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プロローグ
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ブラッディ・クイーン
その日はむし暑かった。午後から天気は下り坂という予報で、湿度が高い。
五月の連休が終わった平日の昼過ぎだが、銀座あたりは、人の波でごった返していた。何の用で、こんなに多くの人が出歩いているのだろう。玲奈はみゆき通りで人待ちをしながら思った。
連休出勤したお陰で、今日は何とか休みを取る事ができた。それにしても、待ち合わせ相手は何をしているのか。 約束の時間から、既に十五分が経っていた。
今日は大事な用があるから、わざわざ勤務時間を割いて、休みを取ったというのに。時間は玲奈にとっては大切なものだった。場合によっては金より貴重だ。
それに今日は、朝から何となく妙に胸騒ぎを覚えていた。別に根拠はないのだが、不吉な予感がしてならない。段々、不機嫌になって来るのを自覚する。
場合によっては、とっちめてやる。そう玲奈が決心した時に、待合せの相手が現れた。
「遅い!」
いきなり玲奈が怒りを露わにした。
「何してたの、遅刻だぞ史朗」
「申しわけない。衣装合わせの前に、宝石店に寄っててね。こないだオーダーしてた指輪ができてるって連絡があったんだ。すぐ店を出るつもりだったんだけど、ごめんね」
史朗と呼ばれた、若い男は平謝りに謝った。
「指輪が、もうできてたの?」
つい史朗の話につり込まれる。
「見せて!」
玲奈は、ケースから出した、プラチナの指輪を左の薬指にはめた。
「ピッタリ、素敵!」
指輪がよく見えるように、光に当てて眺める。うっとりとした顔をしていた。先程までの不機嫌は、どこかへ消えてしまったらしい。
「さあ、お嬢さま、お店に行きましょうか」
史朗が左腕を差し出すと、玲奈は、嬉しそうに腕を組んだ。
ふたりは、銀座の一角にある、ドレスショップへ向かう。その店に、玲奈のウェディングドレスをオーダーメイドで依頼していた。
今日は、その試着の目的でやって来たのだ。店員のにこやかな笑顔に迎えられ、奥のウェイティングルームに通された。
「お色直しの衣装は、レンタルでもいいわよね」
出されたお茶を飲み、玲奈はドレスのカタログに見入っている。史朗は、その玲奈の姿を眺めていた。
「ねえ、これなんか、どうかな?」
「え?ドレスは、オーダーしてるんだろ」
「式と、披露宴の最初は、オーダーの白よ。でも、お色直しも必要でしょ?それは、このカラフルなのが良いと思うの」
「そ、そうなの」
「それに写真撮る時も、色々着た方が豪華になるじゃない?」
玲奈は、ドレス選びに夢中になっている。
「こっちも良いわね」
と史朗に見せる。
「うん、確かに良いけど、一度にふたつは着れないだろ?」
「何、言ってるの、こっちは、二回目のお色直し用よ」
史朗は呆れたように言った。
「まるで着せ替えじゃないか」
玲奈は、顔をあげて、言い聞かせるように口を開いた。
「あのね、披露宴というのは、新婦がウェディングドレス姿をご披露する場なの。お客様は、それを見ながら、宴を催すのよ。だから、披露宴。知ってた?」
「じゃあ新郎は、どうなの?」
「新婦の刺身のツマよ。貴方は、タキシードを着て、座ってたら良いの。貴方が披露するのは私にだけ。それに、貴方は何回もお色直しなんて面倒くさいでしょ」
玲奈に都合の良い、勝手な理屈にも思えたが、ウェディングドレスを着る事は、女性にとって一生に一度の晴れ舞台だ。玲奈が嬉しそうならまあ良いか。史朗は納得する事にした。
「お待たせ致しました。こちらへどうぞ」
通されたのは、プラベートルームで、出来あがったドレスを試着する場だ。
着替え室で、ドレスに着替えた、玲奈が出て来た。セットした頭髪にティアラを乗せ、ネックレスやイヤリング等を付けると、どこかの国の王女のようだった。白のドレスが彼女によく似あった。
婚約者の史朗は、思わず絶句した。目を丸くして見つめている。
「どう?」
玲奈の、にこやかな笑顔が、天使のように輝いて見えた。
あまりの美しさに史朗が沈黙していると、玲奈に戸惑いの表情が浮かんだ。
「似合わないの?」
「いや、玲奈があまりに綺麗で、言葉が出なかった。とっても素晴らしいね」
婚約者の言葉に、玲奈が破顔した。
「よし、旦那様の検閲はOKね」
史朗が近づいて、玲奈の手を取る。
「素敵だよ、玲奈。今日の君は本当に美しい」
「いつもは、そうじゃないみたいじゃないの」
憎まれ口を利くが、その顔は嬉しそうだ。
従業員も溜息を付くと、
「とてもお美しゅうございますわ」
と言うが、あながち世辞ばかりとも思えなかった。
確かに玲奈は、伸びやかな上背と長い脚に、柔らかな身体のラインが、女性らしく美しいバランスを保っていた。
しかも、彼女は整った顔立ちの、絶世と言って良い美人であり、肌の色も白く張りがあって、こんなにドレスが似合う女性も珍しかった。玲奈をカタログのモデルにすれば、さぞかし人目を惹く事だろう。
