上 下
3 / 176
一章 姉の仇

3、桃莉公主【1】

しおりを挟む
 翠鈴の仕事である司燈は、夕暮れに宮の室内や回廊の灯りをともし、朝に消す。昼には照明の油を補給する。
 使うのは菜種油であったり、桐油とうゆという、油桐あぶらきりの種を搾ったものだ。

 とはいえ、仕事はそれだけではない。空いた時間には、食後の皿を下げるのを手伝うことがある。

 女官ではないので、主の蘭淑妃と直接話をすることもない。
 四夫人のひとりである蘭淑妃は、正一品しょういっぽんという高位である。まさに神々しい蘭の花のような美しさだ。
 淑妃には公主である娘がひとりいる。

「ツイリン。タオリィもはこびたい」

 昼餉の後の皿を運ぶ翠鈴に、公主の桃莉タオリィがとびついてくる。桃莉公主は五歳になったばかりだ。
 ぴょんぴょんと跳ねるたびに、二つに結んだ公主の柔らかな髪が上下に揺れる。

 本来、公主は年頃の娘になってから冊せられるものだが。初めての子の誕生を祝って、桃莉は幼いながらも公主の地位を授けられた。

「公主さま。お皿が割れてしまいます」

 なんとか腕にしがみつこうとしてくる桃莉を、翠鈴は軽やかにかわす。両手に皿と器を積み上げているのに、ずれることも音を立てることもない。

「タオリィもしたいぃ」
「いけません。これは宮女の仕事です」

 翠鈴にたしなめられて、桃莉はぷうっと頬をふくらませた。

「でも、お手伝いをしてくださる気持ちはとても嬉しいですよ」

 翠鈴は右手に持った器を、左手の皿の上に移す。まるで塔のような高さの食器をものともせず、翠鈴は懐から小さな包みを取りだした。

「うわぁ。いいにおい。タオリィ、このにおい、しってるよ」
「銀木犀ですよ。桂花けいかともいいますね。この未央宮びおうきゅうでも植えられていますから、ご存じでしょう?」
「ごぞんじです。なまえはしらなかったけど」

 桃莉は、肺がいっぱいになる勢いで息を吸いこんだ。

「一介の宮女から公主さまに、物を差しあげることはできませんが。香りはこの場で楽しめますので。存分にどうぞ」

 翠鈴に勧められて、桃莉はてのひらに載せた袋を鼻に近づけている。

「このしろいおはな、おにわにこぼれてるから。タオリィも、あつめたいなぁ」

「そうですね。庭には毒のある草もありますから。何でも拾わない方が安全ですよ。知識のある者と一緒の方がいいですね」
「でも……だれかにおねがいするの、こわいもん。それに、おにわはへびもいるし」

 もじもじと桃莉は体を左右に振った。

 公主のお願いを、誰も無下にはしないだろうが。本来の仕事とは違う用事に、時間を割きたい者もいないだろう。
 しかし蛇が入りこんでいるのは問題だ。四夫人や九嬪の住まう宮の外には、林がある。そこから紛れ込んだのかもしれない。

まむしだったら、捕まえて酒に浸けるといいんだけど。蝮酒は滋養強壮にもなるし、胃の病や貧血にも効くから)

 とはいえ、まさか宮女が毒蛇を踏んづけて、甕に入れて白酒パイチュウを注ぐわけにもいかない。村では当たり前にしていたけれど。後宮では大騒ぎになってしまう。

――いやだ。あの司燈。蛇と闘っているわ。
――きゃああ。甕に放りこんだわ。噛みつこうとする蛇に、酒を浴びせているわ。なんて恐ろしいの。

 なんて噂が広まりでもしたら、大変だ。
 目立たず、控えめに生きていかなければならないのに。

(蝮酒は高く売れるんだけど。とはいえ、蛇の入った甕を並べるわけにもいかないし。自重しないとね)

 翠鈴は小さく息をついた。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい

LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。 相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。 何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。 相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。 契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~

流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。 しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。 けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

継母の品格 〜 行き遅れ令嬢は、辺境伯と愛娘に溺愛される 〜

出口もぐら
恋愛
【短編】巷で流行りの婚約破棄。  令嬢リリーも例外ではなかった。家柄、剣と共に生きる彼女は「女性らしさ」に欠けるという理由から、婚約破棄を突き付けられる。  彼女の手は研鑽の証でもある、肉刺や擦り傷がある。それを隠すため、いつもレースの手袋をしている。別にそれを恥じたこともなければ、婚約破棄を悲しむほど脆弱ではない。 「行き遅れた令嬢」こればかりはどうしようもない、と諦めていた。  しかし、そこへ辺境伯から婚約の申し出が――。その辺境伯には娘がいた。 「分かりましたわ!これは契約結婚!この小さなお姫様を私にお守りするようにと仰せですのね」  少しばかり天然、快活令嬢の継母ライフ。 ■この作品は「小説家になろう」にも投稿しています。

【完結】勤労令嬢、街へ行く〜令嬢なのに下働きさせられていた私を養女にしてくれた侯爵様が溺愛してくれるので、国いちばんのレディを目指します〜

鈴木 桜
恋愛
貧乏男爵の妾の子である8歳のジリアンは、使用人ゼロの家で勤労の日々を送っていた。 誰よりも早く起きて畑を耕し、家族の食事を準備し、屋敷を隅々まで掃除し……。 幸いジリアンは【魔法】が使えたので、一人でも仕事をこなすことができていた。 ある夏の日、彼女の運命を大きく変える出来事が起こる。 一人の客人をもてなしたのだ。 その客人は戦争の英雄クリフォード・マクリーン侯爵の使いであり、ジリアンが【魔法の天才】であることに気づくのだった。 【魔法】が『武器』ではなく『生活』のために使われるようになる時代の転換期に、ジリアンは戦争の英雄の養女として迎えられることになる。 彼女は「働かせてください」と訴え続けた。そうしなければ、追い出されると思ったから。 そんな彼女に、周囲の大人たちは目一杯の愛情を注ぎ続けた。 そして、ジリアンは少しずつ子供らしさを取り戻していく。 やがてジリアンは17歳に成長し、新しく設立された王立魔法学院に入学することに。 ところが、マクリーン侯爵は渋い顔で、 「男子生徒と目を合わせるな。微笑みかけるな」と言うのだった。 学院には幼馴染の謎の少年アレンや、かつてジリアンをこき使っていた腹違いの姉もいて──。 ☆第2部完結しました☆

初耳なのですが…、本当ですか?

あおくん
恋愛
侯爵令嬢の次女として、父親の仕事を手伝ったり、邸の管理をしたりと忙しくしているアニーに公爵家から婚約の申し込みが来た! でも実際に公爵家に訪れると、異世界から来たという少女が婚約者の隣に立っていて…。

処理中です...