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2章
67.屈強なレッスン
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予想はしていたが、イレーニアのレッスンはそれにも増してスパルタだった。
「シルヴァ侯爵家で教えられている方法で、簡単な作法だけですが」とレッスン前に彼女はたしかに言った。それはアルティーティも覚えている。
しかしまさか、頭の上に壺を乗せられるなどと思ってもみなかった。
姿勢良く歩く練習で、本を頭の上に乗せるのは聞いたことがある。落とさず歩けるようになれば一人前、と。
それが壺。嫌がらせかと思ったら彼女は大真面目で頭に乗せてくる。「落としたら割れますわ」と当たり前のことを言いながら。シルヴァ侯爵家の教育方法、控えめに言っても怖い。
壺は侯爵家のものだ。青磁のお高そうな壺だ。しかも水と花が一輪差してある。はっきり言ってめちゃくちゃ重い。
首が耐えられるギリギリの絶妙な大きさと重さを乗せ、水を一滴もこぼさず部屋の端から端までを歩く。
無理だ、と思ったがイレーニアは涼しい顔で見本を見せてくれた。
引き締まるところはしっかり引き締まり、出るところは出ているグラマラスな彼女の体のどこに、壺を支える力があるのか。あえて言うならこれでポキっと折れない首が屈強すぎて怖い。
一輪の花と壺を頭に乗せているヘンテコな格好にも関わらず、なぜだろう。優雅な佇まいに見える。もしかしたらこれが一般的な貴族の教育なのか、と信じかけるくらい。
重い壺を載せてプルプルしながらなんとか歩く。
弱音を吐くわけにはいかない。
イレーニアには、わざわざメイドの業務時間を割いてまで教えてもらっている。その上、ルーカスにも自分から彼女を推したのだ。「やっぱり無理でしたごめんなさい」などと言いたくない。
本音を言えば昼間、騎士の訓練でくたくたになったあとのこれはかなりキツい。
それでもたった2日、夜会の日を含めれば3日だ。それだけ耐えればこのスパルタレッスンも終わる、と思っていたのだが──。
「姿勢の練習はひとまず、よろしいですわ」
そうイレーニアに言われたのは、2日目の夜、一度頭に壺を乗せて歩いた後だった。
(ぃやっ………たー!!! もう壺を乗せなくて済む!)
踊り出したい気分だったが、正直そんなことできそうな気がしない。並の女性より鍛えてるといえ、訓練の後に壺は効く。壺をそっと机の上に置くとふぅ、と息をついた。
「い、いいんですか?」
「ええ、覚えることは姿勢だけではございませんのよ? 歩き方、お辞儀、笑顔、その3点。貴族の妻となるならそれに加えて流行やダンス、マナー、時事……身につけるべきことはたくさんございますわ。その中の最低限の3点。やることが絞られているとは言え、お嬢様が3日でそれらを完璧に身につけられるとはこちらも周りも思ってませんわ」
イレーニアはひと息にそう言うと、ツーンとそっぽを向いてしまった。
彼女はずっとこんな感じだ。教えるのは丁寧だが、言葉にトゲがある。
お嬢様と呼ばれるのも、平民に対しての皮肉らしい。領地に帰る前、ルーカスが上機嫌でわざわざ教えてくれた。
イレーニア以外のメイドにも呼ばれるので、おそらく使用人のほとんどはアルティーティを歓迎していないのだろう。
やっと婚約したと思った三男坊が連れてきたのが平民の『魔女の形見』では、こうなるのも当然だった。
(うーん……ご当主様は「仕える対象だと認められたら名前で呼んでくれると思うよ」って言ってくれたけど……)
彼女の横顔で、それはかなり大変なことだとわかる。