玲奈は、ドレスの試着を終えた後、ドレスショップの従業員と、お色直し用のドレスに付いて、レンタルの打ち合わせを始めた。
史朗が、ウェデング姿のモデルの写真の数々に見とれていると、業を煮やした玲奈が呼びつける。
「もう、貴方の意見も訊きたいの、他の女性の写真なんかいいから、こっち来て」
担当の女性従業員も、苦笑している。
「はい、はい」
史朗は素直にテーブルにやって来ると、玲奈のドレス選びに付き合った。
「じゃあ、そういう事で、お願いしますね」
打ち合わせが済んだのは、三時間後の事だった。もう夕刻近い。
ドレスショップを出たふたりは、手を繋いで銀座の街をぶらぶらと歩いて行った。
「パーラーでも寄ってみようか」
史朗が提案した時、突然街中にジェイアラートの音が響いた。
「ミサイルが発射されました。着弾まで時間がありません。すぐ避難して下さい」
何が起こったのか、とっさには理解できなかった。アラートが繰り返される。
我に返ったふたりは、避難場所を探した。近くにある地下鉄駅には人が殺到していて、とても数分のうちに逃げ込めるとは思えない。
玲奈と、史朗はあたりを見回した。とにかく、爆風の直撃は避けなければならない。しかし、多くの人々が一斉に逃げ場を求めて右往左往する中で、避難場所を見つけても、限られた時間でそこへたどり着く事さえ困難だ。
玲奈は、近くのビルとビルの間の狭い路地に、地下店舗への階段があるのを見つけた。史朗の手を取るとそこへ向かおうとする。
「史朗、こっち!」
しかし、人々の身体が障壁となって、そこへなかなかたどり着けない。何とか人ごみをかき分け、路地にたどり着いた、と思った瞬間に衝撃波がやって来た。
史朗は、玲奈に覆い被さるようにして、地下階段へ飛び込む。階段を滑るように落下した。
史朗が、玲奈の頭を抱え、背中に手を回し、彼女がダメージをなるべく受けないようにする。
入口からは、強烈な爆風がコンクリート片や、金属片や、ガラス片と一緒に吹き込んで来る。
轟音と共に、あたりは揺さぶられ、屋外では、上から瓦礫が雨のように降っている。地下階段にも粉塵が舞い、バラバラと壁の一部が剥落して来る。粉塵であたりは真暗だ。
衝撃は、数分の間続いた。玲奈は、意識せずに悲鳴をあげ続けていた。上に載った、史朗が必死に玲奈を抱きしめている。
玲奈は、少しの間、意識が飛んでいたようだった。はたと気づくと、爆発は収まったらしかった。
「史朗、爆発は収まったんじゃない?」
史朗は、呻き声をあげて、身体をどかそうとしたが、動けないようだ。
「どうしたの?」
玲奈は史朗を動かそうとして、背中と腰に痛みが走った。
「痛っ」
見ると手が血で汚れている。はっとして、史朗をよく見ると彼は血だらけだった。
何とか身体をずらして、彼の下から這い出す事ができた。
史朗の背中には、ガラス片や、金属片などが無数に突き刺さっている。そこから、ドクドクと出血していた。
「史朗!」
玲奈は叫んでいた。どこをどうやったのか、気が付くと史朗を背負って、地上に出ていた。
あたりの景色は一変していた。建物は崩れ落ち、道路には大小の構造物の断片や、無数のガラス片が散乱していた。空は、煙で黒く覆われ、周囲は薄暗かった。
クルマは破壊され、落ちて来たコンクリート片で潰されている。人々が無数と言って良いほどあちこちに倒れていた。立ってさまよう人たちも、血まみれだ。
遠くでサイレンの音が聞こえるが、これだけの人々を救助する事は不可能であろう。
道路端に、キーを付けたままのバイクが放置されていた。持ち主を探すが、見つからない。緊急の際だから、それを拝借する事とした。後部座席に史朗を乗せ、道に落ちていたケーブルで、自分の身体と結びつける。
玲奈は、セルスターターを回し、エンジンを掛けると、ロードタイプのバイクを駆った。自分の勤務する東都大学病院まで一直線に走らせる。
首都高速道路は、クルマ同士があちこちでクラッシュしていたが、下の道路よりは走りやすい。
インターで高速を降り、病院に向かうが、周囲の景色は悲惨のひと言だった。街のすべてが崩壊し、人々の屍体が散乱している。とても東京都内とは思えない。
ジェイアラートと言うからには、国外からの弾道ミサイルか何かが着弾したのであろうが、この被害の規模から考えて、着弾した数は数十発以上にのぼるであろう。
数十分走って、バイクを大学病院の救急搬入口に付ける。史朗を引きずり下ろすと、病院内に担いで入って行った。
「先生!ご無事でしたか?」
看護師のひとりが声をかけてきた。
「そんな事より、早くストレッチャーを用意して!」
看護師が持って来たストレチャーに彼をうつぶせに寝かせる。
「すぐ、処置室に運んで」
「先生、今、処置室は一杯で、新しい患者さんを入れる余裕がありません」
「ええっ!?」
驚いた、玲奈が処置室を覗くと、床にまで患者が横たわり、まるで野戦病院の如き有り様だった。検査すら儘ならない。
玲奈は白衣に着替え、手を消毒しようとした。その時初めて、鏡で自分の右頬に大きな傷がある事に気付いた。消毒だけして、バンソウコウを貼る。医療器具を持って、史朗の元へ戻った。
