8 / 32
二章
2、一年が経ちました
しおりを挟む
雪に閉ざされた静寂の冬が過ぎ、花が咲き乱れる春も越えて、森は初夏を迎えました。
鳥は澄んだ声でさえずり、リスが我が家の窓を覗きに来ます。
不思議ですね。
森の中で一人きりでいる今よりも、父や妹に蔑まれたり無視されていた頃の方が、孤独を感じていただなんて。
孤独は、人の中にいる時に強く感じるものなのですね。
水を運ぶのも大変で、屋敷にいた頃のようなバスタブもなく、盥に沸かしたお湯を張って入浴するしかありません。それでも不便な生活にも慣れてきました。
森の小川にかかる橋の木が軋む音がして、わたしは顔を上げました。
古い橋なので、そろりと歩かないと危ないのです。足音は二人? 三人かしら。
「こんにちは」
ノックされて、わたしは扉を開きました。
ドアノブに掛けられたサシェから香る、涼やかなラベンダーの香り。
森の緑の濃い匂い。昨日は雨が降っていたので、湿った土の匂いもします。
まだ濡れている木々の葉は初夏の陽射しに煌めいて、まるで緑柱石のようにきらきらと森を彩っています。
そのお客人は男性でした。澄んだ碧の光に背後から照らされて、その方のお顔はよく見えません。
見上げるほどに身長が高いのに、威圧感は覚えません。
でも不思議です。足音は一つではなかったのに。
「ヴェステルグレーン子爵家のジャムを、こちらで購入できると伺ったのですが」
「はい。いらっしゃいませ。何をお求めですか」
ヴェステルグレーンの長女が森で隠遁生活をしているという噂は、あっという間に広まったようです。
貴族の世界は狭いですし、噂好きなのですから、当然ですね。
最近は、ジャムを求めて狭い我が家を訪れる方が徐々に増えています。予約をお受けするようになってから、定量を作ればよいので無理をすることもありません。
「ブラックベリーにカラント、コケモモに桑の実と赤、緑、黒のグーズベリーがございますが。どれになさいます?」
お客さまに中に入っていただき、椅子を勧めます。
これもまた座るとぎしりと軋むのです。
「種類が増えたんだな。以前は、薔薇かマーマレードだったのに」
「森で採れる果実を用いているんです。残念ながらオレンジは入手できませんので、マーマレードはもう」
困りながらも、わたしは微笑みました。薔薇は実家のお屋敷のお庭に咲いているものですし、家を追い出されたわたしが摘みに行くわけにも参りません。
以前は、放逐された長女を憐れに思った使用人が届けてくれたのですが。
今では、どうやら使用人の数も減ったようで、薔薇もなかなか手に入りません。
みんな、次の勤め先は決まったのかしら。お父さまはちゃんと紹介状を書いてさしあげたのかしら。
これまで使用人任せだった生活……お父さまもビルギットもちゃんと自分達でできるのかしら。
いいえ、わたしが考えることではないわ。
小さく首を振った時、椅子に腰かけたお客さまと目が合いました。
凪いだ湖のような、その湖面を思わせる澄んだ蒼い瞳。
どこかでお目にかかったことがあるような……。彼の美しい湖に、きょとんとしたわたしの姿が映っています。
今では着ている服も、とうていドレスなんて呼べる代物ではありません。ひとつに結んだだけの蜂蜜色の髪。以前よりも地味さが増しているのではないかしら。
「ジャムの瓶をお持ちしますね」
「あ……っ」
納戸に向かおうとしたわたしの手首を、その方は突然掴みました。
彼が立ち上がった所為で、椅子がガタンと床に倒れます。
「あの?」
「失礼。手が勝手に動いてしまった……いや、言い訳にもならないが」
その男性は視線を落として床を見つめていらっしゃいます。かつての子爵家のような、とろけるような風合いの白い石の床ではありません。
ささくれた木の床は、どんなに拭いても輝きはしないのです。
鳥は澄んだ声でさえずり、リスが我が家の窓を覗きに来ます。
不思議ですね。
森の中で一人きりでいる今よりも、父や妹に蔑まれたり無視されていた頃の方が、孤独を感じていただなんて。
孤独は、人の中にいる時に強く感じるものなのですね。
水を運ぶのも大変で、屋敷にいた頃のようなバスタブもなく、盥に沸かしたお湯を張って入浴するしかありません。それでも不便な生活にも慣れてきました。
森の小川にかかる橋の木が軋む音がして、わたしは顔を上げました。
古い橋なので、そろりと歩かないと危ないのです。足音は二人? 三人かしら。
「こんにちは」
ノックされて、わたしは扉を開きました。
ドアノブに掛けられたサシェから香る、涼やかなラベンダーの香り。
森の緑の濃い匂い。昨日は雨が降っていたので、湿った土の匂いもします。
