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「‥‥え!?里佳子りかこが好きな人って、あの・・乾課長なのーっ!?」


私の同僚であるあやさんは、口をパカッと空けたまま固まった。
お箸から鶏の唐揚げ落ちましたよー?

「う、うん‥‥乾課長。素敵だなぁって‥‥」

私は、落ちた唐揚げの行方が気になって仕方が無い。
拾われる様子のないそれは、そろそろ3秒ルールが適用されなくなってしまう。

「へぇ‥‥因みに、どんなところが好きなの?」

「優しいところ、とか。大っきくて落ち着くところ、とか?」

「ふ、ふーん‥‥ねぇ、里佳子、我が社一イケメンで有名な高木たかぎさんからアプローチ受けてるよね?そっちはどうなの?」

アプローチ?それはないと思います。
要領よく立ち回れない私をからかうために廊下でしょっちゅう引き留めるものだから、本当に迷惑しております。
そんな相手の迷惑を顧みない行為がアプローチな訳ないと思います。

そしてあの人の視線はとても恋愛感情優先のものではない。どちらかというと‥‥

「あの人は、どっちかと言うと苦手で‥‥」

「そ、そうなんだ‥‥里佳子がちっとも靡かないって聞いたけど、成る程‥‥里佳子の好みって‥‥変わってるのね‥‥」

「え?そうなのかなぁ?」

皆が高木さんみたいな人に惹かれるなら、私のライバルは少ないと思っていいのかな?

「間違いなく、今あの熊さん狙っているのは里佳子だけだと思うよ」

力強く言われてホッとした。
ライバル少なくて良かったです‥‥!!


☆☆☆


乾課長は、女性雑誌担当の編集長で、熊さんと呼ばれて親しまれている。

仕入れた情報によると、32歳。彼女なし。
とても大柄な方で、ラグビー部だったらしい。
私は3か月前に高校を卒業したばかりだから、まだ18歳。
乾課長からしたら、「ひよっこ」も良いところだろう。
女として見られていないと確信している。


経理の私と乾課長では、殆ど接点がない。
私が熊さんの事を知るきっかけになったのは、新入社員歓迎の飲み会で。
私が熊さんの事を好きになるきっかけになったのは、更にそれから一ヶ月後の事だ。


入社して1週間後に行われた新入社員歓迎会は、支店に勤める全社員が集まり、それなりの広さの飲み屋の2階を借り切っていた。

しかし私は、高校時代の電車通学で嫌という程痴漢に合い、それから男性不信気味だった。
中堅企業の出版会社に就職が決まり、いざ独り暮らし用の住まいを探した時、私が一番の条件に出したのが、会社から徒歩で通える事。
続いて、セキュリティがしっかりしている事だった。
それを条件にする位には、男性不信は続いていた。

そんな私は男性に囲まれ緊張してどうしようもなくて、しかし失礼のない様、勧められるがままに飲んでいた。
そしてトイレに行こうと席を立とうとした時、初めて自分が飲み過ぎた事に気付いた。


そりゃあそうだと思う。
まだ未成年で、酒の加減なんてわからないから。
何とかトイレの前にたどり着いた時、のそ、と言う感じで目の前を何に覆われ、影が出来た。

「おい、お前新入社員か?大丈夫か??エラく具合悪そうだが‥‥」

見上げるのも辛くて、どうしたらいいのかわからなくて、吐き気も込み上げてきて、男性から声をかけられた事自体が怖くて、私は何も言わずにその場でしゃがみ込み、ポロポロ泣き出してしまった。

焦った声が、すぐ上から降ってくる。

「ん?お前もしかして、高卒組か!?誰が飲ませたんだ!!!いや、それより‥‥直ぐに女を連れて来るから、ちょっと待ってろ!!」

おい、そこのお前!
と、声を掛けてくれた誰か・・はそのまま声を張りあげる。
他の社員を捕まえるのが意識の隅の方でわかった。

その誰か・・は、ずっと背中をさすりながら、声を掛けてくれていた。
悪かったな、大丈夫だからな、辛くないか
その人は男性であるのに、背中をさするその手にいやらしさを全く感じなかった。
嫌悪感が一切湧かなかった。
むしろ、大きくてあったかいその手からは気遣いや心配が伝わってくる様で、胸に安心感が満ち溢れたのだ。


その後、私は直ぐに駆けつけてくれた同じ新入社員‥‥文さんに介抱され、何とか無事に飲み屋を後にする事が出来たが、最後までその人の顔を見る事はなかった。


☆☆☆


調子を取り戻した私が文さんに謝罪後まず聞いたのは、私が顔を見る事のなかった男性の事だった。
文さんは「あぁ、乾課長の事ね」と気軽に答えてくれて、しかしそろそろ担当雑誌が忙しくなる頃だから、殺気立ってるかも、とも教えてくれた。


私が編集部を軽く覗いてみると、そこは戦場一歩手前で、一触即発的な雰囲気。
早々に御礼を言う事を諦め、回れ右をした時、誰かにドスンとぶつかった。


「おい、相模原!この構成だとー‥‥おっと悪い、見えなかった」


鼻を抑えて目を開けると、そこには人の腹部があった。

‥‥腹部?