場所は救急待合所しかないが、そんな事も言ってはいられない。
史朗は、大量の失血でショック状態だった。早く止血しなければ命に係わる。だが、身体に深く突き刺さった破片が無数にあり、オペをするにしても一体どこから手を付けて良いのか、見当もつかない状態だ。みるみる止血綿が血に染まってゆく。
すぐに、輸血を指示し、点滴の準備をする。だが、大量の負傷者のため、血液が不足していて、満足に輸血すらできない。
「血液バンクでも足りなくて、とても必要量はすぐには回せないとの事です」
看護師が悲痛な声で言った。
「じゃあ、とりあえず輸液を」
玲奈の声は沈んでいた。このままでは、どうなるのか、彼女が一番良くわかっていた。
「玲奈」
史朗の意識が戻ったようだ。玲奈は、史朗の傍に駆け寄る。
「ごめん、玲奈」
「何を謝るの?貴方は悪い事なんかしてないわよ」
「いや、どうやら、君との結婚の約束は果たせそうにない・・・」
「何言ってるのよ、貴方は私がちゃんと治療するから、大丈夫。気を強く持って」
玲奈は優しく話しかけた。玲奈は必死で止血作業を続けた。
「自分の身体だ、わかるよ。どうせ、血液は不足してるんだろう」
「そんな事心配しなくても大丈夫よ。近隣の自治体から、すぐ届くから」
史朗は、しきりに右手を動かそうとした。玲奈はその手を取って、握りしめる。
「大丈夫、大丈夫」
そう言い続ける、玲奈の声が涙声になる。史朗の身体から、血液と共に生命のエナジーが流れ出ていった。段々、顔色が青白くなっていく。
出血はどうしても止まらなかった。圧迫処置だけでは限界があった。出血個所が多すぎるのだ。正直手の施しようがない。
「玲奈、もういいよ、それより側にいて欲しい」
「嫌だ、貴方は私が助ける」
だが、必死の努力にも効果はなかった。無数の血管が損傷しているのだろう。
玲奈は泣きながら、処置を続けた。
「玲奈お願いだから」
その声にはっとした、玲奈は史朗の顔を見た。彼の顔には明らかに死相が現れていた。
玲奈は、史朗の手を取って顔を近づけた。
「最期にキスしてくれないか」
史朗が囁いた。玲奈はキスをした。にっこりと笑って、彼は息を引き取った。
玲奈は、史朗の手を握っていたが、すぐに、救命措置を行った。心臓マッサージをし、人工呼吸をする。電気ショックまで試みた。しかし、彼は蘇生しなかった。
十数分間玲奈はその処置を続けていたが、
「先生、もう可哀想です」
との言葉に、看護師を見た。
史朗の死亡確認を何度も行った。瞳孔の拡大散定、自発呼吸の有無、心臓の停止、彼は医学的に死亡していた。玲奈は嫌々その事実を認めざるを得なかった。
これは現実の出来事なのだろうか。キーンという金属音が、頭の中で鋭く響いていた。
その時、突然玲奈のケータイが鳴った。何も考えられず、機械的に取った。
相手は啓明大学病院と名乗った。重傷を負って、病院に担ぎ込まれた、若い男性の死亡が確認された。連絡先に貴女のケータイが記載されていたが、身内の方でしょうか、という内容だった。
最初、相手の言っている意味がよくわからなかった。もう一度訊きなおす。草太、死亡という単語が理解できた。玲奈はそれは私の弟です、と答えた。玲奈は、婚約者と共に弟も亡くしたのだった。
玲奈はケータイを切り、史朗の遺体から離れ、駈け出して病院の外へ出た。悪い予感は当たった。人生最悪の日となったのだ。胸が疼いて、涙が止まらなかった、
煤煙の中に、雲の間から、夕陽が紅く覗いていた。玲奈は涙に濡れた眼で、その夕陽を放心したように眺めていた。
*
その若い検察官は、公判から帰って来た。本日、明らかとなった証言に基づき、証拠書類の資料を集める。
今担当している事件は、殺人事件で、直接証拠がほとんどなく、間接証拠に頼らざるを得ないものだった。
証人の目撃情報や、監視カメラからの情報が重要となる。警察の鑑識からの報告にも目を通す。
これらの情報を整理すると、物的証拠はなくても、この事件を起こせるのは、被疑者しかいない、という結論を導けそうだ。
検察官は、過去の事件で扱った資料が役立つのではないかと思い付き、地下の倉庫へ向かった。確か十年くらい前の資料だったはずだ。
地下倉庫の中で資料探しに熱中していた、彼の耳にジェイアラートの音が響いて来た。
最初は気にも留めなかったが、何度も繰り返される警報に、注意を喚起された。
「?」
顔をあげて、天井を見た。次の瞬間、轟音と共に倉庫がグラグラと揺れた。
天井のパネルが落ちて来る。上の階から、何かが、壊れる凄まじい音が響いた。床と壁の揺れが激しくなり、建物が崩れるような振動と物音が伝わる。天井からは、粉塵が煙のように厚く舞い散り、地下室も薄暗くなった。揺れで危うく転びそうになる。
振動が収まったあと、その検察官が資料室の扉を開けようとしても、ドアはひん曲がって開かない。部屋の中から、鉄製のバレルを見つけ、テコの原理でドアをこじ開ける。
階段を上がって行くと、その光景に呆然となった。天井は崩れ落ち、ガラス窓は粉々になっている。壁も崩れ、職員が下敷きになっていた。
