アリスと女王

ちな

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カーテンコール

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みどりの風が頬を撫で、垂れた髪が頬を擽ります。肌に当たるお日様は優しく、雲がゆったりと流れていきました。
背中に当たる硬い木の幹の感触に、凛はうっすらと目を覚ましました。
「……ん、…?」
肌に触れる生地はスパイダーに編んでもらった白いワンピースではなく、よく覚えのある水色のエプロンワンピースでした。着慣れた生地に風が遊び、ふわふわとゆるく舞い上がりました。白いワンピースの端がしなやかに波打ちます。
深い微睡みからまだ抜け出せない凛は、視線だけで当たりの様子を探ります。
水色の絵の具を水に溶いたみたいな空。そこに、白い絵の具をぽたりと垂らしたような雲。ずっと向こうには青々とした木々がさざめく山々と、聞き慣れた鳥の声。柔らかい草の香は肺にやさしく溜まっていきます。
「…ここ、……蓮…?」
大きな目をぱちりと開き、凛は息を飲みました。
風に靡く草の絨毯は漣のように踊り、もう間もなく訪れる夏を報せていました。
この小高い丘は、凛がひとりになりたいときに訪れる場所で間違いありません。
「あたしっ…帰って、きた…?」
思わず立ち上がると、足元にごとりと何かが落ちます。さわさわと通り抜ける風が、乾いた紙をパラパラと捲りました。はっとして目を見開く凛の網膜には、家庭教師から読んでおくよう言い付けられた、難解な数式がびっしりと書かれた分厚い本でした。
「…っ、」
帰って来れた。あの可笑しな世界から、帰って来れたんだ。
感動するより早く、凛の小さな拳に汗が滲みます。
帰って来れたということは即ち、もう二度と蓮には会えないのです。それに、あの家庭教師とこれから先も顔を合わせねばなりません。おぞましく、痛くて辛いことしかしない家庭教師の顔を思い出すだけで吐き気を催した凛は、顔をくしゃりと歪ませました。
女王にならず元の世界に帰りたいと強く願ったのは、他ならぬ凛です。蓮や、助けてくれた動物たちの思いを一身に背負って、あのおかしな空間や、果ては不思議な城や森からようやく帰って来れたのです。
帰って来れた…それは確かに、喜ばしいことのはずでした。
「…ぅ、…れんっ…」
草の香が小さな体を丸ごと包みこみますが、凛の目からは大粒の涙が零れます。
「蓮っ…!」
──いつまでも蓮のそばにいたかった。
叶わなかった願い、叶わなかった初恋。幼いだけだった凛を、少しだけ大人にしてくれた凛のこの世界に、蓮はいません。
初夏を孕んだ風は、濡れた頬をそっと拭うように吹き抜けます。慰めてくれる風は、あの森のにおいに少し似ていました。
この世界に帰って来れたことは正解だったはずなのに、大切なものを失くしてしまった胸の真ん中は、ぽっかりと穴が空いてしまったのです。
「凛ちゃん、どこにいるの。帰ってらっしゃい」
色んな感情をぐつぐつ煮詰めたみたいな胸中の凛の耳に、久しぶりに聞く声が聞こえました。
「…ママ…?」
小高い丘と言ってもさほど距離のない麓には、見慣れた家がぽつんと建っています。見慣れた赤い屋根、くすんだ木の壁と、父親が見る度に、そろそろ新しくせねばと苦笑いを零す古くなった木柵。背の高い木が二本。凛がまだ小さかった頃、祖父と一緒に作った小鳥箱が見えました。
懐かしい景色にまた視界がぐにゃりと歪みます。
──間違いなく帰ってきたんだ。
改めて見る自宅に、感動なのか、寂しさなのか分からない涙がぽろぽろ零れます。
「凛ちゃん、はやくいらっしゃい」
窓から母親がこちらを見て手を振っていました。風に靡く髪は、凛と同じ色をしています。
「今行くね」
涙を拭って、凛は母親になるべく普通の声で返事をしました。泣いている理由を説明できないと考えたのです。
自分でも、夢じゃないのかと思うような出来事ばかりでした。もしかすると、長い夢をみていたのかもしれません。
幸せな夢だったかと聞かれれば答えを躊躇ってしまいますが、しかし事実、蓮と出会えたことは間違いなく幸せだったと胸を張って言えることでした。
凛は一瞬躊躇って、足元でぱらぱらと捲れる難解な数式の本を一瞥し、拾い上げました。
一際大きく息を吐いた凛は、その本を胸に抱えました。
──夢、だったのかな…。
あれだけ酷いことをされた体ですが、特に痛みは感じません。下着もきちんとつけています。
夢と呼ぶにはあまりにリアルな記憶でした。
小さな胸にごちゃごちゃと絡む感情は、凛の表情を複雑にしました。それでも凛はもう、あの森に帰るという選択肢はないのです。帰り方も知りません。
見慣れた黒い靴の爪先に視線を落としたまま、空っぽの胸を抱きしめました。
本を胸に抱えたまま動けなくなってしまった凛に、母親は再び呼びました。
「ほら、いらっしゃったわ」
「……え?」
意外なひとことに、凛は顔を上げました。
抜けるように高い青空と、赤い屋根。取って付けたような窓から顔を出す母親は優しく微笑み、手招きしました。
「昨日お話したでしょう。新しい先生よ」
初夏を連れようとする風が、水色のエプロンワンピースに絡みます。遊ぶように誘うように、凛を連れ出そうと絡まって、笑っているようでした。
「…うそ…」
荘厳な山々が聳え立つ、凛が生まれた小さな村。木をふんだんに使用した昔ながらの自宅のチャイムを押す、金の髪を靡かせた男性の姿。
「やあ凛。会えてうれしいよ」
にこりと微笑むその男性は、凛が初めて森で出会った、美しい人でした。