私の身長は、あまり言いたくはないが150センチ未満だ。
中高と殆ど伸びなかったから、きっとこれからが私の成長期なのだと思う。

しかし、今まで人にぶつかっても、目の前に腹部、と言う状態は未経験だった。

つつつ、と視線を上へ上へとあげて行くと‥‥

「ん?お前、この前新歓(新入社員歓迎会)で潰れてた子リスか?あんときゃ大丈夫だったか?」

目の前で、毛むくじゃらの大男が、そう言った。


☆☆☆


その場で立ちくらみを起こした私をひょい、と抱え上げて颯爽と医務室に連れて行ったその大男は、医務室の内線で経理課に連絡すると、「すまん、忙しくては傍にはいられないが、今人を呼んだから!」と私に告げてまた颯爽と去って行った。

目を見開き固まったままだった私に、御礼を言う暇なぞありはしなかった。

因みに、毛むくじゃらの大男がしたのはお姫様抱っこではなく、まさにお母さんが片手で子供を抱っこするような形である。
その容貌に驚き、男性である事に恐怖をしたものの、新入社員歓迎会の時と同じく一切嫌悪感は湧かなかった。


誰に聞かずとも、あの熊の様な方が乾課長だろうな、と思った。


☆☆☆


乾課長は、担当雑誌が忙しくなる時期になると、殆ど家に帰らず、会社に泊まり込むのが通例らしい。
また、編集長なのに対外的な仕事は全て副編集長に任せるという珍しい仕事の振り方をする為、髭も伸び放題、髪も伸ばしっ放しが当たり前で、私が感じた通り、「熊さん」と言う愛称で呼ばれていた。

熊さんのあまりの大きさに愕然としたが、後から聞いた話だと、身長は190センチ前後あるらしい。

人望も厚く、仕事ぶりも良く、人間としての評価も高いが、女性の恋愛対象にはなりにくい‥‥それが、熊さんだった。


☆☆☆


結局、雑誌の〆切までは忙しいだろうからと編集部へは伺わず、〆切を終えた辺りで今度は経理課が多忙となり、熊さんに御礼を言えずに一ヶ月程経過しようとしていた。

私はその頃から、社内一イケメンと言われる高木さんから毎日やけに突っかかられ、困っていた。
しかも、私が廊下でちょこちょこ弄られているのを見た女性社員が「なにあの子」的な反応をするので、更に困っていた。

私からは一度も仕事以外で声を掛けた事はないのに、何故か高木さんを呼び止めたのは私と言う事になっている。
更に、営業部で忙しいだろうに、私の帰宅時間にあわせて一緒に帰ろうとした事があり、私にとっては、迷惑&恐怖の対象でしかなかった。


同期(と言っても4つ年上だが)の中で一番話が出来る文さんにも言えない事だが、私は高木さんの性的な意味合いを多分に含んだ、ねっとりした視線が物凄く苦手だった。


だから、一ヶ月程たった頃、会社から賃貸マンションへの帰り道、誰かに付けられている、と感じた時は真っ先に高木さんを疑った。
恐怖でカチカチなる歯を食いしばりながら、しかし家を知られてはいけない、と必死で頭を働かせてコンビニへ逃げ込んだ。
コンビニの中から外の様子を伺っていると、声が掛かった。

