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花の舞
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酒は好きだが、一向に杯が進まなかった。美しい見た目の料理も一口二口手を付けて、箸は置いてしまった。
青い空を彩る桜吹雪の中、楽が奏でられ、皆一様に酒の席を楽しんでいる。
朝廷を治める長たちが揃い踏み、袖の下で声を潜めたり、しゃっくりのように笑う者もいる。そして時折、桜妃の後ろに座る桃花に視線が向けられた。まるで針の筵の気分だ。舞台上であれば、どれだけ注目されても気にならないのに、ただ座っているだけで視線を向けられては、通る食事ものどを通らなかった。
桃真は――王様から見て右側の、上座に近い方に座っていた。長ともなれば壮年から中年の男性が多い中で、桃真ほど若い官吏はあまりおらず、異質な存在感を放っている。
「桃真君、彼女が例の舞姫かい?」
「……陸侍郎も気になりますか?」
人の好い、穏やかな人相の男性は桃真の上司にあたる礼部侍郎の陸晋。礼部に配属されてからずっとお世話になっている人だ。三十代半ばとは思えない童顔に、彼の同期たちは「昔から顔が変わらない。妖の類ではないか」と言っている。朝廷七不思議のひとつだった。
わくわくと目を輝かせて、桜妃の後ろに隠れる少女を見やる陸に苦笑する。居心地悪そうにうろつかせた蒼い目とぱっちりと視線が合う。さすがに長達を前にして手を振るわけにもいかず、にっこりと笑みを浮かべて返した。
「あ、ほら、目でやりとりをしてるじゃないか。やっぱり、君と彼女、好い仲なのかい? やっと桃真君にも春が来たのかぁ、って、尚書と目元を袖で拭っていたんだよ」
「余計なお世話ですよ……。好い仲というか、僕のお気に入りというか……。まぁ、彼女が奥さんになってくれたら、僕は喜んで毎日家に帰るでしょうね」
「わぁ! それで、それで? どこまで進んだんだい?」
「彼女、とっても奥手で恥ずかしがり屋なので……。でもほら、見てくださいよ。僕が贈った簪を挿してくれているんです」
にっこり。いけしゃあしゃあと言ってのける色男に、この場に桃真がいれば張り手が飛んでいただろう。奥手で恥ずかしがり屋なのはそうだが、進むどころか始まってすらいないと陸に教えてやりたい。
「簪! 遠目で見えないけれど、蒼い簪かな? わぁ、もう結婚まで秒読みじゃないか。式を挙げる時はぜひ呼んでおくれよ」
「ははは、楽しみにしていてください」
ツッコミがいない大惨事な会話だった。
桃真には絶対的な自信があった。顔は良い(事実)、家柄良し(事実)、性格も良い(自称)のだから、落とせないわけがない。求婚も結婚もあながち冗談じゃない。こうして上司に話をするのは外堀を埋めるのと、根回しの意味があった。結婚せざるを得ない状況を作ってしまえばいいのだ。
身請けの話も、本気だった。実際は光雅楼の大旦那と話をしてみてからになるが、絶対に手に入れるつもりである。
恋というには重くて、愛と呼ぶには歪んでいる、独占欲だ。
桃花は気のない男に贈られた物を身に着けるような少女ではない。脈ありと考えて間違いないだろう。
桃花が恋愛事を避けているのは、接していてよく理解した。恋に踊らされるのが怖いのだろう。愛に溺れるのが恐ろしいのだろう。物を受け取るとき、一瞬だけ怯えた目をするのだ。
そんな彼女が、誰かの物になると考えたとき、全身の血が沸騰するかのような怒りに支配された。
「私も彼女の舞が見てみたいなあ」
「あぁ、そういえば陸侍郎は武闘会の時は別件でいなかったんでしたね」
「そうそう。あとから彼女の舞の話を聞いて、何としてでも見に行けばよかったなぁって後悔したよ」
酒を仰いだ陸の空になった杯に、度数の高い酒を注ぐ。
そう言いながら上座を見ると、面布をした桃花が中央の開いた場に出てくるではないか。思わず目を丸くして主上を見れば、口角を上げて酒を飲んでいる。王の戯れか、妃の誰かが言い出したことか。
