理科準備室のお狐様

石澄 藍

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12.燈

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 あきが少女とともに駆けつけると、社にはすでに父が来ていた。

「お前も来たのか……。無事に、お狐様は移ったようだな」

 父の隣りでは、いつもの世話係の女が泣いていた。

「夜の見まわりに行ったら……よ、依代様が倒れていらっしゃって……。そのときには、も、もう息が……」

 嗚咽混じりに、灼に説明する。

 まさかこれほど急に亡くなってしまうとは思いもせず、灼はショックを受けた。

 老婆と会ったのは、数日前に文句をいいに押しかけたのが最後だ。あのときの、老婆の困った顔が思い出される。

 ずいぶん世話になったというのに、無礼を詫びることも、別れも何も告げることができなかった。
 妹のときと同じだ。
 大好きな人たちだったのに、死とは何と唐突で横暴なものなのだろう。

 父のかかりつけ医が社から出てきて、何ごとかを父に告げている。
 途端に、父が声を荒げた。

「このままだと不審死になる、だと? 駄目だ! 警察なんぞ、この家に入れてたまるか。何のために、お前を呼んだと思っている」
「しかし……」
「こんなときのために、日頃からお前の病院に多額の寄付してやっているんだ。お前が看とったことにして、死亡診断書を書け」

 どこまでも身勝手な父だ。しかも、それだけでは収まらなかった。

「依代様は準備が整い次第、火葬しろ」

 父は秘書に、そのように命令した。

「お葬式もやらないんですか?」

 灼は思わず、口を挟んだ。
 父が「黙っていろ」といわんばかりに、横目で睨みつける。

「そういうしきたりだ。依代様になった時点で、すでに人ではない。この世にいてはいけない存在だ。よって、葬儀もしない。覚えておけ、これがお前の辿る道だ」

 さんざん利用するだけ利用して、使いつぶしたらゴミのように捨てるのか。
 灼は腹が立った。同時に、己れの運命が悲しくもあった。

 この家で自分は、もう人として扱ってもらえないのだ。わかっていたことなのに、その事実が今さら胸につき刺さる。

 どうして、自分はこんな家に生まれてしまったのか。一体、自分が生まれた意味とは何なのか。
 そのような思考が、ぐるぐると渦巻く。

 涙が出そうになったが、泣いては駄目だと思った。こいつらに負けたことになる。
 喉の奥がひりひりする。ぐっと唇を噛んで、爆発しそうな感情が通りすぎるのをじっと待った。

 そのような灼の様子など微塵も気にせず、父が続ける。

「とりあえず、今夜は自室に戻れ。社を片付けたのちに、お前はここで暮らすことになるだろう。詳しいことは、明日にでも話す」

 父は秘書とかかりつけ医をひき連れて、それからすぐに母屋へ帰った。長居するつもりもなさそうだった。

「わたしは遺品の整理をしないと……。せめて、依代様の大切になさっていたものを棺に入れて差しあげたいので……。失礼いたします」

 世話係も深々と頭を下げて、社に戻っていった。

 あとには、灼と少女だけが残された。

「あんまりだよ、あんなの……」

 うな垂れる灼に、少女が優しく声をかける。

「部屋に戻りましょう? その薄着であまり長居すると、風邪を引いてしまうわ」

 灼は寝巻きのまま、サンダルを突っかけてきただけだった。
 いわれると、少し肌寒く感じるようになったが、戻る気にはなれなかった。

「お狐様は、どうして何もいわなかったの? 依代様と、ずっと一緒にいたのに。お葬式もしないなんていわれて、悔しくないの……?」
「そりゃあ当然、悔しいわ。依代は、死んだら『依代様』と書かれた集合墓地に埋葬されるだけ。名前も刻まれない。こんな扱いは、間違っていると思う」