「あれ?子リス?」

私は最初、自分の事だと思わず、必死で外を睨みつけていた。

「おーい、子リス‥‥神山かみやまだっけ?どしたー?」

その、能天気そうな声に、どっと肩の力が抜ける。

「乾課長‥‥?あ、すみません」

私は安心からか、またポロポロ零れる涙を止める事が出来なかった。


☆☆☆


「しっかし、いつ見ても子リス‥‥お前、泣いてるなー」

ガハハ、と笑いながら乾課長は目の前のお好み焼きをひっくり返す。

結局、コンビニからいくら外を見ても怪しい人影はなく、それでも怖がった私の事情を察して、熊さんが夕飯に誘ってくれたのだ。

「うう‥‥毎回ご迷惑お掛けしてすみません。あの‥‥子リスって、何ですか?」

乾課長から、やけに子リスって単語が出てくる事が気になる。

「あれま、お前知らないのかー!神山、その小っさい姿形とキョトキョトした感じと、まん丸大っきなお目めってんで、通称子リスって言われてんだぞー」

大人気だぞー、と続けてくれたが、私は身長というコンプレックスの話題になり、軽く凹んだ。

「なんでかなー、うちの会社の奴らは動物に例えたがるんだよなー」

俺は熊だし?と、ニカっと笑って言う。
その笑顔を見ると、凹んでも仕方のない事の様な気がして、気分は直ぐに右肩上がりになった。

「乾課長は、何故あのコンビニにいらっしゃったのですか?」

何の関連性もない話題を、私は投げる。

「ん?最近引っ越ししてさぁ、俺んち、あの辺なんだよねー」

私はたわいないこうした会話を熊さんと出来る事に嬉しくなった。
その後の会話で、熊さんは先日まで実家から二時間以上かけて会社に通っていたが、ついに追い出された事。
その通勤時間の長さから、担当雑誌の〆切が迫ると、家になかなか帰れない事。
どうせ引っ越しするなら、徒歩圏内にしてしまって、どんなに遅くなっても問題ない場所にしようとした事、等を聞き出した。

男性と緊張もなく話すのは久しぶりだった。
それは、熊さんが私を「妹」の様に扱い、全く性的な目で見ないからだと気付いた時。

私は、ツキリ、と胸が痛んだのを感じた。


男性不信気味だったからと言っても、恋心位は抱いた事がある。
だから、私が熊さんを男性として好意を抱いている事には、直ぐに気付いた。

とはいえ、私は誰ともお付き合いをした事がなく、また告白をした事も皆無だった。
だから、距離の詰め方もわからない。
それから2ヶ月間、ご近所さんのよしみでしばしば夕飯に誘って貰える事をこの上なく幸せに感じるだけに、とどまった。


☆☆☆


「なぁるほどねー、知らなかったよー。子リスと熊さんの組み合わせなんて面白‥‥お似合いかもね!応援してるわー」
私が高木さんの事だけオブラートに包んで熊さんへの気持ちを文さんに伝えると、彼女はニッコリ笑って言ってくれた。

「けどさ、その、後を付けてきた男?は結局何だったの?」
「お恥ずかしい話ですが、気のせいだったみたいで‥‥」

熊さんと初めて食事をした日以外、誰かの気配に怯える日はなかった。
それも、事情を聞いた熊さんが「一人で帰るの怖けりゃ、極力夕飯誘ってやるから、一緒に帰るぞ!」と気を遣ってくださったお陰である。

てっきりリップサービスかと思っていたら、今日みたいに担当雑誌が忙しい時期以外、本当に私を誘ってくれる様になった。

「じゃ、後は熊さんにどうアタックするかだね!!」

文さんは酔いに任せて、その後の計画を練り上げた。
素面の私には、ついて行けない話だった。

そして残念ながら、結局落ちた唐揚げは拾われる事なく、二人きりの食事会はお開きになった。


☆☆☆


22時。熊さんは、まだ仕事中だろうか?
いつかのコンビニを通り抜けて、スマホをチラチラと見る。
やっと最近、熊さんと無料通話アプリを使って、やり取りを出来る仲になった。
嬉しくて仕方が無い。
けど、あんまり意味のない会話を綴っても、忙しい熊さんには迷惑だろうと、必死で色々送りたくなる気持ちを我慢していた。
アプリを開いて、通話記録を眺める。
熊さんからの食事のお誘いと、それに対する私の返事。
何度見ても色気もなく変わり映えしないその画面を、ニヤニヤとしながら見ていた。


ーー急に腕を引かれ、狭い路地裏に連れ込まれるまで。


☆☆☆


「あのっ!神山がこちらにお世話になっているそうなんですが!!!」

署内に、熊さんの声が響き渡った。

簡易椅子に座り、毛布をかぶって包まっていた私は、直ぐに顔をあげて、その姿を探す。

‥‥何時もの能天気そうな表情を一切消した熊さんが、こちらに向かって走って来るのが見えた。

安心感が胸に広がり、ほにゃり、と笑う。

「‥‥子リス!!大丈夫だったか!?」

熊さんは私を抱き締め様として、躊躇した。
私は自分から熊さんに抱きつき、謝った。

「‥‥お忙しいところ、呼び立ててしまって、すみません‥‥他に、頼れる人が、思い浮かばなくて‥‥」
「そんなのいいから。すまん、ちょっと待ってろ」
警察の方に促されて、熊さんは何らかの書面にサインをした。

「立てるか?ひとまず、家まで送る。タクシー呼ぼう」
お世話になった警察に御礼を言い、そのまま熊さんと一緒に帰宅した。

「あの、まだお仕事中ですよね?もう本当に、大丈夫ですから。どうか、会社に戻って下さい」
私がマンションの下で言うと、部屋な中に入るまで心配だから、と部屋の前まで送ってくれた。
部屋の前で同じ言葉を繰り返すと、逡巡した後。

「‥‥子リス、俺はお前じゃないから、本当はどうして欲しいかわからない。このまま帰って欲しいならそうするし、帰って欲しくないならそうする。仕事の事なら心配するな、俺より優秀な副編集長に頼んでおいたから」

最後はウインクでもしそうな程茶目っ気たっぷりに言われ、やっと私の凍っていた心が溶けて行くのを感じた。

「‥‥すみません、乾課長。どうか、一緒に、いて、下さい‥‥」

またポロポロ泣いてしまったが、今度はいつ見ても泣いてる、とは言わずに大っきな手で優しく背中を撫で続けてくれた。


☆☆☆


私が暴漢に襲われた時。
たまたま、本当にたまたま運良く、巡回中のお巡りさんが通った。
お巡りさんの懐中電灯が路地裏を照らした時、私の服を力尽くで破こうとする男と、必死で抵抗して殴られ、顔を腫らした私がいた。

男はそのまま逃げて行き、私の身体は守られた。
精神こころは、まだわからない。
もともと、男性不信気味だったのが、これで更に加速度的に酷くなる可能性があった。


「‥‥今日、一緒にいれなくて、本当にすまん‥‥」

熊さんは、私に謝罪をする。
全く必要のない謝罪。
だって、あの時間まで外にいたのは自分だ。
〆切に追われている熊さんが、一緒にいられないのは当然だ。
更に言うなれば、恋人でもない私に、そんな謝罪をするのはおかしい。

何時でも闊達な熊さんに、そんな沈痛そうな表情は似合わない。

「乾課長が、謝る事ではありません。私こそ、ご迷惑をお掛けして‥‥」
「こんなのは迷惑でも何でもない!」
「‥‥」
「俺でよければ、いくらでも相談にのるから‥‥」
「なら‥‥乾課長、ひとつだけお願いがあります」
「何だ?」

熊さんの瞳に浮かぶのは、心からの同情、焦燥、そして、何でもしてやるぞ、という決意だ。

「私、今回の事で、更に男性不信が酷くなりそうです。‥‥だから。どうか、私が唯一平気で安心出来る乾課長に、恋人になって欲しいです」


まさか私の告白がくるとは思わなかっただろう熊さんは、口をパカッと開いたまま、しばらく動かなかった。


‥‥本日二回目ですね、この図。


☆☆☆


我に返った熊さんとの話し合いは続く。
「まてまてまて神山。自暴自棄になるな」
「なってません。そもそも、乱暴される前だったので、自暴自棄になる必要もありません」
「いやいや、そーじゃなくてだな」
「私は、乾課長が好きです。相談にのって下さるなら、恋人として相談にのって欲しいです」
「や、うーん‥‥え?え!?俺?俺が好きだったんか!?」
「はい」
「えええっっ!?!?いや、俺はお前を妹とか従姉妹みたいに‥‥あ、いや、すまん、えーっと‥‥」
「知っています。乾課長が、私を女として見ていなかったから、好きになれたので」
「は?え?んーと、もし女として見ていたら?」
「恐らく、嫌悪感しか沸かなかったと思います」
「へ、へぇ‥‥何だか複雑だな‥‥」
「駄目でしょうか?」
「いや、駄目というより‥‥俺、こんな風体だから、誰かから怖がられる事はあっても、好かれる事想定していなくてだなぁ‥‥」
「では、今から想定して下さい」
「うーん‥‥俺は、神山が男に慣れるまで恋人役をすれば良いのか?」
「‥‥?恋人になったら、離れる予定はありませんが」
「うーん?俺は、お前を女として見ない方がいいんだよな?つまり‥‥セックス無しだよな?」
「えっ!?無しなんですか!?」
「えっ!?有りなのか!?だってお前‥‥」
「きっかけは乾課長の目が厭らしくない事ですが、別に付き合っている恋人としない、なんて思っていません」
「そ、そうなのか‥‥しかし、うーん‥‥」
「何か問題ありますか?」
「お前‥‥初めて、か?」
「‥‥は、はい‥‥処女、です‥‥」
「そっかー‥‥そうだよなー」
「あの、面倒とか‥‥」
「そうじゃないっ!そうじゃなくて‥‥すまん、俺‥‥女と付き合った事はあるんだが、最後までその相手とはした事がなくて‥‥」
「‥‥(つまり童貞‥‥)」
「そうじゃない、童貞じゃない!つまり‥‥その‥‥なんて言うか、素人童貞ってやってだ」


しろーとどーてー???それ、何でしょう??

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