助け出そうとするが、壁が重く、ひとりでの救助は無理だ。声をかけるが返事もない。
助けを求めて、屋外に出た彼が見たのは、崩れた、検察庁のビルだった。これでは、ひとりふたり助けてもどうしようもない。
「検事さん」
受付の職員が呼びかけて来た。
大井という名の女性は、ガラスの破片を浴びて、血まみれになっていた。
「大井さん、貴女、怪我してますよ」
ハンカチを取り出すと、彼女の血を拭くが、出血が続いている。
検察官は、ネクタイを外し彼女の傷に当てた。倒れかけたビルから、ケガ人が次々と運び出される。路上にもケガ人が倒れている。
とにかく、治療をしなければ。しかし、医療品などは手元にない。近所のドラッグストアも、店内がメチャメチャで、とても薬の販売どころではなさそうだ。
その代わり店員が、奥からバンソウコウや、ガーゼや、薬品類をできるだけ持ち出し、店の前で市民に無料で配り出した。それでとりあえず、看護師の経験がある者が、ケガ人の治療にあたっている。
救急はいくら電話を掛けても繋がらない。恐らく、東京中の救急電話が集中しているのであろう。彼もまた、負傷者の治療の手伝いに必死だった。
その時、小雨がぽつぽつと降って来た。顔をあげると、雲の切れ間から、紅い夕陽が覗いていた。
ふと家族の事を思い出した。慌てて、家に電話を掛けるが、いくらコールが鳴っても出る者はいない。個人のケータイに掛けても繋がらない。彼は、突然不安を覚えた。
検察関係者に事情を話し、自宅へ帰って見る事にする。電車も、バスも停まっているので、徒歩にならざるを得ない。歩きだして三時間、まったく場所の見当が付かなかった。
本来、あるべき場所に、あるべき建物がないのだ。私鉄の線路を目印に進むしかなかった。街中の地理がまるで変っていた。
途中の街の光景は、悲惨を極めていた。瓦礫が、あたり一面散乱し、傷ついた人や、明らかに亡くなった人の身体がそこここに、散らばっている。その数は、数百か、数千か見当もつかなかった。
あらゆる建物が崩壊し、その瓦礫で道路も埋まり、うまく歩く事ができなかった。
自宅を探して、更に三時間、ようやく、その場所と思われる地点に立っていた。カーブミラーと道路と、コンビニの廃墟に何となく見覚えがあったのだ。
彼の職員住宅は、ミサイルの破片を受けたのか、メチャメチャに倒壊していた。
どこが何階かもわからない。だが、これだけはハッキリわかった。もし、ミサイル着弾の時、この中に、自分の家族がいたなら、この建物と同様の姿になっているであろう。
彼は絶望に襲われた。自分の仕事には、誇りを持ってうち込んでいた。だが、それも家族という支えがあったからだ。
家族を失わせたその力に対し、自分は何ができるのか。こんな事をする者を罰するのが、正義と言うなら、それを追求するのが自分の仕事のはずだった。だが、今の自分にできる事は何もなかった。
彼は、建物の残骸を掘り出そうとした。コンクリート片が大きすぎ、重機でもなければとても無理だ。
だが、彼は諦めなかった。どこからか、工具を拾って来ると、少しでも残骸を除去しようと格闘した。
数時間、残骸にへばり付いて、不可能と判断せざるを得なかった。重機の手配には、おそらく、早くても数日はかかるだろう。自分の無力さをつくづく思い知らされた。
あたりは既に真っ暗となり、街路灯も壊れた街に灯の光はなかった、はずだった。
若い検察官は、幽かな光を放つモノが浮かんでいる事に気付いた。それは、おそらく、建物の下敷きとなった人たちが、放つ光であったろう。
「鬼火か」
彼はポツリと言った。話には聞いた事があったが、見るのは初めてだった。
注意してよく見ると、鬼火はあたり一面に光りながら浮かんでいた。その数は、数百、数千にのぼるかもしれなかった。背筋が寒くなる、恐ろしい光景ではあった。
だが、彼にはむしろ悲哀の感が強かった。
犠牲となった人たちが何かを告げるため、鬼火という姿で現れたのではないか。あの中には、自分の家族もいるのかもしれない。
思わず手を合わせていた。
「どうか安らかに、どうか、どうか」
暗闇の街の廃墟に浮かぶ、無数の鬼火、その光景は、彼の心にある決心をさせる、大きな理由のひとつとなった。
*
その日、DPKからの弾道ミサイル攻撃は、半島の諸都市だけでなく、日本国内の、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、福岡などにも着弾した。これらの諸都市は、大きな被害を受け、死者、負傷者の数は合計数十万人にも及んだ。
その数週間以前より、半島では、DPKとTHMの偶発的な衝突をきっかけとする、報復攻撃が繰り返されていた。
THM政府は、強硬姿勢を崩さず、DPKの脅迫路線もエスカレートの一歩をたどった。
戦争にはならないであろう、との世界一般の見方を覆して、THMは三十八度線を越え、北進を開始し、迎撃のため出動したDPK軍に大規模空爆を仕掛けた。
