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上司を押し倒しました。

待っている男

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 トレンチコートの下の心臓が、まだドキドキと跳ねている。

「びっくりした……」

 竜宮を出てから何度その言葉を口にしただろう。
 まさかかつて一夜を共にした男が、上司として自分の勤め先に赴任してくるとは思わなかった。

(気が付いてよかったけれど……)

 帰宅途中のバスの中では冷汗が止まらなかった。
 何度も深呼吸を繰り返し、それからゆっくりと自宅の引き戸に手を掛ける。

(平常心、平常心……)

 いつまでも動揺はしていられない。
 それでなくても【彼】は勘のいいところがあるのだ。自分の動揺など瞬時に見抜いてしまう。

「ただいまー!」

 廊下の奥に向かって声をかける。バタバタと跳ねるような足音が近づいてきた。
 玄関にパッと明かりがついて、幼稚園の制服姿のおさな子が、六華のふとももにしがみつく。

「ただいま、樹!」

 六華は絹糸のような樹の黒髪を手のひらで撫でながら、それからしゃがみこみひょいと彼を抱き上げた。

 さらさらの黒髪に、利発そうな大きな瞳。非常に整った顔立ちはあまりにも愛らしく、女の子にしか見えないが、彼は矢野目樹(いつき)という。
 あの夜、久我大河との間に授かった、最愛の息子だった。

「まだ幼稚園の制服、脱いでなかったの?」

 六華の問いかけに、樹はこくりとうなずく。

「あ、今日はピアノのお稽古に行ってたんだね。じゃあ一緒にごはんを食べて、お風呂にはいろう」

 六華の言葉を真剣なまなざしで聞いた樹は、そのまま六華の胸に甘えたように額をぎゅうぎゅうと押し付ける。
 そのぬくもりを感じるだけで六華は仕事の疲れなどいつも吹き飛んでしまうのだ。

(ああ、愛くるしくて胸が痛くなる~!)

 六華は樹の体を抱きしめながら、

「いつき~!」

 頭に頬ずりした。

 すると樹は苦しそうに、じたばたと体をよじる。力任せに抱きしめているわけではないが、少し照れくさいのだろう。
 唇を尖らせて、抗議するようにバシバシと六華の胸を叩いた。

「ごめんごめん」

 六華は苦笑しつつ、樹を抱いたままキッチンに入る。ガスコンロの前に立っていたエプロン姿の父が振り返った。手にはお玉をもっている。

「よう、お帰り!」
「ただいまー」

 六華の父の名は矢野目悟朗(ごろう)。
 身長は190近い、見た目は野武士のような無骨な大男であるが、町道場の師範でもあり、娘ふたりと孫を溺愛するよき家庭人だ。

「ちょうどメシできるところだぞ。着替えて来い」
「はーい」

 六華は腕の中の樹を抱いたまま自分の部屋へと向かい、ひざまずいて樹の制服のボタンに手をかけた。
 体を近づけると、ふんわりと甘い香りがする。
 息子の制服の小さなボタンですらかわいい。
 ニコニコしながらボタンを外していると、少し呆れたように樹が唇を尖らせ、身をよじる。
 自分でやると言いたいのだろう。

「幼稚園の間くらい、お母さんにさせてくれてもいいじゃない」

 そんな六華の言葉を聞いて、樹は仕方ないと言わんばかりに、ふうっと息を吐きながらも、どこか嬉しそうに六華を見つめた。
 その目が、表情が、『お母さんが大好き』と言っている気がした。


 樹には生まれつき言葉がない。
 それどころか、大変な難産で生まれた時から、うぶ声一つあげなかった。
 六華は赤ん坊の樹を連れて日本中の病院へ通ったが、結果は全て異常なしだった。声帯にも脳にも、体のどこにも異常は見当たらなかった。
 数年にも及ぶ病院通いの末、最終的に、樹は口がきけないのではなく『きかない』のだと、六華は判断した。
 樹は物心ついてからずっと、おそろしく分別がよく賢かった。知能指数が高いだけでなく、記憶力も抜群にいい。口に出して読むことはできないが、五歳児にして詩経を暗記しているくらいである。
 あまりの神童ぶりに、もっと詳しく検査をさせてくれと病院からは頼まれたが、六華はそれを断った。これ以上、樹に負担をかけたくなかったのだ。
 言葉を発してくれないのは当然母としてもどかしくもあるが、本人が口をききたくないなら、それでいい。