 少女は星空を見上げながら、ため息をついた。少女や灼の気持ちとは反対に、星たちは輝いていた。

「でも、この一族が今さら考えを改めることはない。諦めなさい」
「そう思うなら、どうしてここにいるの? お狐様がいるから、依代が存在しなくちゃいけないのに……!」

 今まで我慢していた涙が、せきを切ったかのように溢れだした。
 少女を責めることは間違っているとわかっていても、灼は責めずにはいられなかった。

「わたしは、この一族の始祖との契約で、ここに仕えなければならないの。この契約は、わたしからは一方的に破棄できない」

 少女は灼の言葉にショックを受けた様子もなく、淡々と答えた。
 もしかしたら、責められなれているのかもしれない、と灼は思った。

「だから、わたしはただ占いや予言をするだけ。その内容を偽ることも許されてはいない。もっとも、寿命とかいいたくないことについては、占えないと先にいってあるけど」

 灼は何と答えてよいか、わからなかった。
 孤塚こづか家に憑いていることに、少女の意思は関係ない。少女も、ただの道具に過ぎなかったのだ。

「それに文句をいいたくても、わたしは依代やその候補以外と話すことは禁じられているの。あなたの妹とも、会わないようにしていたくらいなのよ」
「……いつから知っていたの? あいつが依代にならないって」

 灼がポツリと訊いた。もう先ほどまでの怒りはなかった。
 少女は少し考えてから、答えた。

「あの子が次の依代だと紹介されたときかな……。でも、それを拒否したら、あの子が早く亡くなることが知られてしまう。だから、黙っていたの」
「そんなに早く……。けど、教えてくれていれば、あいつは修行を受ける必要もなかったのに……」

 灼の非難の声に、少女は静かに頷いた。狐の耳はやや垂れ、その瞳には悲しみの色があった。

「ええ、そうね。わたしが一番重視したのは『最期のときまで死を知らずに、穏やかに過ごす』こと。でも、その選択が正しかったのか、いつもわからない」

 少女は暗い顔をして、うつむいた。その小さな肩には、きっといくつもの後悔が重くのしかかっているのだろう。

「あなたを連れてくることを許可していたのは、あなたには修行する時間がなさそうだったから。妹について来たときに、いろいろと話を聞けたでしょう?」

 なるほど、この状況も全てお見通しだったというわけか。ずいぶんと周りくどいことを考えたものだ。
 灼はそのようなことを思いながら、涙を拭った。

「依代様に、最後の挨拶をしていきたいです。父のことだから、多分、もう二度と会えないと思います」

 少女をまっすぐに見つめながら、いった。
 少女が頷きかえす。

「そうね。こっちよ」

 少女は先に立って、歩きはじめた。
 戸の前で少し考えたあと、ゆっくり手を突きだした。少女の手は戸に触れることなく、そのまますり抜けた。

 灼が戸を開けて中に入ると、玄関で待っていた少女が思い出したようにいった。

「ああ、それと、わたしにはあかりという名前があるの。今度から、そう呼んでほしいわ」
「お狐様に名前があるなんて、知りませんでした」

 灼は驚いた顔をした。今まで、誰も名前で呼んでいるのを聞いたことがなかったからだ。

「依代にだけ、こっそり教えているの。わたしの名前を呼んでくれる人なんて、もういないから」

 燈は寂しそうに微笑んだ。

 老婆の棺は、よく妹に修行をつけていた居間にあった。
 老婆は穏やかな顔をしていた。まるで、ただ眠っているかのようだ。

 灼はそっと手に触れてみたが、かすかに冷たいだけで、他は生きていた頃と何も変わらない。
 実感が湧かないのに、涙だけはなぜか流れてきた。
 そこにある「死」が、直感的に伝わってきたのかもしれない。

「今まで、ありがとうございました。今度は僕が立派な依代になるから。あいつと天国から見ていて」

 きっと、優しい彼女のことだ。依代になる自分のことを心配してくれているに違いない。だが、自分のことはいい。
 願わくば妹が寂しくないように、一緒にいてあげてほしい。

 灼は心配をかけさせまいと、老婆に笑いかけた。涙は流れ続けているから泣き笑いになってしまったが、老婆には伝わっただろう。

 涙を拭いながら立ちあがり、燈のほうを向く。

「僕の部屋に戻りましょう、燈様」

 初めて名前を呼ばれた燈は、獣の耳をピンとさせて、少しだけ嬉しそうな笑顔を見せた。
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