そして、五月のある日、DPKからの報復があったのだ。それが、日本自衛軍が泥沼の戦争に引き摺り込まれる、原因となった。
その日はむし暑かった。午後から天気は下り坂という予報で、湿度が高い。
五月の連休が終わった平日の昼過ぎだが、銀座あたりは、人の波でごった返していた。何の用で、こんなに多くの人が出歩いているのだろう。玲奈はみゆき通りで人待ちをしながら思った。
連休出勤したお陰で、今日は何とか休みを取る事ができた。それにしても、待ち合わせ相手は何をしているのか。 約束の時間から、既に十五分が経っていた。
今日は大事な用があるから、わざわざ勤務時間を割いて、休みを取ったというのに。時間は玲奈にとっては大切なものだった。場合によっては金より貴重だ。
それに今日は、朝から何となく妙に胸騒ぎを覚えていた。別に根拠はないのだが、不吉な予感がしてならない。段々、不機嫌になって来るのを自覚する。
場合によっては、とっちめてやる。そう玲奈が決心した時に、待合せの相手が現れた。
「遅い!」
いきなり玲奈が怒りを露わにした。
「何してたの、遅刻だぞ史朗」
「申しわけない。衣装合わせの前に、宝石店に寄っててね。こないだオーダーしてた指輪ができてるって連絡があったんだ。すぐ店を出るつもりだったんだけど、ごめんね」
史朗と呼ばれた、若い男は平謝りに謝った。
「指輪が、もうできてたの?」
つい史朗の話につり込まれる。
「見せて!」
玲奈は、ケースから出した、プラチナの指輪を左の薬指にはめた。
「ピッタリ、素敵!」
指輪がよく見えるように、光に当てて眺める。うっとりとした顔をしていた。先程までの不機嫌は、どこかへ消えてしまったらしい。
「さあ、お嬢さま、お店に行きましょうか」
史朗が左腕を差し出すと、玲奈は、嬉しそうに腕を組んだ。
ふたりは、銀座の一角にある、ドレスショップへ向かう。その店に、玲奈のウェディングドレスをオーダーメイドで依頼していた。
今日は、その試着の目的でやって来たのだ。店員のにこやかな笑顔に迎えられ、奥のウェイティングルームに通された。
「お色直しの衣装は、レンタルでもいいわよね」
出されたお茶を飲み、玲奈はドレスのカタログに見入っている。史朗は、その玲奈の姿を眺めていた。
「ねえ、これなんか、どうかな?」
「え?ドレスは、オーダーしてるんだろ」
「式と、披露宴の最初は、オーダーの白よ。でも、お色直しも必要でしょ?それは、このカラフルなのが良いと思うの」
「そ、そうなの」
「それに写真撮る時も、色々着た方が豪華になるじゃない?」
玲奈は、ドレス選びに夢中になっている。
「こっちも良いわね」
と史朗に見せる。
「うん、確かに良いけど、一度にふたつは着れないだろ?」
「何、言ってるの、こっちは、二回目のお色直し用よ」
史朗は呆れたように言った。
「まるで着せ替えじゃないか」
玲奈は、顔をあげて、言い聞かせるように口を開いた。
「あのね、披露宴というのは、新婦がウェディングドレス姿をご披露する場なの。お客様は、それを見ながら、宴を催すのよ。だから、披露宴。知ってた?」
「じゃあ新郎は、どうなの?」
「新婦の刺身のツマよ。貴方は、タキシードを着て、座ってたら良いの。貴方が披露するのは私にだけ。それに、貴方は何回もお色直しなんて面倒くさいでしょ」
玲奈に都合の良い、勝手な理屈にも思えたが、ウェディングドレスを着る事は、女性にとって一生に一度の晴れ舞台だ。玲奈が嬉しそうならまあ良いか。史朗は納得する事にした。
「お待たせ致しました。こちらへどうぞ」
通されたのは、プラベートルームで、出来あがったドレスを試着する場だ。
着替え室で、ドレスに着替えた、玲奈が出て来た。セットした頭髪にティアラを乗せ、ネックレスやイヤリング等を付けると、どこかの国の王女のようだった。白のドレスが彼女によく似あった。
婚約者の史朗は、思わず絶句した。目を丸くして見つめている。
「どう?」
玲奈の、にこやかな笑顔が、天使のように輝いて見えた。
あまりの美しさに史朗が沈黙していると、玲奈に戸惑いの表情が浮かんだ。
「似合わないの?」
「いや、玲奈があまりに綺麗で、言葉が出なかった。とっても素晴らしいね」
婚約者の言葉に、玲奈が破顔した。
「よし、旦那様の検閲はOKね」
史朗が近づいて、玲奈の手を取る。
「素敵だよ、玲奈。今日の君は本当に美しい」
「いつもは、そうじゃないみたいじゃないの」
憎まれ口を利くが、その顔は嬉しそうだ。
従業員も溜息を付くと、
「とてもお美しゅうございますわ」
と言うが、あながち世辞ばかりとも思えなかった。
確かに玲奈は、伸びやかな上背と長い脚に、柔らかな身体のラインが、女性らしく美しいバランスを保っていた。
しかも、彼女は整った顔立ちの、絶世と言って良い美人であり、肌の色も白く張りがあって、こんなにドレスが似合う女性も珍しかった。玲奈をカタログのモデルにすれば、さぞかし人目を惹く事だろう。
玲奈は、ドレスの試着を終えた後、ドレスショップの従業員と、お色直し用のドレスに付いて、レンタルの打ち合わせを始めた。