~完~
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みんなの感想(11件)

叶美雪
2021.08.31 叶美雪

私も小説を書いているのですが、ここまで上手くR-18描写が書けません。
毎話見ておりますが、R-18描写の他もとても上手で羨ましい限りです。
応援しています。

この小説を読んで、性癖がヤバい事になりかけました。

ちな
2021.09.02 ちな

叶美雪様

なんと嬉しいお言葉、本当にありがとうございます!!そう言って頂けると、心の底から書いてよかったなーと思います。
小説を書かれるんですね。今度拝読させて下さいね。
感想本当に嬉しかったです。ありがとうございました!!

解除
山之辺アキラ
ネタバレ含む
ちな
2021.02.19 ちな

いつも本当にありがとうございます。お陰様で完結しました!
ほんと、手前味噌なんですが…1年という期間書き続けた作品なのでめちゃくちゃ愛着あるんですよね。初めは自分の為にと思ってたのですが、たくさんの方に励まされて完走できたと言って過言ではありません。感謝しかないです。

ラストについてもありがとうございますー!これでもかと色の描写を詰め込みまくった甲斐がありました🤣気が付かれたかは分かりませんが、あの変な部屋に入ってから、なるべく明るい色を出さないようにしてたんです。ラストの清々しい色をより感じて欲しかったので、いやーーよかったーー!!って叫びました笑 汲んで欲しいところをいつも隈無く拾ってくださる山之辺アキラ様の高い読解力に平伏します。ありがとうございます🙏
書籍化についても、ありがとうございます。
アルファポリスの規約として、書籍化申請は24時間ポイントが1,500を超えていること、とされているんです。森のあたりでは多い時で3,000超えることもあったんですが、城に入ってからは1,500を超えることは少なくなってしまったんですよね。(そして致命的なことに、肝心のポイント加算がどうなっているのか未だに分からないという…笑)お気持ちとても有難いです。タダなんでたくさん読んでくださいませ笑
お読みくださってるだけでも有難いのに、いつも感想頂きまして、本当にありがとうございました。揶揄やお世辞でなく、本当に励みになりました。伝われ〜〜!
またどこかでお会い出来たら嬉しく思います。まだ寒暖差の激しい日々が続きますので、どうぞご自愛くださいますように。

解除
山之辺アキラ
ネタバレ含む
ちな
2020.07.17 ちな

山之辺アキラ様!
もう本当に嬉しすぎてこの滾る感情をどうやって表現したらいいのか…!わたしの語彙力では到底伝えきれませんが、嬉しすぎて舞い上がっていることだけお伝えします!ありがとうございます😭🙏✨
今回頂いた感想、本当に嬉しすぎました。ネタバレのほうに入れさせて頂きました。
音楽でも小説でも、常にフォルテの全力疾走だと受け身のほうだって疲れてしまうなぁと思っていたので、休まれていたのなら嬉しい限りです。凛にもちょっと休憩が必要ですしね笑
持論ですが、鞭で叩き、甘い言葉を浴びせて主従関係を明確にし、飴と鞭を駆使して体に叩き込む。それだけではSMは成り立ちません。絶対的な信頼関係と、ただ恋人でいる時間も必要じゃないかなと思っています。精神も深く繋がって、溶け込む必要があるんです!と持論押し付けます笑 なかなか難しく、暖かくて深い世界ですよね。だからこそのめり込むんじゃないかなーと思っています。

空を飛ぶ描写もお褒めいただいて嬉しい限り!ファンタジーだからこそできる最大の魅力に反応頂いて嬉しいです。現実世界ではパラグライダーでもしない限り、全身に風を浴びて地上を見下ろすなんてことはできないですので…蓮くんわたしを抱っこして飛んでくれないかなー…なんて思ったり笑 今まで森で体験したことを振り返る機会を作るための描写でしたが、気持ちよかったと言っていただけてよかったです!🤗✨

それから、女スパイダーさんですか!それはそれで需要がありそうですね笑 是非とも蜘蛛の巣に貼り付けられて、気が狂うほど気持ちよくしてもらってください笑
毎回嬉しい感想をありがとうございます。楽しかった、楽しみなどと言って頂くことは、わたしだけでなく書き手さんの原動力になります。自分の為とはいえ、書いてる以上、何かしらの反応頂けると本当に嬉しいものです。
近況にも書きますが、楽しみにして頂いているのに本当に心苦しいですが、今月の更新をストップします。もしかして、もしかするかも…と夢見ているので、御理解頂けると幸いです。

解除

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