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上司から誘惑されています。

些細な異変

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「ただいまぁ~」

 鍵を開けて玄関の奥に入っていくと、ダイニングからひょっこりと悟朗が顔をのぞかせた。

「おう、おかえり。飯はどうする。食うか?」
「食う~!」

 いつものんきな父親の顔を見たせいだろうか、六華の全身から力が抜ける。
 ああやっぱり緊張していたんだと、六華は腰に帯びていた珊瑚を外して、リビングルームの刀掛けに置いた。

「こら、食う! じゃないだろ」
「ごめんごめん」

 六華は笑ってダイニングテーブルに座った。
 悟朗はキッチンで鍋に湯をわかしながら、ボウルに卵を落とし入れて、菜箸で慣れた手つきで混ぜ始める。

「樹はもう寝た?」
「おう、それがよ~。今日はめずらしくぐずってな」
「えっ」

 思わぬ返答に、六華はぎょっとした。

 樹はいったい人生を何週目してきたのかと思うくらい聞き分けがいい。
 働く母親である六華は『ありがたいな』と思うと同時に『無理をさせているのではないか』といつも不安に思っているくらいだ。
 そんな樹がぐずることなど滅多にない。
 いったいなにがあったのだろう。六華は不安に駆られながら問う。

「ぐずったって、どういうこと?」
「おう……。なんか夕方くらいから落ち着きがなくてな。幼稚園から帰ってきても、いつもみたいに本を読むわけでもなく、立ったり座ったりして考え事してるみたいな感じでよ」
「夕方……」
「んで、晩飯の時間くらいからかな。大好きなオムライス見ても、食べたくないのか、めそめそして、外に出ようって俺の手をぐいぐい引っ張るし……」

 沸騰したお湯にそうめんを入れて、悟朗は六華の顔を振り返る。

「あれはたぶん、お前を迎えに行こうって言いたかったんだと思うぜ。今日は仕事が遅くなってるんだろうって、言い聞かせたけど、あんまり納得してない感じだったな。一時間前くらいにようやくあきらめたみたいで、すっと寝たけどさ。珍しいこともあるもんだよ」
「そう……」

 六華は両手でぎゅっと頬を挟み、テーブルの上に肘をついた。
 心臓がドキドキと跳ねて、胸の奥をぎゅっとつかまれたような気分になる。

(そんな偶然、ある?)

 連絡を入れられないままの残業など、ここ半年で何度もしている。
 けれど樹がそんな状態になったことなど一度もなかった。
 彼は何かを感じ取ったというのだろうか。
 大河とともにあやかしを切ったこと。血に濡れたこと。
 偶然なのだろうか。
 いや、確かに樹は聡さとい子だが、それらを必然と結びつけるほうが強引なのかもしれない。

(だって、遠く離れた私に起こっていることを、樹が知る方法なんてないわ……いやでも樹は不思議な子だから……)

 悟朗が考え込む六華の前に、かきたまにゅう麺をどん、と置いた。

「ほら、とりあえず飯食え。腹が減った状態で考えてもろくなことにならねぇぞ」
「あ、うん。そうだね」

 確かに父の言うとおりだ。
 六華は笑って自分の頬をぺちっと叩くと、

「いただきまーす!」

 と、その手を顔の前で合わせる。

「そうそう、今日の任務は奥向きだったから、お姉ちゃんにも会えたんだよ」
「元気そうだったか?」
「うん。遠くから一方的に見ただけどね」

 つるつるとにゅう麺をすすりながら、六華は姉の顔を思い出す。
 不安などなにひとつ感じていない、安らかな表情をしていた。
 後宮はつらいこともあるだろうが皇太子の存在が双葉を安心させてくれているのだろう。

「でも皇太子殿下とは少しお話できたんだ。お姉ちゃんのこと、すごく大事にしてくれてるみたいでほっとした」

 竜宮に渦巻く人の嫉妬やねたみは、刀で切って捨てることができる『陰の気』よりも、よっぽど恐ろしいと六華は思う。
 あやかしが襲ってきたときも、そのあとも。璃緋斗はその腕から一度も双葉を離さなかった。他人に任せず自分で守るという強い意志を感じた。
 あの人ならきっと、どんな災いからも姉を守ってくれるだろう。

「そうかぁ……よかった」

 悟朗はお茶を入れて、しみじみしたように六華の正面に腰を下ろす。
 双葉は皇太子妃という雲の上の存在である。家族ですら、手紙一通、自由にやり取りすることができない。
 だからこうやって妹の目から見た姉、双葉の様子を聞けると、ほっとしたように表情が和らぐ。

「おなかも大きかったけど……」
「そういや、予定日なんてものはないんだっけか?」
「そうだよ。竜の血を継ぐ子供は、いつ生まれるかわからない。普通の人間とは違うんだって」

 人の妊娠期間は十月十日というが、竜種は違う。
 本当かどうかはわからないが、過去の竜王には、母の腹に三年三か月いたという伝説もあるくらいである。

「私も相当難産だったけど、お姉ちゃんは大丈夫かなぁ……」

 樹を出産するとき、六華は40時間以上かかっている。
 自分は運動も得意だし、妊娠の経過も医者に褒められるくらい健康体だったので、お産も楽だろうと勝手に思い込んでいたのだ。

「双葉はほそっこいからな。まぁ心配だが、竜宮なら大丈夫だと思うしかないな」
「そうだよね。竜宮お抱えの最高の医者がお姉ちゃんのことを見守ってくれてるだもん。大丈夫だよね」

 六華と悟朗はうんうんとうなずきあい、双葉の無事を祈るのだった。
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