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第ニ部 ―新米編―
ep.19 妖魔(1)
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凪之国では、夏に入る前に雨期がやってくる。
薫風の皐月(五月)が通り過ぎて水無月(六月)に入ると途端に降雨量が増える。
初等学校では皐月が末日に近づくと、雨期に入る前にと急ぎ、課外授業が詰め込まれる時期でもある。
「森に入る前に、必ずこの薬を腕や足、それから首や顔にも塗りましょう」
青も保健士として同行している、ある日の課外授業。
実習の場となる森を前に、引率の教師から子どもたちに小瓶が配られた。
「これは、防虫薬です」
同行する監督役の中士、准士や、保健士の青にも同じものが配られる。
硝子瓶に貼られた紙に箔押しされているのは狼の紋、そして「シユウ」の署名。
「…あれってこの為だったのか」
数日前にシユウとして受けた調薬依頼の結果を見つめ、青はこっそり苦笑を飲み込んだ。
『十歳以下の子どもが使用する虫除け薬』という依頼内容だった。
目の前で子どもたちが薬を腕や足に塗っている様子を、青は内心で照れくささを押し込みつつ横目で眺める。
薬臭くないだろうか、液体が肌に染みないだろうか、と気が気ではない。
本日の課外授業は、子どもたちを三つの班に分けて、それぞれ異なる場所での実施となる。
青が同行している第二班は、都の東側へ転送陣で飛んだ先、東汀(とうてい)と呼ばれる地方の一角にある、湿地帯の森へやってきた。湿度が高い地域故に、虫が多い。
授業内容は「地域の特徴を学ぼう」だ。
任務によって国内外様々な地へ赴く法軍人らには、場所への適応力が求められる。
気候、地形、水質、食べ物、生物、妖に至るまで、凪の領内に限ったとしても東西南北で地域性が異なる。
ましてや国外、五大国以外の国々、未踏未開の地も含めると、あらゆる不快指数が高い不慣れな状況に対応できなければならない。
今回の授業では、あえて気候や地形条件の悪い場所が選ばれていた。
「やだ~、虫すっごい飛んでる」
「口に入った!」
湿地の森へ一歩踏み出した瞬間から、生徒たちから不平不満が飛び交う。教師たちは子どもたちを叱る事なく、言いたいだけ言わせておく。
不満を口にしたところで自分でどうにかするしかないと、子どもたちが自ずと気づくのを待つのだ。
教師たちの思惑通り、時間の経過とともに子どもたちは次第に文句を垂れ流す代わりに、自分で創意工夫をし始めるようになる。配られた虫除けの薬を服にも塗ったり、手持ちの手拭いに染みこませて頬かむりにしたり。
「ちゃんと薬が効いていてよかった」
一人、列の最後尾で安堵する青であった。
「足元に気を付けろよ~」
引率する教師の声が前方から飛んだ。
泥濘んだ草地だった足元が変化しつつある。
進むごとに苔むした岩が増え、木の根が表面に張り出し始めた。教師が立ち止まって地形の様子を説明する。
十人ほどの生徒たちも足を止め、物珍しそうに苔を撫でたり、蛇のようにうねる根に飛び乗ったり、それぞれに好奇心を巡らせていた。
その中にあさぎの姿もある。
「師匠と素材狩りに行ったな…」
青の脳裏に、かつて南の森の奥へ藍鬼と蛇の肝を採りに行った日が思い浮かぶ。
現在地の地形や生態系の様子が、あの時と似ていた。
すなわち、蛇が出現する条件が揃っている。
「……」
同行している中士や准士の面々も同様の考えであるようで、警戒の目を辺りに巡らせていた。
一般的に蛇は柔らかい土の穴や樹木の根、石や岩の隙間をねぐらにする。道中に大きな岩が見えるたびに、その裏に潜んでいる可能性を常に考えなければならない。
「?」
微かに遠雷の音が聞こえた。
顔を上げると、山麓の空に暗雲が生まれている。
「雨雲?」
天気の急変を見越して今日の一行は雨避けの外套を羽織っていた。雨が降ったら降ったで、雨を避ける方法や、雨水の濾し方、体が濡れた時の対処方法等の授業に繋がる。