まだ濡れている木々の葉は初夏の陽射しに煌めいて、まるで緑柱石のようにきらきらと森を彩っています。
そのお客人は男性でした。澄んだ碧の光に背後から照らされて、その方のお顔はよく見えません。
見上げるほどに身長が高いのに、威圧感は覚えません。
でも不思議です。足音は一つではなかったのに。
「ヴェステルグレーン子爵家のジャムを、こちらで購入できると伺ったのですが」
「はい。いらっしゃいませ。何をお求めですか」
ヴェステルグレーンの長女が森で隠遁生活をしているという噂は、あっという間に広まったようです。
貴族の世界は狭いですし、噂好きなのですから、当然ですね。
最近は、ジャムを求めて狭い我が家を訪れる方が徐々に増えています。予約をお受けするようになってから、定量を作ればよいので無理をすることもありません。
「ブラックベリーにカラント、コケモモに桑の実と赤、緑、黒のグーズベリーがございますが。どれになさいます?」
お客さまに中に入っていただき、椅子を勧めます。
これもまた座るとぎしりと軋むのです。
「種類が増えたんだな。以前は、薔薇かマーマレードだったのに」
「森で採れる果実を用いているんです。残念ながらオレンジは入手できませんので、マーマレードはもう」
困りながらも、わたしは微笑みました。薔薇は実家のお屋敷のお庭に咲いているものですし、家を追い出されたわたしが摘みに行くわけにも参りません。
以前は、放逐された長女を憐れに思った使用人が届けてくれたのですが。
今では、どうやら使用人の数も減ったようで、薔薇もなかなか手に入りません。
みんな、次の勤め先は決まったのかしら。お父さまはちゃんと紹介状を書いてさしあげたのかしら。
これまで使用人任せだった生活……お父さまもビルギットもちゃんと自分達でできるのかしら。
いいえ、わたしが考えることではないわ。
小さく首を振った時、椅子に腰かけたお客さまと目が合いました。
凪いだ湖のような、その湖面を思わせる澄んだ蒼い瞳。
どこかでお目にかかったことがあるような……。彼の美しい湖に、きょとんとしたわたしの姿が映っています。
今では着ている服も、とうていドレスなんて呼べる代物ではありません。ひとつに結んだだけの蜂蜜色の髪。以前よりも地味さが増しているのではないかしら。
「ジャムの瓶をお持ちしますね」
「あ……っ」
納戸に向かおうとしたわたしの手首を、その方は突然掴みました。
彼が立ち上がった所為で、椅子がガタンと床に倒れます。
「あの?」
「失礼。手が勝手に動いてしまった……いや、言い訳にもならないが」
その男性は視線を落として床を見つめていらっしゃいます。かつての子爵家のような、とろけるような風合いの白い石の床ではありません。
ささくれた木の床は、どんなに拭いても輝きはしないのです。
33
お気に入りに追加
5,361
あなたにおすすめの小説
どうして別れるのかと聞かれても。お気の毒な旦那さま、まさかとは思いますが、あなたのようなクズが女性に愛されると信じていらっしゃるのですか?
石河 翠
恋愛
主人公のモニカは、既婚者にばかり声をかけるはしたない女性として有名だ。愛人稼業をしているだとか、天然の毒婦だとか、聞こえてくるのは下品な噂ばかり。社交界での評判も地に落ちている。
ある日モニカは、溺愛のあまり茶会や夜会に妻を一切参加させないことで有名な愛妻家の男性に声をかける。おしどり夫婦の愛の巣に押しかけたモニカは、そこで虐げられている女性を発見する。
彼女が愛妻家として評判の男性の奥方だと気がついたモニカは、彼女を毎日お茶に誘うようになり……。
八方塞がりな状況で抵抗する力を失っていた孤独なヒロインと、彼女に手を差し伸べ広い世界に連れ出したしたたかな年下ヒーローのお話。
ハッピーエンドです。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID24694748)をお借りしています。
婚約解消と婚約破棄から始まって~義兄候補が婚約者に?!~
琴葉悠
恋愛
ディラック伯爵家の令嬢アイリーンは、ある日父から婚約が相手の不義理で解消になったと告げられる。
婚約者の行動からなんとなく理解していたアイリーンはそれに納得する。
アイリーンは、婚約解消を聞きつけた友人から夜会に誘われ参加すると、義兄となるはずだったウィルコックス侯爵家の嫡男レックスが、婚約者に対し不倫が原因の婚約破棄を言い渡している場面に出くわす。
そして夜会から数日後、アイリーンは父からレックスが新しい婚約者になったと告げられる──
私の何がいけないんですか?