史朗が、ウェデング姿のモデルの写真の数々に見とれていると、業を煮やした玲奈が呼びつける。
「もう、貴方の意見も訊きたいの、他の女性の写真なんかいいから、こっち来て」
担当の女性従業員も、苦笑している。
「はい、はい」
史朗は素直にテーブルにやって来ると、玲奈のドレス選びに付き合った。
「じゃあ、そういう事で、お願いしますね」
打ち合わせが済んだのは、三時間後の事だった。もう夕刻近い。
ドレスショップを出たふたりは、手を繋いで銀座の街をぶらぶらと歩いて行った。
「パーラーでも寄ってみようか」
史朗が提案した時、突然街中にジェイアラートの音が響いた。
「ミサイルが発射されました。着弾まで時間がありません。すぐ避難して下さい」
何が起こったのか、とっさには理解できなかった。アラートが繰り返される。
我に返ったふたりは、避難場所を探した。近くにある地下鉄駅には人が殺到していて、とても数分のうちに逃げ込めるとは思えない。
玲奈と、史朗はあたりを見回した。とにかく、爆風の直撃は避けなければならない。しかし、多くの人々が一斉に逃げ場を求めて右往左往する中で、避難場所を見つけても、限られた時間でそこへたどり着く事さえ困難だ。
玲奈は、近くのビルとビルの間の狭い路地に、地下店舗への階段があるのを見つけた。史朗の手を取るとそこへ向かおうとする。
「史朗、こっち!」
しかし、人々の身体が障壁となって、そこへなかなかたどり着けない。何とか人ごみをかき分け、路地にたどり着いた、と思った瞬間に衝撃波がやって来た。
史朗は、玲奈に覆い被さるようにして、地下階段へ飛び込む。階段を滑るように落下した。
史朗が、玲奈の頭を抱え、背中に手を回し、彼女がダメージをなるべく受けないようにする。
入口からは、強烈な爆風がコンクリート片や、金属片や、ガラス片と一緒に吹き込んで来る。
轟音と共に、あたりは揺さぶられ、屋外では、上から瓦礫が雨のように降っている。地下階段にも粉塵が舞い、バラバラと壁の一部が剥落して来る。粉塵であたりは真暗だ。
衝撃は、数分の間続いた。玲奈は、意識せずに悲鳴をあげ続けていた。上に載った、史朗が必死に玲奈を抱きしめている。
玲奈は、少しの間、意識が飛んでいたようだった。はたと気づくと、爆発は収まったらしかった。
「史朗、爆発は収まったんじゃない?」
史朗は、呻き声をあげて、身体をどかそうとしたが、動けないようだ。
「どうしたの?」
玲奈は史朗を動かそうとして、背中と腰に痛みが走った。
「痛っ」
見ると手が血で汚れている。はっとして、史朗をよく見ると彼は血だらけだった。
何とか身体をずらして、彼の下から這い出す事ができた。
史朗の背中には、ガラス片や、金属片などが無数に突き刺さっている。そこから、ドクドクと出血していた。
「史朗!」
玲奈は叫んでいた。どこをどうやったのか、気が付くと史朗を背負って、地上に出ていた。
あたりの景色は一変していた。建物は崩れ落ち、道路には大小の構造物の断片や、無数のガラス片が散乱していた。空は、煙で黒く覆われ、周囲は薄暗かった。
クルマは破壊され、落ちて来たコンクリート片で潰されている。人々が無数と言って良いほどあちこちに倒れていた。立ってさまよう人たちも、血まみれだ。
遠くでサイレンの音が聞こえるが、これだけの人々を救助する事は不可能であろう。
道路端に、キーを付けたままのバイクが放置されていた。持ち主を探すが、見つからない。緊急の際だから、それを拝借する事とした。後部座席に史朗を乗せ、道に落ちていたケーブルで、自分の身体と結びつける。
玲奈は、セルスターターを回し、エンジンを掛けると、ロードタイプのバイクを駆った。自分の勤務する東都大学病院まで一直線に走らせる。
首都高速道路は、クルマ同士があちこちでクラッシュしていたが、下の道路よりは走りやすい。
インターで高速を降り、病院に向かうが、周囲の景色は悲惨のひと言だった。街のすべてが崩壊し、人々の屍体が散乱している。とても東京都内とは思えない。
ジェイアラートと言うからには、国外からの弾道ミサイルか何かが着弾したのであろうが、この被害の規模から考えて、着弾した数は数十発以上にのぼるであろう。
数十分走って、バイクを大学病院の救急搬入口に付ける。史朗を引きずり下ろすと、病院内に担いで入って行った。
「先生!ご無事でしたか?」
看護師のひとりが声をかけてきた。
「そんな事より、早くストレッチャーを用意して!」
看護師が持って来たストレチャーに彼をうつぶせに寝かせる。
「すぐ、処置室に運んで」
「先生、今、処置室は一杯で、新しい患者さんを入れる余裕がありません」
「ええっ!?」
驚いた、玲奈が処置室を覗くと、床にまで患者が横たわり、まるで野戦病院の如き有り様だった。検査すら儘ならない。
玲奈は白衣に着替え、手を消毒しようとした。その時初めて、鏡で自分の右頬に大きな傷がある事に気付いた。消毒だけして、バンソウコウを貼る。医療器具を持って、史朗の元へ戻った。
場所は救急待合所しかないが、そんな事も言ってはいられない。
