後ろに隠れようと思っていたのに。
実際に仇を前にして、逃げ隠れるという選択肢は翠鈴の頭から消えた。
「陸明玉。もう名前すらも覚えていない? あんたが殺した婚約者だよ。毒の知識を彼女から仕入れただろう?」
「お前……」
扉の前で、石真はふり向いた。
「いや、人違いだろう。俺は確かに石真だが。同姓同名の奴と間違っているんじゃないか」
石真の目は、明らかに泳いでいた。真正面に立つ翠鈴の顔を、まともに見ようともしない。
「間違ってないよ。石真、いや豪友」
低い声で言うと、翠鈴は立ち上がった。
「過去の使い捨ての偽名なんて、もう忘れた?」
「なんで、その名を」
石真の声がかすれる。震えて、か細くて。
姉さん、見てる?
こいつは、姉さんがこうあって欲しいと願った優しい男を、逞しい男を演じていただけなのよ。
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