僕とセンセイの秘め事

白霧雪。

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5月

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 桜も散り始め、木々が芽吹き、艶々とした緑が太陽の光を受けてカガヤク季節。所有する山の山頂近くに位置する学園は、授業が終わり放課後になるととたんに静けさを増す。
 緑を一望できる北校舎の四階。美術室で志鶴は先生が来るのを待っていた。

 遠くから部活に勤しむ生徒の声が聞こえる。
 学業重視のこの学園で、授業以外で使うことのない美術室は放課後になれば先生と志鶴の二人きりの空間だった。
 年季の入った木製の机は落書きや、 彫刻刀の痕、油絵の具の独特な匂い。先生がいつも座る机にはひざ掛けとカーディガンが椅子にかけられている。

 夕日の赤と、新緑が入り混じり、虹色の光が美術室に差し込む。
 赤く照らされた志鶏の横顔は憂いを帯び、 どうしようもなく溢れる感情を押さえ込んでいた。

 同年代の男子高校生と比べると、制服の袖から覗く手首は細く、首筋はすらりと長い、少し長めの黒髪は艶やかで風に流されるとさらさら音が聞こえてくる。涼やかな目元は色っぽく、薄い唇はぼってりと色ついている。太陽の下を走り回る男子高校生というよりも、雨の日が似合う儚い雰囲気だ。文学少年、というのがしっくりくる。

 放課後になると、 進路相談という名目でいつも美術室を訪れていた。聞き上手な先生と話していると、ほっと心が安らいだ。心理療法士の資格を持っていると知って、なるほどと納得したのは最近である。
 訪れれば、柔らかい笑みを浮かべて招き入れてくれる先生が今日に限って留守だった。教卓で見つけたメモには「四時には戻ります」と書いてある。かろうじて読める悪筆に苦笑いを零して、白く細い指先が筆跡を辿った。

 先生は、とても優しい。 どんなにくだらない話でもマジメに聞いてくれて、頭を撫でてくれるんだ。高校生にもなって頭を撫でられるなんて、と恥ずかしかったけれど、あのペンだこだらけの手でゆっくりと撫でられるとなんだか気持ちが落ち着くのだ。不思議な、魔法の手、と志鶴は呼んでいる。たった一回、撫でられるだけで荒れていた心が落ち着いてしまうにだから、魔法を使っているに違いない。

「せいじ、さん」

 たどたどしく名前をロずさんで、ひとりで顔を赤くして、 バカみたいだ。
 男岡士だとか、年の差だとか教師と生徒だとか、考えなくちゃいけないことはたくさんある。けれど いつのころか気づいてしまった。
 周りがグラビア雑誌を見て、どの女の子が好みか話しているのを横で聞いていて、バッと頭の中に浮んだのが先生だった。年上の、余裕のある笑みとか、寒がりなとことか、たまに香る煙草の匂いとか、全部好き。

「すき、だなぁ」

 抑えきれない感情が、ぽろりと口からあふれ出る。無性に、先生に会いたくなった。

 ――カタン、と。聞こえた物音に目を見開いた。

「ごめんね。聞くつもりはなかったんだけど」

 かけられた声は先生じゃない。先生は、話し始めるとき必ず「志鶴君、」と名前を呼んでくれるのだ。おそるおそる、振り返る。入り口に行むのはにっこりと笑みを浮かべた新任教師だった。春の新任式で、カッコいいと騒がれていた。確かーー火尾先生。
 すらりと長い足に、高い背。暗い茶髪は適当にワックスで整えられ、爽やかな香水のにおいがする。はっきりとした目鼻立ちに、シャープな輸郭。教師よりもモデルが似合いそうな男だ。

「三年生の水逆、だっけ。職員室でよく話題に上がってるよ。将来有望の優等生なんだってな」

 コツ、コツ、と靴音を鳴らして室内に足を踏み入れてくる。なんだか、先生と二人きりの空間を侵食されていくようで、黒いよどみが胸に溜まった。いつもと違う、全く別の空間にいるようだ。
 何を考えているか分からない笑顔で一歩一歩、ゆっくりと距離を詰めてくる火尾が怖い。

「……あの、今の、」
「水逆さぁ、氷室先生のこと好きなんだ?」

 鳴呼、聞かれていた。血の気が引いていく。指先から、全身が冷えていく感覚に、クラリと頭が揺らぐ。
「おっと、貧血? 大丈夫か?」貴方のせいです、とは言えず、 白い顔を俯けて唇を噛み締めた。

 二年学年の教科担任である火尾と関わりは薄い。集会のときにすれ違うくらい。格好良くって、爽やかで、声がイイ先生、と後輩たちが喋っているのを聞いたことがあるだけで、彼がどういった人物なのかわからなかった。バラされたらどうしよう。終わった。あと一年、学生生活を耐えれば終わりだったのに。
 ぞわぞわと背中をよじ登ってくる絶望感に、心が悲鳴を上げた。

「内緒にしてほしい?」

 まるで悪魔の幅きだ。
 赤い夕日が二人を照らす。 黄昏が地獄へ誘っているようだ。

 ハッと、顔を上げて、火尾のワイシャツを握りしめる。シワになるとか、考えられなかった。

「お願い、します……! 氷室先生には言わないでッ」

 胃の奥がグルグルと渦巻いて気持ち悪い。背中を嫌な汗が流れる。
 顔を真っ青にする志鶴にきょとん、と目を丸くした火尾だったが、いいことを思いついたとばかりに満面の笑みを浮かべた。そっと、髪を梳くように頭を撫でられ、整った顔が近付いてくる。かすかに、煙草のにおいが鼻先をかすめた。ーー先生とは、全く違う撫で方だ。
 キスされる!? ぎゅっと目を瞑った志鶴の耳元に吐息が吹きかけられる。

「ッ!?」肩が跳ね、驚き目を開いた志鶴を覗き込んだ火尾は小さく囁いた。

「ーー内緒にしてあげるから、俺の言うこと聞いてよ」

 教師とは思えない、悪い顔。実はホストなんです、と言ってくれたほうが信じられる。
 先生のしっかりした指と、華奢な小指が絡み合った。

「センセイと、水逆の秘め事ヒミツだ」

 ナイショだぞ、と言った声が、頭の中でずっと響いている。



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