上 下
2 / 14

前だけ向かずに周りも見る

しおりを挟む
『元気でよろしい!!』

 桁外れに大きな声で言われたからあたしの腕の中にいた夕凪ゆうなは余計に泣き出してしまった。

 赤ちゃんは、その小さな身体で凄まじい勢いで泣く。
 自分の生命力をそこにすべて注いで自身の存在を訴えかけるような泣き方だ。
 夕凪ゆうなが生まれる前、病院で勧められて、区役所で行われている育児教室に行った。
 あまり気乗りしなかったが育児なんて分からないことだらけだし……とりあえず行ってみようと思った。
 会場は夫婦が多かった。
 あたしは大きなお腹を抱えながら一人で参加した。
 本当に不安だった。
 場違いな場所に来たような感覚だった。

 周りは大きなお腹を抱えた女性が多く、場違いではないはずなのに……。

 唯一違うのは、横に寄り添う夫という存在がいないということだった。でもそれだって一人で来ている女性も少なくなかった。
 こんなところにいるはずのない子供がここにいるという視線が痛かった。
 
 もしかしたらそんなことは誰も思っていなかったのかもしれない。
 どこかに後ろめたさがあるから、本来はないはずの悪意を感じてしまったのかもしれない。

 だから……違和感……。

 ただ……

 確かに、心細かったし、視線も痛かったけど、参加して良かったと思う。
 この子を産むと決めたのはあたし自身だ。どんな違和感だろうが冷たい視線だろうが、それは甘んじて受けると決意してそこにいるということを自覚させられた。

 それに助産師さんたちはみんな優しかった。
 あたしと生まれてくる命にだけ目を向けてくれており、その理由には目もくれていないような優しい対応がとてもありがたかった。
 育児をする心構えとかをここで学べたような気がする。
 不安なことがあればいつでも連絡するように言ってくれて、今まで世の中に味方がいないように感じていたあたしに救世主が現れたように思ったのを覚えている。

 その時に助産師さんはあたしに言った。

『生まれたばかりの赤ちゃんは本当によく泣くからストレスをためすぎないようにね。どうしても泣き止まない時は安全な場所にそっと赤ちゃんをおいて一息つくといいわよ』

 夕凪ゆうなは本当によく泣く。
 夕凪ゆうなの泣き声を聞くと、自分がつらい思いしてでもこの子を産んでよかったと思う。
 こうやって全身をつかって自分の存在をアピールしているのだ。

 そこで……確かに生きているのだから。

 今のところ夕凪ゆうなが泣くことに関してはストレスはあまり感じない。
 そんなあたしでも、バスの中で泣かれるのは非常に困る。
 赤ちゃんの声を嫌がる人もいるだろうし……

 それでなくてもあたしは特別な環境で子供を育てているのだから周りの視線が痛いのだ。

 大きな声で声をかけてきたのは、あたしが住んでいるアパートの隣の家の初老のおじさんだった。
 毎朝、何をやっているのか知らないが大きな声で気合を入れている声がアパートにまで響く。
 怖そうなおじさんなのでなるべく顔を合わさないようにしている。
 だけど実はこのおじさん。
 あたしが住んでいるアパートの大家なのだ。
 だからいつも避けていくわけにはいかない。

 最初に挨拶に行ったときは、若くて優しそうな女の人が対応してくれた。
 赤ちゃんを抱いて若い女性が両親と挨拶に来る……。
 これはもう見るからに『ワケアリ』だろう。
 にもかかわらず、このお姉さんはそんなこと一切顔には出さなかった。
 心の中でどう思っているかは分からないけど。

 出産するまでの間。
 あたしは実家にいて、あまり外にはいかないようにはしていたが、産婦人科に行く時だけは仕方ない。
 母親は一緒に来てくれたが、病院の待ち受けで、大きくなったお腹を見たほかの患者さんたちの視線が痛かった。

『ホントに大丈夫なの?』
 医師や看護師からも何度も同じことを聞かれた。
 その言葉の裏にある悪意はあたしの胸に突き刺さった。

 本来なら味方になってくれそうな大人たちまであたしと生まれてくる子供を攻撃してきている感じがした。この世の中は間違いを犯したものに対して、徹底的に冷たい。

 ここに至るまで、あたしはそれを嫌というほど感じていた。
 だから、バスの中で大きな声で話しかけてきた大家のおじさんに対してもあたしは不安しか感じなかった。
 あたしに対する攻撃はいくらしてくれても構わない。
 でも夕凪ゆうなは関係ない。この子を傷つけることはやめてほしい。

『男の子かな? 女の子かな?』

 おじさんは夕凪の顔を覗き込んで言った。
 思いのほか優しい口調にあたしは驚きを隠せなかった。
 おじさんに話しかけられたことでパニックになっておじさんの話す内容にまで頭が回らなかったのだ。
 あたしは『お……女の子……です』とビクビクしながらおじさんを見ながら言った。

『そうかそうか! 赤ちゃんは元気に泣いてるのが一番だな』
『あ……はい……。あ、ありがとう……ございます……』

 あたしは下を向きながら言った。
 おじさんの顔はまともに見れなかったが、声が大きいだけで悪意は全く感じない。
 顔は怖いがいい人なのかもしれない。

『お父さん。そんな大声あげたら余計泣いちゃうじゃない』

 おじさんの背後には若い女性がいた。
 アパートに引っ越してきた時に挨拶に行った時にいたあのお姉さんだ。

『あら? あなた。うちのアパートの……』
浦野春海うらのはるみです』

 つい緊張してフルネームで名乗ってしまった。
 ここのところフルネームで名乗ることが多いような気がする。
 学校に通っていた頃はこんなことはなかった。
『別にフルネームで名乗ることもなかったな……』と心の中の冷静なあたしがつぶやく。

『今からお仕事かしら? 何か困ったことがあったらなんでも言ってちょうだいね』

 お姉さんは両親と挨拶に行ったときと同じように優しかった。
 あたしは区役所の育児教室に出かけた時に助産師さんたちと話した時と同じような暖かいものを感じた。

 大家さんたちは次の停留所で降りて行った。
 いつの間にか夕凪ゆうなは泣きやんで静かに寝息を立てていた。
 静けさを取り戻したバスはあたしを職場に連れて行ってくれた。
 おかげであたしは無事に出勤することができた。

 さあ、今日もがんばろう。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

就職面接の感ドコロ!?

フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。 学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。 その業務ストレスのせいだろうか。 ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

思い出を売った女

志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。 それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。 浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。 浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。 全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。 ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。 あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。 R15は保険です 他サイトでも公開しています 表紙は写真ACより引用しました

処理中です...