別に使用人や行儀見習いに認められる必要はない。結婚後も、アルティーティは屋敷にいなくいていいことになっている。一生お嬢様と呼ばれても差し支えはない。その程度の扱い、ストリウム家の中で受けたものと比べればへっちゃらだ。
だが、今のようにやはりやりにくい部分もある。相手が美人だからか、そっけなくされると悲しさが倍増する。仲良しにはならなくてもいいが、せめて普通に会話したい。
「……早急に直すべきは表情ですわね」
気づけばイレーニアがじっとりとこちらを見つめていた。
その表情、と彼女が言う意味がわからず、アルティーティは首をかしげて見せる。
「それですわ。その『よくわからないけどとりあえず笑っておこう』みたいな表情! 自分はこの程度の話もわかりません、と大声で言っているのと同じですわ!」
ビシッと指をさしてくるイレーニアに、アルティーティははじめて自分が笑っていたことに気づいた。そしてその笑みの意味すら見透かされている。
見透かされている、といえばカミルによくわかりやすいと苦笑されていた。思ったことが口から出てしまうからだと思っていたが、まさか表情に出ているなんて。
「たしかに、微笑みは大事ですわ。自信に満ち溢れた笑みは、相手に隙を与え、勝手に想像を掻き立ててくださいますもの。物事を曖昧にするのにも効果的ですわ。ですが相手に媚びる笑い方は逆効果。侮られ、付け入られる隙にしかなりませんわ!」
「は、はぁ……」
あまりの勢いに頬が引きつる。するとイレーニアの細い眉根がぐっと寄った。彼女の両手がアルティーティに伸び──なぜか頬をつままれる。
「それ! それですわ今もダメダメですわ! 分からない時こそなんとなく、ではなく自信を持って口角を上げなくてはなりません! 横でなくて上! できたら目元も! 当日は前髪も上げますわよ!」
「ふぇ!?」
アルティーティはなされるがままに頬を上下させられながら、変な驚きの声を上げた。
彼女の言う通り、笑顔を作るなら口元だけでは胡散臭い。目も笑っててはじめて説得力が出るだろう。
しかし言わずもがな、分厚く長い前髪は『魔女の形見』の特徴のひとつ、ワインレッドの瞳を隠すために伸ばしている。周囲の嫌悪と好奇の目から逃れるためにしていることだ。
好きでしてることではないが、かといってそれをすぐに捨てられるほどの度胸はない。迫害、虐待、追放が待っていると言われたら、誰しも足をすくませるだろう。
『魔女の形見』だと知られていいことなどひとつもない。夜会の間、黙って歩いて微笑んでいればいいと言われても、針のむしろにされるのは御免だ。
それを捨ててまで笑顔にこだわる必要があるのか。いや、笑顔のために捨てるのか。
頬をむにむにしながら、眉をひそめるアルティーティをイレーニアは軽く睨む。
「相手は改革派の枢機卿ですもの。滅多にない『魔女の形見』と貴族の結婚を推薦する、なんて派閥拡大の恰好の足がかり。その上、リブラック家にも恩が売れますわ。ならばパウマ卿がお嬢様に求めることは、ただひとつ。誰から見ても『魔女の形見』とわかるようにすること。それが推薦の条件でしょう。でなければ出どころもわからない平民と名門貴族との婚約なんて、誰も推薦しませんわ。そんなこともわからなくて?」
「ふ、ふいあえん……」
すみません、と言ったつもりが頬を引っ張られているせいでなんとも気の抜けた声になってしまった。
イレーニアもそれに気づいたのか、それとも満足したのか、頬から手を離すと顔を逸らした。怒っているような横顔だが、なぜだろう。チラチラと視線を感じる。
(やっぱり……この人、本当は優しい人なんじゃないかな?)