誰かの声につられて教師も空を一瞥したが、問題ないと判断してすぐに子どもたちへ向き直り、地形に関する講義を続けた。
「通り雨でも来そうだな」
中士たちの言葉通り、暗雲は広範囲ではなく、視界におさまるほどの狭さに留まっている。
「あれ、雲、なのか?」
同行する中士の誰かが、いぶかし気な声を漏らした。何が、と再び遠くの空を見上げた准士が、目許を顰める。
強い風でも吹いているのか、暗雲は目に見える速度で少しずつ形を変化させながら、空を這うように移動していた。東へ流れたかと思えば、西へ。その繰り返し。
まるで蛇が地をうねるように。
「あれは…、先生!逃げた方がいい!」
准士が叫ぶ。
「え…」
植物の説明をしていた教師は一瞬、目を丸くして動きを止めたが、すぐに手にしていた花を投げ捨てた。
「みんな回れ右!逃げるぞ!」
「え??」
担当教師の突然の剣幕に、子どもたちは体を強張らせる。
「何?何?」
「どうしたの??」
何故逃げるのか、何が危険で、どう動くべきなのか、子どもたちは即座に判断する事ができない。
周囲を見渡して体を縮めてしまう子、足が竦んでしまう子、一方で誘導する中士に気づいて走り出す勘の良い子―それぞればらけた反応を見せる。
「まっすぐ走って森を抜けたら、転送陣まで行くんだ!」
来た道をまっすぐ走って戻る。それだけの事が、焦りに駆られた子どもには難しい。
教師の誘導から外れてあらぬ方向へ走り出し、木の根に躓いて転ぶ子も出てくる。そこへ教師が追いつき、子どもの体を抱き上げた。
森の騒ぎに気づいたか、見上げれば黒雲は確実な意思をもって空を這い、子どもたちの頭上へ迫りきた。
視界が蒼白く光った、直後、空気を裂く轟音が炸裂。子どもを抱えた教師の間近に閃光が落ちた。落雷。
「うわっ!」
「きゃ!」
岩と土が抉られ、衝撃で教師の体が飛ばされ地面に叩きつけられる。抱えられてた子どもは逆方向へ転がった。
いつの間にか黒雲は子どもたちの頭上一帯を覆い、雲間を点滅させている。地響きのような雷鳴を唸らせながら、黒雲は無風の中で形を変えていった。
「あれは…」
おぼろげだった靄が鱗を象り、牙を持つ顔となり、とぐろを描いた。蛇の舌のごとき雷光が再び森を穿つ。
「ありゃ妖獣じゃない、妖魔だ!」
「クソ!何でこんなところに!」
大人の誰かが叫んだ。
妖獣、妖虫、妖魔は総じて「妖」に分類されるが、その中で妖魔討滅は任務において上士や特士が請け負う最高難易度扱いである。
青を含めこの場にいる大人の多くが、初めて妖魔と遭遇したのだ。
「嘘だろ…地神天蓋!」
唯一この中で妖魔討滅任務経験のある准士が、術を発動させる。岩と土がそそり立ち頭上を覆い、襲い来る雷の舌を受け止めた。
「止まるな!走れ!」
殿となり最後尾を移動しながら准士は断続的に術を発動させる。
黒雲の大蛇は雷の舌を地に向かい何度も舐めずらせながら、追いすがってきた。
風術で移動できる子どもは自力で走り、そうでない子は中士が抱えて走った。
青は逃げ遅れている子どもがいないかを確認する。
「転送陣へ飛び込め!」
森を抜けた先、岩祠に設けられた都への転送陣。先に到着した子どもから順々に、教師に誘導されて陣へ飛び込んでいく。
「きゃん!」
「!?」
微かな悲鳴が聞こえて、青は立ち止まり振り返った。女子生徒が足を縺れさせて尻もちをついている。体力の限界と恐怖から腰が抜け、立ち上がる事ができず藻掻いていた。
そこへ真っ先に駆け寄った小さい人影。
「大丈夫?!」
「あさぎちゃぁん」
半泣きの女子生徒の手を掴んで引き上げ、励ましながら背中に担ごうとしている、あさぎの姿。
そこへ殿だった准士が追いつき、あさぎの背から女子生徒を引きはがして抱き上げた。そして青の姿をみとめて叫ぶ。
「その子は頼んだ!」
「はい!」
頷いて青はあさぎの腕を引いて、片腕で体を担いだ。
「掴まって」
「う、うん!」
森を抜けても尚、黒雲の大蛇は青たちの頭上に立ち込め、雷鳴を殷々と轟かせながら雷光を点滅させている。
転送陣の祠は目の前。他の生徒や大人たちは既に飛び込んだ後だ。