音が鳴りやみ、奇妙な静けさがあたりを包んだ。
旋律がそぅっと滑り、鈴がシャン、シャン、と転がる。鈴の音に合わせてくるりと裳を翻し、扇子がはらりと開かれた。
はらはらと舞う桜の花びらを扇ぎながら、しなを作る体は艶やかで、一挙一動を目で追ってしまう。
桜花想伝は、桜の精が人間に化けて、春を喜ぶ曲だ。今日と言う日にぴったりな曲目に合わせて、桃花は扇で舞い踊る。
艶やかな濡れた目元は見る者の心を射抜き、細い手首がくんっと折れるたびについ手を伸ばしてしまう。
官能的な色の強い舞に、いい年をした男たちは決して酒の精だけでなく頬を赤らめ、ぼんやりと春の夢に囚われていた。
こんな舞、するだなんて聞いていない。ぎり、と奥歯を噛みしめながらも、目を離せない自分に苛立ちが増す。
春を喜ぶというよりは、男を誘う舞に誰もが魅了された。今までの剣舞とは全く違う色に、心臓が早鐘を打った。
シャン、と鈴が鳴ると同時に動きに緩急がついて、黒髪が宙を切る。ばらりと広がる黒髪と、黒い扇子が重なって紗のように顔を隠した。
桜貝の指先が髪をすくい、伏せられた蒼い瞳が覗く。くるり、くるり、くるくるり。はらはら、ひらひらと桜が、裳が、扇子が舞って――音が途切れた。
しばらくの間、誰も動くことができなかった。ある者はぽかんと口を開け、ある者は傾いた杯から酒がこぼれている。たかが小娘と、侮っていた男たちは覆された認識にハッとした。
空気を断ち切るように手を打ち鳴らしたのは、桃真だった。
「見事であった」
次いで、王の賛辞に、拍手が鳴り響く。
「……――桃真君、すごいものを見てしまったよ……」
「ふふふっ、そうでしょう。そうでしょう。僕の舞姫はすごいんですよ」
「まさか、もう一度この目で天女が見れるとは思わなかった――」
呆然と呟く陸の目は桃花に釘付けで、並々ならぬ感情で溢れていた。
ただこの時は、桃花の天女の如く舞う姿のことを言っているのだと思っていたが、そうではないのだと気づくのはもっと後のことだった。
青い空を彩る桜吹雪の中、楽が奏でられ、皆一様に酒の席を楽しんでいる。
朝廷を治める長たちが揃い踏み、袖の下で声を潜めたり、しゃっくりのように笑う者もいる。そして時折、桜妃の後ろに座る桃花に視線が向けられた。まるで針の筵の気分だ。舞台上であれば、どれだけ注目されても気にならないのに、ただ座っているだけで視線を向けられては、通る食事ものどを通らなかった。
桃真は――王様から見て右側の、上座に近い方に座っていた。長ともなれば壮年から中年の男性が多い中で、桃真ほど若い官吏はあまりおらず、異質な存在感を放っている。
「桃真君、彼女が例の舞姫かい?」
「……陸侍郎も気になりますか?」
人の好い、穏やかな人相の男性は桃真の上司にあたる礼部侍郎の陸晋。礼部に配属されてからずっとお世話になっている人だ。三十代半ばとは思えない童顔に、彼の同期たちは「昔から顔が変わらない。妖の類ではないか」と言っている。朝廷七不思議のひとつだった。
わくわくと目を輝かせて、桜妃の後ろに隠れる少女を見やる陸に苦笑する。居心地悪そうにうろつかせた蒼い目とぱっちりと視線が合う。さすがに長達を前にして手を振るわけにもいかず、にっこりと笑みを浮かべて返した。
「あ、ほら、目でやりとりをしてるじゃないか。やっぱり、君と彼女、好い仲なのかい? やっと桃真君にも春が来たのかぁ、って、尚書と目元を袖で拭っていたんだよ」
「余計なお世話ですよ……。好い仲というか、僕のお気に入りというか……。まぁ、彼女が奥さんになってくれたら、僕は喜んで毎日家に帰るでしょうね」
「わぁ! それで、それで? どこまで進んだんだい?」
「彼女、とっても奥手で恥ずかしがり屋なので……。でもほら、見てくださいよ。僕が贈った簪を挿してくれているんです」
