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2章

90.迷惑なんてかけてナンボ

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 それからの記憶は断片的だ。

 馬車から降ろされ、カミルたちと合流し気もそぞろに残りの旗を大通りに掲げ──気がつくと厩舎場のすみで小さく膝を抱えていた。

 太陽は少しずつ傾きかけ、厩舎の中の影も伸びつつある。たらふく食べたのか、馬たちはたまに尻尾を揺らしながら目をしぱしぱとしている。

 ぼんやりしているうちに夕方になり夜になる。それでも部屋には帰りたくない。部屋にはジークフリートがいるからだ。

『婚約破棄、できなかったら……わかるよね?』。

 去り際に言われた言葉が耳にこびりついて取れない。目を瞑って耳を塞いでもネルローザの嘲るような笑い声が響いてくる。

 ジークフリートに婚約の解消を申し出る。それだけなら多分、できる。

 だが彼を傷付けるとなると無理だ。上官であり恩人でもあり、『そばにいろ』と言ってくれた彼にそんなことはできない。

 だが、しなければ彼を道連れにしてしまう。

 そんなことはさせたくない。

 ならばネルローザの言う通りにするしかない。

 彼女は言った。ジークフリートは自分と一緒になる方が幸せになれる、と。『魔女の形見』ではない、かわいくて頭も良い自分の方がきっとジークフリートも嬉しい、と。

 ロンダルクもまた、自分と結婚する方がアルティーティのためになると言った。
 結婚すれば不自由な暮らしはさせない。騎士なんて危険な仕事は辞めて領地でゆっくりとふたりで過ごせる。だから結婚してくれ、と。

 そんな生活もいいのかもしれない。
 平穏で安全で不変。全てアルティーティの今までの人生にはなかったものだ。それが得られるならいい話ではないか──。

 厩舎の片隅で、何度も自分にそう言い聞かせた。だが一向に足を動かす気にはなれない。考えすぎて痺れたように頭もうまく働かない。

 今日何度目かのため息が口から漏れ出た時だった。

「あー! やっぱりここにあった! お父さーん、あったよー! ……って、アルトさん!? アレス様にミニョル様まで……こんなところに座り込んでどうされたんですか?」
「え……? っ?! うわっ!」

 厩舎係のテーアの声に顔を上げると、いつの間にそこにいたのか横にはアレスが座り、少し離れたところにはミニョルが腕組みをして立っていた。ふたりとも驚くアルティーティに苦笑いを浮かべている。

「びっくりした……」
「それはコッチのセリフよぉ。馬番してたらずーっとアナタがそこでぼんやりしてるんですもの」
「一時間アルト放心。俺勝利」
「んもぉ、仕方ないわね」

 ミニョルは懐から財布を取り出すと、硬貨を何枚かアレスに向けて投げた。無表情で受け取ったアレスが、素早くポケットにそれをしまう様子を、テーアが顔を顰めながら見ている。

「お二人とも、アルトさんで賭けなんてしないでくださいよ」
「あら。死にそうな顔の新人が心配だから変な気起こさないように見守ってたのよ。賭けはそのついで」
「同意。俺、アルト心配。クロエ、アルト心配」
「もう、また適当なこと言って……アルトさんもちゃんと言ったほうがいいですよ」
「え、そ、そうですね……」
「ところでテーアちゃんは何してるのかしら? さっき、『あった』とかどうとか言ってたけど」

 ミニョルの問いに、テーアは飼い葉の上に乗っていたブラシを手に取った。

「これのことですよ。最近よく物がなくなるんです」
「あら、大丈夫なのそれ」
「ええ。なくなっても出てきますし。多分小人さんの仕業じゃないかと」
「こびと?」

 アルティーティは思わず聞いた。小人族という種族がいることは知っているが、実際に見たことはない。

「昔から言い伝えであるんですよ。スプーンから髪留めまで、手のひらに乗るくらい小さな物がなくなる時は小人さんのイタズラだって」
「あら、そんな昔話よく知ってるわねぇ」
「当然です。小人の話は黒馬の話ですからね」

 テーアはブラシを持ってない方の手で親指を立てた。

 小人の話がどうして黒馬の話に繋がるのか。分かっている様子の3人に対し、よくわかっていないアルティーティは首を捻る。するとテーアもまた、首をかしげながら教えてくれた。