鈴宮(すずみや)
恋愛
王太子ヨナスの幼馴染兼女官であるエラは、結婚を焦り、夜会通いに明け暮れる十八歳。けれど、社交界デビューをして二年、ヨナス以外の誰も、エラをダンスへと誘ってくれない。
「私の何がいけないの?」
嘆く彼女に、ヨナスが「好きだ」と想いを告白。密かに彼を想っていたエラは舞い上がり、将来への期待に胸を膨らませる。
けれどその翌日、無情にもヨナスと公爵令嬢クラウディアの婚約が発表されてしまう。
傷心のエラ。そんな時、彼女は美しき青年ハンネスと出会う。ハンネスはエラをダンスへと誘い、優しく励ましてくれる。
(一体彼は何者なんだろう?)
素性も分からない、一度踊っただけの彼を想うエラ。そんなエラに、ヨナスが迫り――――?
※短期集中連載。10話程度、2~3万字で完結予定です。
あなたの1番になりたかった
トモ
恋愛
姉の幼馴染のサムが大好きな、ルナは、小さい頃から、いつも後を着いて行った。
姉とサムは、ルナの5歳年上。
姉のメイジェーンは相手にはしてくれなかったけど、サムはいつも優しく頭を撫でてくれた。
その手がとても心地よくて、大好きだった。
15歳になったルナは、まだサムが好き。
気持ちを伝えると気合いを入れ、いざ告白しにいくとそこには…
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
陰謀は、婚約破棄のその後で
秋津冴
恋愛
王国における辺境の盾として国境を守る、グレイスター辺境伯アレクセイ。
いつも眠たそうにしている彼のことを、人は昼行灯とか怠け者とか田舎者と呼ぶ。
しかし、この王国は彼のおかげで平穏を保てるのだと中央の貴族たちは知らなかった。
いつものように、王都への定例報告に赴いたアレクセイ。
彼は、王宮の端でとんでもないことを耳にしてしまう。
それは、王太子ラスティオルによる、婚約破棄宣言。
相手は、この国が崇めている女神の聖女マルゴットだった。
一連の騒動を見届けたアレクセイは、このままでは聖女が謀殺されてしまうと予測する。
いつもの彼ならば関わりたくないとさっさと辺境に戻るのだが、今回は話しが違った。
聖女マルゴットは彼にとって一目惚れした相手だったのだ。
無能と蔑まれていた辺境伯が、聖女を助けるために陰謀を企てる――。
他の投稿サイトにも別名義で掲載しております。
この話は「本日は、絶好の婚約破棄日和です。」と「王太子妃教育を受けた私が、婚約破棄相手に復讐を果たすまで。」の二話の合間を描いた作品になります。
宜しくお願い致します。
結婚5年目の仮面夫婦ですが、そろそろ限界のようです!?
宮永レン
恋愛
没落したアルブレヒト伯爵家を援助すると声をかけてきたのは、成り上がり貴族と呼ばれるヴィルジール・シリングス子爵。援助の条件とは一人娘のミネットを妻にすること。
ミネットは形だけの結婚を申し出るが、ヴィルジールからは仕事に支障が出ると困るので外では仲の良い夫婦を演じてほしいと告げられる。
仮面夫婦としての生活を続けるうちに二人の心には変化が生まれるが……
【完結】溺愛婚約者の裏の顔 ~そろそろ婚約破棄してくれませんか~
瀬里
恋愛
(なろうの異世界恋愛ジャンルで日刊7位頂きました)
ニナには、幼い頃からの婚約者がいる。
3歳年下のティーノ様だ。
本人に「お前が行き遅れになった頃に終わりだ」と宣言されるような、典型的な「婚約破棄前提の格差婚約」だ。
行き遅れになる前に何とか婚約破棄できないかと頑張ってはみるが、うまくいかず、最近ではもうそれもいいか、と半ばあきらめている。
なぜなら、現在16歳のティーノ様は、匂いたつような色香と初々しさとを併せ持つ、美青年へと成長してしまったのだ。おまけに人前では、誰もがうらやむような溺愛ぶりだ。それが偽物だったとしても、こんな風に夢を見させてもらえる体験なんて、そうそうできやしない。
もちろん人前でだけで、裏ではひどいものだけど。
そんな中、第三王女殿下が、ティーノ様をお気に召したらしいという噂が飛び込んできて、あきらめかけていた婚約破棄がかなうかもしれないと、ニナは行動を起こすことにするのだが――。
全7話の短編です 完結確約です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる