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二章
3、これは恋
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困った。
私は簡素な椅子を倒したままで、身動きが取れなかった。
隣国のヴァーリン王国に住まう私、クリスティアンはまさに混乱していた。
子爵家の長女でありながら、その屋敷を追い出されたマルガレータ。彼女に落ち度などなにもないのに、妹が姉を追放したのだ。
というか、彼女から手を離さないといけないのに。もし離せば、また彼女はどこかへ行ってしまうのではないかと不安だったのだ。
私はこの国には居を構えていない。わずかな供をつれて、国境を越えてきた。供はマルガレータに知られぬように、この家の外で待たせている。
「あの……痛いです」
「済まない」
そう言いながらも、私の手は本人の意思とは反対に力を緩めてくれない。
なんなんだ、これは。
人生で初めての気持ちだ。
一年前にヴェステルグレーン家を訪れて、マーマレードと薔薇のジャムの購入の話をする手はずだった。
こちらの王室も子爵家のジャムを使用しているのだから、うちが買ったとて問題はなかろう。むしろ継続的に輸入することで、困窮していると噂の子爵家の財性も立て直すことができるのではないか。
そう考えてのことだったのに。
あろうことか愚かな妹に邪魔をされたのだ。
マルガレータに似ても似つかない、品のない派手な娘だった。
妹自身もマルガレータも気づいていないだろうが。あれは姉に対する嫉妬だ。
彼女はマルガレータのことを「地味」だと罵っていたが。私はそうは思わない。地味ではなく清楚なのだ。
その違いが、妹には分からないのだろう。
まさか本を踏みつける下品な人間がいるとは、生まれてこの方二十七年。知ることもなかった。
そもそもあの妹は、ヒースとかいう姉の婚約者に恋心など抱いていないはずだ。姉の物を奪い、姉を見下し、それでしか己の価値を認められないのだろう。
今回はジャムの件もあるが……私の要件は、本題はそれではない。
というか。顔を忘れられているのは少し、いやかなり寂しいかもしれない。
まぁ、仕方がないか。マルガレータと出会った時は混乱していたし、その後も慣れぬ一人暮らしだ。つらい時や苦しい時は、記憶が飛んでしまうものだからな。
笑顔ではあるが、かなり厳しい生活だっただろう。
私は、荒れてかさついたマルガレータの手に視線を落とした。
「座ってもらってもいいだろうか。マルガレータ」
「は、はい」
なぜ名前をご存じなのかしら? とでも言いたげなきょとんとした表情で、マルガレータは椅子に腰を下ろした。
私が座ると軋んだ椅子も、楚々とした動きのマルガレータが座っても音は立たない。
「私の名は、クリスティアン。姓は……まぁ、気にしないでいい。隣国の出身なので……」
歯切れの悪い私の説明に、マルガレータは首を傾げた。怪訝に思われただろうが、仕方あるまい。
美しい碧の瞳が、私をじーっと見据えてくる。
そして次の瞬間、マルガレータの顔が輝いたのだ。椅子を引いて立ち上がり、対面に座る私の方へと歩いてくる。
もしかして思い出してくれたのか? 私と一年前に出会っていたことを。
胸が高鳴った。ドキドキ、と。
そうか、これは恋なんだな。
子爵家のマーマレードやジャムは、確かに海を越えてもその評判が聞こえてくるし、この国を訪れた我が国の者は、たびたび土産に買って帰るくらいだ。
私も何度か口にしたことがあるが、とても美味しかった。
だが、子爵家を追い出されて行方知れずになったマルガレータを探してまで、求める意味が自分でも分からなかった。
だが、今分かった。
私は、貴女に恋をしたんだ。一年前のあの日に。
私は簡素な椅子を倒したままで、身動きが取れなかった。
隣国のヴァーリン王国に住まう私、クリスティアンはまさに混乱していた。
子爵家の長女でありながら、その屋敷を追い出されたマルガレータ。彼女に落ち度などなにもないのに、妹が姉を追放したのだ。
というか、彼女から手を離さないといけないのに。もし離せば、また彼女はどこかへ行ってしまうのではないかと不安だったのだ。
私はこの国には居を構えていない。わずかな供をつれて、国境を越えてきた。供はマルガレータに知られぬように、この家の外で待たせている。
「あの……痛いです」
「済まない」
そう言いながらも、私の手は本人の意思とは反対に力を緩めてくれない。
なんなんだ、これは。
人生で初めての気持ちだ。
一年前にヴェステルグレーン家を訪れて、マーマレードと薔薇のジャムの購入の話をする手はずだった。
こちらの王室も子爵家のジャムを使用しているのだから、うちが買ったとて問題はなかろう。むしろ継続的に輸入することで、困窮していると噂の子爵家の財性も立て直すことができるのではないか。
そう考えてのことだったのに。
あろうことか愚かな妹に邪魔をされたのだ。
マルガレータに似ても似つかない、品のない派手な娘だった。
妹自身もマルガレータも気づいていないだろうが。あれは姉に対する嫉妬だ。
彼女はマルガレータのことを「地味」だと罵っていたが。私はそうは思わない。地味ではなく清楚なのだ。
その違いが、妹には分からないのだろう。
まさか本を踏みつける下品な人間がいるとは、生まれてこの方二十七年。知ることもなかった。
そもそもあの妹は、ヒースとかいう姉の婚約者に恋心など抱いていないはずだ。姉の物を奪い、姉を見下し、それでしか己の価値を認められないのだろう。
今回はジャムの件もあるが……私の要件は、本題はそれではない。
というか。顔を忘れられているのは少し、いやかなり寂しいかもしれない。
まぁ、仕方がないか。マルガレータと出会った時は混乱していたし、その後も慣れぬ一人暮らしだ。つらい時や苦しい時は、記憶が飛んでしまうものだからな。
笑顔ではあるが、かなり厳しい生活だっただろう。
私は、荒れてかさついたマルガレータの手に視線を落とした。
「座ってもらってもいいだろうか。マルガレータ」
「は、はい」
なぜ名前をご存じなのかしら? とでも言いたげなきょとんとした表情で、マルガレータは椅子に腰を下ろした。
私が座ると軋んだ椅子も、楚々とした動きのマルガレータが座っても音は立たない。
「私の名は、クリスティアン。姓は……まぁ、気にしないでいい。隣国の出身なので……」
歯切れの悪い私の説明に、マルガレータは首を傾げた。怪訝に思われただろうが、仕方あるまい。
美しい碧の瞳が、私をじーっと見据えてくる。
そして次の瞬間、マルガレータの顔が輝いたのだ。椅子を引いて立ち上がり、対面に座る私の方へと歩いてくる。
もしかして思い出してくれたのか? 私と一年前に出会っていたことを。
胸が高鳴った。ドキドキ、と。
そうか、これは恋なんだな。
子爵家のマーマレードやジャムは、確かに海を越えてもその評判が聞こえてくるし、この国を訪れた我が国の者は、たびたび土産に買って帰るくらいだ。
私も何度か口にしたことがあるが、とても美味しかった。
だが、子爵家を追い出されて行方知れずになったマルガレータを探してまで、求める意味が自分でも分からなかった。
だが、今分かった。
私は、貴女に恋をしたんだ。一年前のあの日に。
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————貴方たちに私の声は聞こえていますか?
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