「小人たちは黒馬を大事にしてたんです。黒馬も、選んだ人間以外は乗せないのに小人は乗せるとか。知りませんか?」
「う、うん……ボクの田舎じゃ聞かない話かな……」
「だから最近物がなくなるのも、クロエの近くでよく見つかるのも、小人がクロエにおそなえしてるからなのかな、と思ってるんです」

「でも、ほら、なんて名前かは忘れたけど……あのクロエを欲しがってた人、クロエ狙って厩舎に泥棒に入ったんだよね? もしかしたらってことはない?」
「大丈夫です。クロエは強いですし、その時の犯人も捕まって牢の中ですし……主犯以外は」

 テーアの顔が渋い。主犯と言われ、アルティーティの脳裏にあの意地悪で、貧相な体に不釣り合いの白の隊服が浮かんだ。

 犯人は厩舎内で馬に蹴られボロボロになった状態で見つかったと聞く。ほぼ現行犯だ。

 そんな状況で主犯だけが捕まってないなんてありうるのだろうか。

 疑問符を浮かべているとミニョルが「ああ、あの人ね」と口にした。

「ニッツェ伯爵のところのボクちゃんのことでしょ? なんだかんだで投獄されずに済んだのよねぇ。親の力が大きいのかしら? 有耶無耶にされちゃって。剣術大会にエントリーしてるってうちの大きい方の新人が言ってたわ」
「泥棒、汚名返上」
「でしょうねぇ。優勝すれば名前も売れるし、王からも目をかけてもらえるかもしれないし、それこそ黒馬欲しいとか言ったらポンとくれるかも。飼い慣らせるかは別として」
「できないでしょうね。まだ騎馬が決まってないのはあの人だけらしいですが、他の馬たちもあの人だけは避けてますから」
「あらやだ。そうなの」
黴菌バイキン対応、当然」
「そうねぇ。お馬さんもドン引きよねぇ。近衛騎士団でも肩身狭いでしょうに」

 アルティーティを除く3人でなにやら盛り上がっている。

(あの人相当嫌われてるなぁ……名前忘れたけど)

 3人の噂話を聞きながら肩をすくめた。
 話からしてまだ近衛騎士団にいるようだ。親の力で、ということは少なくとも彼は家族に騎士になることを応援されているのだろう。
 やったことは許されないが、家族に騎士を辞めるよう脅されているアルティーティには、庇ってくれるような家族がいる彼がほんの少し羨ましい。

 などと思っていると、遠くからテーア呼ぶ声が聞こえた。彼女の父だ。

「はーい! 今行きまーす! じゃあ皆さん、私はこれで!」

 ブラシを手に駆けていく彼女を見送ると、ミニョルとアレスの視線がこちらを向いた。

「…………で? アナタはなんでこんなところで死にそうな顔で何を悩んでたのかしら?」
「え……ええと……」
「言っておくけど、隠しても無駄よ。アナタわかりやすいから。ジークフリートですら気づくくらいわかりやすいから」
ザル顔」
「そ、そんなにですか……!?」

 動揺する彼女にふたりはうんうん、と大きくうなずく。ジークフリートにバレるとなると、このまま婚約解消を申し出ても意味がない。

 アルティーティは逡巡し……腹を決めた。

「その………………誰にも言わないでくださいよ?」
「そうねぇ。考えてあげる」
「……おふたりはもし、やりたくないけど、やらないと誰かに迷惑がかかる……任務? をしなきゃならないってなったらどうしますか……?」
「なに? 任務? なんか無茶な仕事でもジークフリートに振られたの?」
「い、いえ! そういうわけではなくて! というか隊長には全然、全っ然関係なくてですね!」

 思わぬところでジークフリートの名前が出て狼狽える。全力で否定するアルティーティにふたりは顔を見合わせ、「……これ絶対関係あるわね」「同意」とコソコソ言い始めた。

(もうっ……聞こえてますよ)

 これ以上墓穴を掘らないよう、慌ててアルティーティは話を続ける。

「ただ……迷惑かけたくないし、自分が我慢してやるのが一番いいとは思うんです。思うんですが……」
「踏ん切りがつかない、と?」

 ミニョルの言葉にぎこちなくうなずく。

 自分がやることは決定だ。それしかネルローザの暴露を回避できない。

 そう頭では理解していても、どうにかしてやらない方向でなんとかできないか、と考えてしまう。やらなくてはと思いながらも矛盾した気持ちを抱えたまま動けない。それを踏ん切りと言えばそうなのかもしれない。