史朗は、大量の失血でショック状態だった。早く止血しなければ命に係わる。だが、身体に深く突き刺さった破片が無数にあり、オペをするにしても一体どこから手を付けて良いのか、見当もつかない状態だ。みるみる止血綿が血に染まってゆく。
すぐに、輸血を指示し、点滴の準備をする。だが、大量の負傷者のため、血液が不足していて、満足に輸血すらできない。
「血液バンクでも足りなくて、とても必要量はすぐには回せないとの事です」
看護師が悲痛な声で言った。
「じゃあ、とりあえず輸液を」
玲奈の声は沈んでいた。このままでは、どうなるのか、彼女が一番良くわかっていた。
「玲奈」
史朗の意識が戻ったようだ。玲奈は、史朗の傍に駆け寄る。
「ごめん、玲奈」
「何を謝るの?貴方は悪い事なんかしてないわよ」
「いや、どうやら、君との結婚の約束は果たせそうにない・・・」
「何言ってるのよ、貴方は私がちゃんと治療するから、大丈夫。気を強く持って」
玲奈は優しく話しかけた。玲奈は必死で止血作業を続けた。
「自分の身体だ、わかるよ。どうせ、血液は不足してるんだろう」
「そんな事心配しなくても大丈夫よ。近隣の自治体から、すぐ届くから」
史朗は、しきりに右手を動かそうとした。玲奈はその手を取って、握りしめる。
「大丈夫、大丈夫」
そう言い続ける、玲奈の声が涙声になる。史朗の身体から、血液と共に生命のエナジーが流れ出ていった。段々、顔色が青白くなっていく。
出血はどうしても止まらなかった。圧迫処置だけでは限界があった。出血個所が多すぎるのだ。正直手の施しようがない。
「玲奈、もういいよ、それより側にいて欲しい」
「嫌だ、貴方は私が助ける」
だが、必死の努力にも効果はなかった。無数の血管が損傷しているのだろう。
玲奈は泣きながら、処置を続けた。
「玲奈お願いだから」
その声にはっとした、玲奈は史朗の顔を見た。彼の顔には明らかに死相が現れていた。
玲奈は、史朗の手を取って顔を近づけた。
「最期にキスしてくれないか」
史朗が囁いた。玲奈はキスをした。にっこりと笑って、彼は息を引き取った。
玲奈は、史朗の手を握っていたが、すぐに、救命措置を行った。心臓マッサージをし、人工呼吸をする。電気ショックまで試みた。しかし、彼は蘇生しなかった。
十数分間玲奈はその処置を続けていたが、
「先生、もう可哀想です」
との言葉に、看護師を見た。
史朗の死亡確認を何度も行った。瞳孔の拡大散定、自発呼吸の有無、心臓の停止、彼は医学的に死亡していた。玲奈は嫌々その事実を認めざるを得なかった。
これは現実の出来事なのだろうか。キーンという金属音が、頭の中で鋭く響いていた。
その時、突然玲奈のケータイが鳴った。何も考えられず、機械的に取った。
相手は啓明大学病院と名乗った。重傷を負って、病院に担ぎ込まれた、若い男性の死亡が確認された。連絡先に貴女のケータイが記載されていたが、身内の方でしょうか、という内容だった。
最初、相手の言っている意味がよくわからなかった。もう一度訊きなおす。草太、死亡という単語が理解できた。玲奈はそれは私の弟です、と答えた。玲奈は、婚約者と共に弟も亡くしたのだった。
玲奈はケータイを切り、史朗の遺体から離れ、駈け出して病院の外へ出た。悪い予感は当たった。人生最悪の日となったのだ。胸が疼いて、涙が止まらなかった、
煤煙の中に、雲の間から、夕陽が紅く覗いていた。玲奈は涙に濡れた眼で、その夕陽を放心したように眺めていた。
*
その若い検察官は、公判から帰って来た。本日、明らかとなった証言に基づき、証拠書類の資料を集める。
今担当している事件は、殺人事件で、直接証拠がほとんどなく、間接証拠に頼らざるを得ないものだった。
証人の目撃情報や、監視カメラからの情報が重要となる。警察の鑑識からの報告にも目を通す。
これらの情報を整理すると、物的証拠はなくても、この事件を起こせるのは、被疑者しかいない、という結論を導けそうだ。
検察官は、過去の事件で扱った資料が役立つのではないかと思い付き、地下の倉庫へ向かった。確か十年くらい前の資料だったはずだ。
地下倉庫の中で資料探しに熱中していた、彼の耳にジェイアラートの音が響いて来た。
最初は気にも留めなかったが、何度も繰り返される警報に、注意を喚起された。
「?」
顔をあげて、天井を見た。次の瞬間、轟音と共に倉庫がグラグラと揺れた。
天井のパネルが落ちて来る。上の階から、何かが、壊れる凄まじい音が響いた。床と壁の揺れが激しくなり、建物が崩れるような振動と物音が伝わる。天井からは、粉塵が煙のように厚く舞い散り、地下室も薄暗くなった。揺れで危うく転びそうになる。
振動が収まったあと、その検察官が資料室の扉を開けようとしても、ドアはひん曲がって開かない。部屋の中から、鉄製のバレルを見つけ、テコの原理でドアをこじ開ける。
階段を上がって行くと、その光景に呆然となった。天井は崩れ落ち、ガラス窓は粉々になっている。壁も崩れ、職員が下敷きになっていた。
助け出そうとするが、壁が重く、ひとりでの救助は無理だ。声をかけるが返事もない。
