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なべ爺、いく。

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「旅はわけーうちにしとくもんだ」

江戸っ子遊び人を自称するお向かいのなべ爺は、父さんのところに将棋をうちに来ては「なあ、わかるか、ぼうず」と、ぼくの頭をくしゅとする。

「なべさん、小学生の洟垂れ小僧ににそんなこと言ったって、まだわかりゃしないよ」
その都度、父さんはなべ爺を制したけれども、竹の節を組み合わせたような手足のなべ爺には暖簾のれんに腕押し、父さんの忠告は、風の歌ほどにも受け止めない。

「いいか、わけーうちはさ、なんてゆーか、こう、見えたもんがな、ガバッと体の中に入ってくるんだ。
すると魂がびっくりする。
ああ、こんな世界があっんだってな。
すると開眼するわけさ、魂が。
カイガン、わかるか?
わからねーか。
しかたねえ。
そのうち、わかるさ。
時期がくればな。
そんなことができるのは、わけーうちしかないんだ。
わからなくても、わかれや、ぼうず。

大人になると、斜にかまえちまうからいけねえ。
斜にかまえるとな(と言って右腕を、ヤクザが仁義じんぎを切るみたいに着物から肩から突き出して)受け止めなきゃあならない大事なものが、斜にかまえた肩をするりと抜けて逃げていくんだ。
斜にかまえちゃいけねえ。正面から受け止めろぉ」

ぼくにはなべ爺の言ってることが半分もわからなかった。
それでも、なんだかかっこよかった。
父さんとは違ったあたたかさの塊に包まれている感じがした。
わからなくても、なべ爺の話を聞くたびに胸をときめかせていた。
本を読むのも好きだったけど、まるで演劇観てるみたいで好きだった。

父さんはなべ爺が帰ると「話半分な」と浮きだつぼくの熱を冷まそうとしたけれど、耳で聞いて、心で受け流した。
そして将棋を打ちにくるなべ爺を待った。

なべ爺の話は毎回違っていた。
たいがい、年寄りの話って回りくどくて繰り返されることが多いけど、なべ爺の話は毎回違って、どれもぼくの鼻息を荒くする。
お約束は、頭をくしゅとしすることだけだ。
そして「わかるか、ぼうず」で話がはじまる。

ぼくはまたあの時みたいに、頭をくしゅとして「わかるか、ぼうず」と言ってもらいたい。
次はどんな話をしてくれるの?


そのなべ爺、長い旅に出たんだよ、と父さん、言った。
今朝がたのことだったらしい。

え?
それって?
どういうこと?
いくらぼくでも、その意味わかるよ。
死んだってこと?
ぼくの胸に詰まっていた期待やらわくわく感やらが、瞬時に消え失せた。


「いや、久しぶりに地方巡業が入ったんだってさ。
あの年で自称だけど、現役役者だから」

ふう。
ぼくは安堵のため息で、腰を落とした。

たしかに、くたばるには早すぎる。
あれだけ元気なんだもの。
あれだけぼくをわくわくさせてくれるんだもの。
ぼくが旅に出る前にあっちに逝かれちゃ、ぼくが困る。

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