「アレス、どう?」
「……交渉。代替案提示」
「そうね。無茶な任務なら作戦変更を交渉する。それもひとつね」
「ミニョルさんは違うんですか?」
「アタシなら作戦は変えない。新しい作戦考えるのも面倒だし。でも黙って従うのもシャクだから、自分が納得できる報酬額を上と交渉するわね」
「守銭奴。矜持皆無」
「なによぉ、お金は大事でしょ?」

 軽口を言いながらアレスの背中をバシンと叩くと、ミニョルはその手を口元にやった。

「あとはそうね。逃げるのもアリよ。アナタ意外と真面目そうだから自分がやらなくちゃって思ってるんでしょ? そんなことないわよ。やらなくたって誰かがやるかもしれないし、やらなくて済む方法を誰か考えてくれるかもしれない。人の数だけ考えも答えも違うわ。大事なのは声を上げること。『助けて』って」
「声を……」
「そ。そしたら誰か助けてくれるかもしれないじゃない」

 器用なウインクをこちらに投げてくる。そんなミニョルを、アレスがもっさりとした髭を撫で付けながら小突いた。

「他力本願」
「他力本願で結構。どうせ逃げたくなるほど嫌な仕事なんて、ひとりじゃこなせない仕事量か能力的にできない仕事なんだから。まだアナタ10代の新人でしょ? 迷惑なんてかけてナンボよ。ひとりでやらなきゃ、なんて思わなくていいのよ。巻き込めるだけ周りを巻き込まなきゃ、こんな仕事やってられないわよ」
「………………」

 アレスとなにやら言い合いながら、ミニョルは筋肉質で大きな肩をすくめている。

 アルティーティはそれを見つつ、師匠から言われた言葉を思い返していた。

『死が予想される命令は全部断れ。それ以外は一旦考えろ』と言われ、その通りに行動してきたつもりだ。今だって、ネルローザの脅迫に応じざるを得ないと考えているのも、『自分が死なないから』というのが大きい。

 しかし、師匠の言いたいことは本当は少し違う意味も含まれているのではないか。この場合の『死』とは──。

「そういうことだから。ちゃっちゃと話つけてらっしゃい」
「え?」

 黙り込んだアルティーティを前に、突然ふたりは踵を返した。

「あーずっとここにいたらちょっとアレね。アレス、行きましょ」
「…………大便?」
「いやねぇ、下品よぉ」
「え、ちょ、え?」

 なんだか焦って立ち去られた気がする。

 ミニョルがアレスの背中をバシバシ叩く音が遠くなり、アルティーティはひとり厩舎に残された。いつの間にか隣にはクロエが頭を下げ、自慢の黒い尻尾をゆらゆらと揺らしていた。

(心配かけちゃったかな……?)

 大丈夫、とたてがみに手を伸ばしかけた彼女は、背後の気配に気付くのが遅れた。

「アルト」

 低く、どこか甘い雰囲気のある落ち着いた声が彼女の肩を震わせる。

 振り向けば、今一番会いたくない相手──ジークフリートがそこに立っていた。

 どうしよう。

 婚約破棄に向けて嫌われるようにしなければ、と今まで思っていたアルティーティだが、ミニョルとアレスの言葉に思うところがあったのは事実だ。

 しかしそれをまだうまく咀嚼できていない。飲み込めないままに、ジークフリートの顔を見ることはできない。

「探した。外出許可はもらった。少し出るぞ」
「え? え?」
「クロエも一緒に来るか?」

 彼の言葉がわかったのか、クロエはスッと立ち上がると、促すようにアルティーティに鼻を擦り付ける。

 やる気があるのは結構だが、それよりもまず行き先を確認しなければならない。アルティーティは自分の馬に向かうジークフリートに声をかけた。

「え? いや、ちょっと待っ……どこに?」
「お前も知ってる場所だ。早く行くぞ」

 手早く馬具を取り付けるジークフリートの後ろで、アルティーティは「…………えぇ?」と釈然としない表情を浮かべていた。
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