最後に残った四人が陣へ足を踏み入れた直後、
「!?」
鼓膜を震わす激震と共に世界は白光に包まれた。
薫風の皐月(五月)が通り過ぎて水無月(六月)に入ると途端に降雨量が増える。
初等学校では皐月が末日に近づくと、雨期に入る前にと急ぎ、課外授業が詰め込まれる時期でもある。
「森に入る前に、必ずこの薬を腕や足、それから首や顔にも塗りましょう」
青も保健士として同行している、ある日の課外授業。
実習の場となる森を前に、引率の教師から子どもたちに小瓶が配られた。
「これは、防虫薬です」
同行する監督役の中士、准士や、保健士の青にも同じものが配られる。
硝子瓶に貼られた紙に箔押しされているのは狼の紋、そして「シユウ」の署名。
「…あれってこの為だったのか」
数日前にシユウとして受けた調薬依頼の結果を見つめ、青はこっそり苦笑を飲み込んだ。
『十歳以下の子どもが使用する虫除け薬』という依頼内容だった。
目の前で子どもたちが薬を腕や足に塗っている様子を、青は内心で照れくささを押し込みつつ横目で眺める。
薬臭くないだろうか、液体が肌に染みないだろうか、と気が気ではない。
本日の課外授業は、子どもたちを三つの班に分けて、それぞれ異なる場所での実施となる。
青が同行している第二班は、都の東側へ転送陣で飛んだ先、東汀(とうてい)と呼ばれる地方の一角にある、湿地帯の森へやってきた。湿度が高い地域故に、虫が多い。
授業内容は「地域の特徴を学ぼう」だ。
任務によって国内外様々な地へ赴く法軍人らには、場所への適応力が求められる。
気候、地形、水質、食べ物、生物、妖に至るまで、凪の領内に限ったとしても東西南北で地域性が異なる。
ましてや国外、五大国以外の国々、未踏未開の地も含めると、あらゆる不快指数が高い不慣れな状況に対応できなければならない。
今回の授業では、あえて気候や地形条件の悪い場所が選ばれていた。
「やだ~、虫すっごい飛んでる」
「口に入った!」
湿地の森へ一歩踏み出した瞬間から、生徒たちから不平不満が飛び交う。教師たちは子どもたちを叱る事なく、言いたいだけ言わせておく。
不満を口にしたところで自分でどうにかするしかないと、子どもたちが自ずと気づくのを待つのだ。
教師たちの思惑通り、時間の経過とともに子どもたちは次第に文句を垂れ流す代わりに、自分で創意工夫をし始めるようになる。配られた虫除けの薬を服にも塗ったり、手持ちの手拭いに染みこませて頬かむりにしたり。
「ちゃんと薬が効いていてよかった」
一人、列の最後尾で安堵する青であった。
「足元に気を付けろよ~」
引率する教師の声が前方から飛んだ。
泥濘んだ草地だった足元が変化しつつある。
進むごとに苔むした岩が増え、木の根が表面に張り出し始めた。教師が立ち止まって地形の様子を説明する。
十人ほどの生徒たちも足を止め、物珍しそうに苔を撫でたり、蛇のようにうねる根に飛び乗ったり、それぞれに好奇心を巡らせていた。
その中にあさぎの姿もある。
「師匠と素材狩りに行ったな…」
青の脳裏に、かつて南の森の奥へ藍鬼と蛇の肝を採りに行った日が思い浮かぶ。
現在地の地形や生態系の様子が、あの時と似ていた。
すなわち、蛇が出現する条件が揃っている。
「……」
同行している中士や准士の面々も同様の考えであるようで、警戒の目を辺りに巡らせていた。
一般的に蛇は柔らかい土の穴や樹木の根、石や岩の隙間をねぐらにする。道中に大きな岩が見えるたびに、その裏に潜んでいる可能性を常に考えなければならない。
「?」
微かに遠雷の音が聞こえた。
顔を上げると、山麓の空に暗雲が生まれている。
「雨雲?」
天気の急変を見越して今日の一行は雨避けの外套を羽織っていた。雨が降ったら降ったで、雨を避ける方法や、雨水の濾し方、体が濡れた時の対処方法等の授業に繋がる。
誰かの声につられて教師も空を一瞥したが、問題ないと判断してすぐに子どもたちへ向き直り、地形に関する講義を続けた。
「通り雨でも来そうだな」
中士たちの言葉通り、暗雲は広範囲ではなく、視界におさまるほどの狭さに留まっている。