助けを求めて、屋外に出た彼が見たのは、崩れた、検察庁のビルだった。これでは、ひとりふたり助けてもどうしようもない。
「検事さん」
受付の職員が呼びかけて来た。
大井という名の女性は、ガラスの破片を浴びて、血まみれになっていた。
「大井さん、貴女、怪我してますよ」
ハンカチを取り出すと、彼女の血を拭くが、出血が続いている。
検察官は、ネクタイを外し彼女の傷に当てた。倒れかけたビルから、ケガ人が次々と運び出される。路上にもケガ人が倒れている。
とにかく、治療をしなければ。しかし、医療品などは手元にない。近所のドラッグストアも、店内がメチャメチャで、とても薬の販売どころではなさそうだ。
その代わり店員が、奥からバンソウコウや、ガーゼや、薬品類をできるだけ持ち出し、店の前で市民に無料で配り出した。それでとりあえず、看護師の経験がある者が、ケガ人の治療にあたっている。
救急はいくら電話を掛けても繋がらない。恐らく、東京中の救急電話が集中しているのであろう。彼もまた、負傷者の治療の手伝いに必死だった。
その時、小雨がぽつぽつと降って来た。顔をあげると、雲の切れ間から、紅い夕陽が覗いていた。
ふと家族の事を思い出した。慌てて、家に電話を掛けるが、いくらコールが鳴っても出る者はいない。個人のケータイに掛けても繋がらない。彼は、突然不安を覚えた。
検察関係者に事情を話し、自宅へ帰って見る事にする。電車も、バスも停まっているので、徒歩にならざるを得ない。歩きだして三時間、まったく場所の見当が付かなかった。
本来、あるべき場所に、あるべき建物がないのだ。私鉄の線路を目印に進むしかなかった。街中の地理がまるで変っていた。
途中の街の光景は、悲惨を極めていた。瓦礫が、あたり一面散乱し、傷ついた人や、明らかに亡くなった人の身体がそこここに、散らばっている。その数は、数百か、数千か見当もつかなかった。
あらゆる建物が崩壊し、その瓦礫で道路も埋まり、うまく歩く事ができなかった。
自宅を探して、更に三時間、ようやく、その場所と思われる地点に立っていた。カーブミラーと道路と、コンビニの廃墟に何となく見覚えがあったのだ。
彼の職員住宅は、ミサイルの破片を受けたのか、メチャメチャに倒壊していた。
どこが何階かもわからない。だが、これだけはハッキリわかった。もし、ミサイル着弾の時、この中に、自分の家族がいたなら、この建物と同様の姿になっているであろう。
彼は絶望に襲われた。自分の仕事には、誇りを持ってうち込んでいた。だが、それも家族という支えがあったからだ。
家族を失わせたその力に対し、自分は何ができるのか。こんな事をする者を罰するのが、正義と言うなら、それを追求するのが自分の仕事のはずだった。だが、今の自分にできる事は何もなかった。
彼は、建物の残骸を掘り出そうとした。コンクリート片が大きすぎ、重機でもなければとても無理だ。
だが、彼は諦めなかった。どこからか、工具を拾って来ると、少しでも残骸を除去しようと格闘した。
数時間、残骸にへばり付いて、不可能と判断せざるを得なかった。重機の手配には、おそらく、早くても数日はかかるだろう。自分の無力さをつくづく思い知らされた。
あたりは既に真っ暗となり、街路灯も壊れた街に灯の光はなかった、はずだった。
若い検察官は、幽かな光を放つモノが浮かんでいる事に気付いた。それは、おそらく、建物の下敷きとなった人たちが、放つ光であったろう。
「鬼火か」
彼はポツリと言った。話には聞いた事があったが、見るのは初めてだった。
注意してよく見ると、鬼火はあたり一面に光りながら浮かんでいた。その数は、数百、数千にのぼるかもしれなかった。背筋が寒くなる、恐ろしい光景ではあった。
だが、彼にはむしろ悲哀の感が強かった。
犠牲となった人たちが何かを告げるため、鬼火という姿で現れたのではないか。あの中には、自分の家族もいるのかもしれない。
思わず手を合わせていた。
「どうか安らかに、どうか、どうか」
暗闇の街の廃墟に浮かぶ、無数の鬼火、その光景は、彼の心にある決心をさせる、大きな理由のひとつとなった。
*
その日、DPKからの弾道ミサイル攻撃は、半島の諸都市だけでなく、日本国内の、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、福岡などにも着弾した。これらの諸都市は、大きな被害を受け、死者、負傷者の数は合計数十万人にも及んだ。
その数週間以前より、半島では、DPKとTHMの偶発的な衝突をきっかけとする、報復攻撃が繰り返されていた。
THM政府は、強硬姿勢を崩さず、DPKの脅迫路線もエスカレートの一歩をたどった。
戦争にはならないであろう、との世界一般の見方を覆して、THMは三十八度線を越え、北進を開始し、迎撃のため出動したDPK軍に大規模空爆を仕掛けた。
そして、五月のある日、DPKからの報復があったのだ。それが、日本自衛軍が泥沼の戦争に引き摺り込まれる、原因となった。
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