「樹」

 六華が呼びかけると、樹の表情はパッと明るくなる。
 頬は薔薇ばら色で、黒い瞳は澄んでいて白目は少し青みがかっている。
 目は口程に物を言うというが、確かにそうなのだろう。とても美しい瞳だ。

(生きてさえいててくれれば、それでいい……)

 六華は樹のふっくらしたすべすべの頬に手のひらをのせて、ふにふにと押さえる。

「やわらか~い……いやされる~」

 すると樹はまた唇を大きく尖らせた。

「ふふっ」

 六華は樹をもう一度ぎゅっと抱き締めたあと、部屋着に着替えさせる。
 鎖骨の上あたりに三つ並んだほくろを発見して、六華の心臓はかすかに跳ねた。

(久我大河と同じだ……)

 彼は耳の下、首筋に縦に三つ。
 樹は鎖骨の上に横に三つ並んでいる。
 自分は一日に何度もこのほくろを見ているのだから、既視感も当然だ。これも遺伝子の不思議というやつなのかもしれない。

(やっぱり久我大河は樹の父親なんだ……)

 これまで樹の父親は、どこの誰かもわからない、一晩だけ恋をした男――のはずだった。
 だが今日、六華は知ってしまった。
 かつて自分が激しく惹かれた男が、上司としてやってきたということを。
 そして樹は彼との間に出来た息子なのだ。

 あの夜、六華は先のことなど考えなかった。
 ただ、その時に彼と愛し合いたかっただけ。刹那の契りであることはわかっていた。
 だが六華は、流されたとは思っていない。

(自分がそうしたくてそうしたんだ)

 その後、妊娠が分かっても、あの夜の男を探そうとはしなかった。ただ自分で、育てることしか考えなかった。
 父の道場で剣ばかり振るっている、女らしくない自分の中に、母性があるなどと思っていなかった六華だが、お腹の子は守り、産み、育てると決めたのだ。
 当然、未婚の母になると告げた六華に悟朗は激怒した。
 即座に相手の男を探し出して成敗すると大騒ぎしたが、六華が相手の男について口を割らなかったため、どうにもできなかった。
 しかも矢野目家一番の権力者である双葉が六華の味方に付いた。

『お父さんが許さないと言うのなら、私は六華ちゃんとこの家を出ていく。ふたりで子供を育てるわ』

 と言い放ち、悟朗を黙らせてしまったのである。
 姉の協力を得た六華は大きなおなかを抱えて術式の専門学校に通い、出産後は一年休学したが、それからなんとか子育てをしながら学校を卒業。
 悟朗の道場を手伝いつつ就職活動をしていたのだが、双葉が皇太子に召し上げられる事態になり、この春、竜宮警備隊の門を叩いたのだ。
 今となっては、悟朗は樹のことを目に入れても痛くないほどかわいがっているし、双葉の突然の竜宮入りを除けば、何の問題もなく、親子三代仲良く暮らせていた。
 そして大事な姉、双葉のことも、守れると思っていた。

(でも、彼が私とのことを思い出し、なにかの拍子で、未婚の母だと知れたら……)

 六華はじっと、美しい息子の顔を見つめる。
 さらさらとした絹糸のような黒髪。少しめじりが吊り上がった、利発そうな大きな目に、整った顔立ち。
 確かに口はきけないが、家中の本を読み、暗記し、ピアノの楽譜も一度見ただけで覚えてしまい、難しい本ばかり読んでいる。神童だ。
 正直言って外見も頭の中身も自分には似ていない。彼は父親似なのだと、今日改めて感じた。
 六華が未婚の母ということを山尾は知っている。だが久我大河が父親だとバレたら、話は別だ。
 竜宮警備隊という特殊な環境上、処分は免れないだろう。
 そんなことになったら双葉を護るために竜宮警備隊に入った意味がなくなってしまう。
 想像しただけで背筋が凍る。

(絶対に、絶対に、ばれるわけにはいかない!)

 六華はきりっとした表情で唇をかみしめる。

「……」

 樹が軽く首をかしげて、小さな手で、ぎゅっと六華の服をつかんだ。
 顔を覗き込んでくるその目が六華の異変を感じ取っている。
 本当に勘が鋭く、賢い子だ。

「今日の夜ご飯なにかなと思って」

 六華は「あはは……」と苦笑しながら、また樹の着替えを手伝うのだった。
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