「あれ、雲、なのか?」
同行する中士の誰かが、いぶかし気な声を漏らした。何が、と再び遠くの空を見上げた准士が、目許を顰める。
強い風でも吹いているのか、暗雲は目に見える速度で少しずつ形を変化させながら、空を這うように移動していた。東へ流れたかと思えば、西へ。その繰り返し。
まるで蛇が地をうねるように。
「あれは…、先生!逃げた方がいい!」
准士が叫ぶ。
「え…」
植物の説明をしていた教師は一瞬、目を丸くして動きを止めたが、すぐに手にしていた花を投げ捨てた。
「みんな回れ右!逃げるぞ!」
「え??」
担当教師の突然の剣幕に、子どもたちは体を強張らせる。
「何?何?」
「どうしたの??」
何故逃げるのか、何が危険で、どう動くべきなのか、子どもたちは即座に判断する事ができない。
周囲を見渡して体を縮めてしまう子、足が竦んでしまう子、一方で誘導する中士に気づいて走り出す勘の良い子―それぞればらけた反応を見せる。
「まっすぐ走って森を抜けたら、転送陣まで行くんだ!」
来た道をまっすぐ走って戻る。それだけの事が、焦りに駆られた子どもには難しい。
教師の誘導から外れてあらぬ方向へ走り出し、木の根に躓いて転ぶ子も出てくる。そこへ教師が追いつき、子どもの体を抱き上げた。
森の騒ぎに気づいたか、見上げれば黒雲は確実な意思をもって空を這い、子どもたちの頭上へ迫りきた。
視界が蒼白く光った、直後、空気を裂く轟音が炸裂。子どもを抱えた教師の間近に閃光が落ちた。落雷。
「うわっ!」
「きゃ!」
岩と土が抉られ、衝撃で教師の体が飛ばされ地面に叩きつけられる。抱えられてた子どもは逆方向へ転がった。
いつの間にか黒雲は子どもたちの頭上一帯を覆い、雲間を点滅させている。地響きのような雷鳴を唸らせながら、黒雲は無風の中で形を変えていった。
「あれは…」
おぼろげだった靄が鱗を象り、牙を持つ顔となり、とぐろを描いた。蛇の舌のごとき雷光が再び森を穿つ。
「ありゃ妖獣じゃない、妖魔だ!」
「クソ!何でこんなところに!」
大人の誰かが叫んだ。
妖獣、妖虫、妖魔は総じて「妖」に分類されるが、その中で妖魔討滅は任務において上士や特士が請け負う最高難易度扱いである。
青を含めこの場にいる大人の多くが、初めて妖魔と遭遇したのだ。
「嘘だろ…地神天蓋!」
唯一この中で妖魔討滅任務経験のある准士が、術を発動させる。岩と土がそそり立ち頭上を覆い、襲い来る雷の舌を受け止めた。
「止まるな!走れ!」
殿となり最後尾を移動しながら准士は断続的に術を発動させる。
黒雲の大蛇は雷の舌を地に向かい何度も舐めずらせながら、追いすがってきた。
風術で移動できる子どもは自力で走り、そうでない子は中士が抱えて走った。
青は逃げ遅れている子どもがいないかを確認する。
「転送陣へ飛び込め!」
森を抜けた先、岩祠に設けられた都への転送陣。先に到着した子どもから順々に、教師に誘導されて陣へ飛び込んでいく。
「きゃん!」
「!?」
微かな悲鳴が聞こえて、青は立ち止まり振り返った。女子生徒が足を縺れさせて尻もちをついている。体力の限界と恐怖から腰が抜け、立ち上がる事ができず藻掻いていた。
そこへ真っ先に駆け寄った小さい人影。
「大丈夫?!」
「あさぎちゃぁん」
半泣きの女子生徒の手を掴んで引き上げ、励ましながら背中に担ごうとしている、あさぎの姿。
そこへ殿だった准士が追いつき、あさぎの背から女子生徒を引きはがして抱き上げた。そして青の姿をみとめて叫ぶ。
「その子は頼んだ!」
「はい!」
頷いて青はあさぎの腕を引いて、片腕で体を担いだ。
「掴まって」
「う、うん!」
森を抜けても尚、黒雲の大蛇は青たちの頭上に立ち込め、雷鳴を殷々と轟かせながら雷光を点滅させている。
転送陣の祠は目の前。他の生徒や大人たちは既に飛び込んだ後だ。
最後に残った四人が陣へ足を踏み入れた直後、
「!?」
鼓膜を震わす激震と共に世界は白光に包まれた。
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