にっこり。いけしゃあしゃあと言ってのける色男に、この場に桃真がいれば張り手が飛んでいただろう。奥手で恥ずかしがり屋なのはそうだが、進むどころか始まってすらいないと陸に教えてやりたい。
「簪! 遠目で見えないけれど、蒼い簪かな? わぁ、もう結婚まで秒読みじゃないか。式を挙げる時はぜひ呼んでおくれよ」
「ははは、楽しみにしていてください」
ツッコミがいない大惨事な会話だった。
桃真には絶対的な自信があった。顔は良い(事実)、家柄良し(事実)、性格も良い(自称)のだから、落とせないわけがない。求婚も結婚もあながち冗談じゃない。こうして上司に話をするのは外堀を埋めるのと、根回しの意味があった。結婚せざるを得ない状況を作ってしまえばいいのだ。
身請けの話も、本気だった。実際は光雅楼の大旦那と話をしてみてからになるが、絶対に手に入れるつもりである。
恋というには重くて、愛と呼ぶには歪んでいる、独占欲だ。
桃花は気のない男に贈られた物を身に着けるような少女ではない。脈ありと考えて間違いないだろう。
桃花が恋愛事を避けているのは、接していてよく理解した。恋に踊らされるのが怖いのだろう。愛に溺れるのが恐ろしいのだろう。物を受け取るとき、一瞬だけ怯えた目をするのだ。
そんな彼女が、誰かの物になると考えたとき、全身の血が沸騰するかのような怒りに支配された。
「私も彼女の舞が見てみたいなあ」
「あぁ、そういえば陸侍郎は武闘会の時は別件でいなかったんでしたね」
「そうそう。あとから彼女の舞の話を聞いて、何としてでも見に行けばよかったなぁって後悔したよ」
酒を仰いだ陸の空になった杯に、度数の高い酒を注ぐ。
そう言いながら上座を見ると、面布をした桃花が中央の開いた場に出てくるではないか。思わず目を丸くして主上を見れば、口角を上げて酒を飲んでいる。王の戯れか、妃の誰かが言い出したことか。
音が鳴りやみ、奇妙な静けさがあたりを包んだ。
旋律がそぅっと滑り、鈴がシャン、シャン、と転がる。鈴の音に合わせてくるりと裳を翻し、扇子がはらりと開かれた。
はらはらと舞う桜の花びらを扇ぎながら、しなを作る体は艶やかで、一挙一動を目で追ってしまう。
桜花想伝は、桜の精が人間に化けて、春を喜ぶ曲だ。今日と言う日にぴったりな曲目に合わせて、桃花は扇で舞い踊る。
艶やかな濡れた目元は見る者の心を射抜き、細い手首がくんっと折れるたびについ手を伸ばしてしまう。
官能的な色の強い舞に、いい年をした男たちは決して酒の精だけでなく頬を赤らめ、ぼんやりと春の夢に囚われていた。
こんな舞、するだなんて聞いていない。ぎり、と奥歯を噛みしめながらも、目を離せない自分に苛立ちが増す。
春を喜ぶというよりは、男を誘う舞に誰もが魅了された。今までの剣舞とは全く違う色に、心臓が早鐘を打った。
シャン、と鈴が鳴ると同時に動きに緩急がついて、黒髪が宙を切る。ばらりと広がる黒髪と、黒い扇子が重なって紗のように顔を隠した。
桜貝の指先が髪をすくい、伏せられた蒼い瞳が覗く。くるり、くるり、くるくるり。はらはら、ひらひらと桜が、裳が、扇子が舞って――音が途切れた。
しばらくの間、誰も動くことができなかった。ある者はぽかんと口を開け、ある者は傾いた杯から酒がこぼれている。たかが小娘と、侮っていた男たちは覆された認識にハッとした。
空気を断ち切るように手を打ち鳴らしたのは、桃真だった。
「見事であった」
次いで、王の賛辞に、拍手が鳴り響く。
「……――桃真君、すごいものを見てしまったよ……」
「ふふふっ、そうでしょう。そうでしょう。僕の舞姫はすごいんですよ」
「まさか、もう一度この目で天女が見れるとは思わなかった――」
呆然と呟く陸の目は桃花に釘付けで、並々ならぬ感情で溢れていた。
ただこの時は、桃花の天女の如く舞う姿のことを言っているのだと思っていたが、そうではないのだと気づくのはもっと後のことだった。
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