頬をさすりながらアルティーティはイレーニアを見上げた。
口調はきつい。態度も高飛車で、印象は良くない。周りから敬遠される性格だろう。
しかし言ってることはまともだ。今だって、アルティーティが気づかなかったことを言ってくれている。思えば、出会った時からそうだった。
家庭教師に推したのは、ほかに誰もいなかったのもある。だが彼女は「そんなこともわからないのか?」と言いつつちゃんと教えてくれる。
『魔女の形見』の女に親切にしようとする人間は少ない。いたとして変人か悪人だ。
大抵は関わり合おうとしないか、石を投げるかだ。もしくは教えてあげると言いながら間違いを言ったり、やっぱりやめたと手のひらを返される。
アルティーティの師匠は変人だった。寡黙ながら生きる術を教えてくれた。イレーニアにも同じものを感じる。
ジークフリートは──正直良くわからない。変人とは言い難いし、悪人とは思いたくない。時に見せる微笑みが、優しさが、本心からなのか判別がつかない。
考えてもわからないので保留だ。むしろ考えたくない。あの心臓に悪い微笑みを思い出したら、平常心でいられる気がしないからだ。
イレーニアは確実に優しい。しかしダリアの様子を思い返すと、周りから誤解されているようだ。本人がそれを気にしてる様子はないが、本心はわからない。
外見のおかげで虐待され、忌み嫌われたアルティーティは今でこそイレーニアのキツイ物言いを受け流せるが、それはもっと辛いことがあったからだ。かといって、イレーニアのキツイ言葉の全てを受け流せるわけでもない。時に胸をえぐられる。
アルティーティでさえこうなのだ。普通の人間ならイレーニアに怒りを覚え、疎ましく思うだろう。
そういえば、彼女と出会った時から今の今まで、他のメイドとまともに会話してる様子がない。行儀見習いと普通に雇われたメイドは違うのかもしれないが、流石に会話ひとつないのは違和感がある。
(もしかしてあまり友達がいない? もったいないなーこんなに美人なのに)
この外見で人当たりが良ければ、きっと男女問わず大人気になっていただろう。本当にもったいない。
……などと思っていたのが伝わったのか、そっぽを向いていたはずのイレーニアがいつの間にかこちらを見ている。
高圧的な視線。その片手には壺。
まずい。なんかお仕置きされそう。壺が鞭に見える。
「あ、あの! そ、そもそもなんですけど……慈聖教ってどんな宗教なんでしょうか? 枢機卿が偉い人なのは、わかる、んですが……」
鞭で打たれる──もとい、壺を乗せられると思い、慌てて発した質問が、さらにイレーニアの視線を厳しくさせる。
「あ、その、わたし、こんな身なりなので周りの人もあまり慈聖教についてちゃんと教えてくれなかったというか……『魔女の形見』は教会も出禁ですし、経典なんかも貸してもらえなくて……」
あれこれと言っては見るものの、彼女の視線は険しい。
それもそのはず、この国で慈聖教のことを知らない者はいない。幼い頃から外界から隔絶されたアルティーティには知る術はなかった。
共に旅した師匠でさえ、慈聖教だけは教えてくれなかった。一度尋ねた時に微妙な顔をされたのを覚えている。それ以来聞くことはなかった。流浪の旅が長すぎて知らなかったのかもしれない。そう納得させた。
平民に信者が多いとされる慈聖教すら知らない平民。これほど胡散臭いものはない。
「……なんでこんな無知な平民がジークフリート様の…………」
イレーニアのつぶやきが断片的に聞こえてくる。
ジークフリートならばきっと、もっと博識で知的で品性のある女性が似合う。アルティーティ自身もそれは認める。貧相な『魔女の形見』の自分では不釣り合いだと。
わかっていても、それを言われると胸が痛い。
「……まぁ、いいでしょう。休憩がてらお話しいたしますわ。相手が枢機卿なら知っておいて損はございませんし。ワタクシも信徒ではないのでパウマ枢機卿については詳しくは存じませんが」
「そうなんですか?」
「ええ」
短く答えたイレーニアは、壺を机に置いた。ごとり、と重そうな音がする。令嬢が片手で持つような代物ではない。
「それで、どの程度ご存じですの?」
アルティーティは、知っている限りのことを話した。
といっても、聖女が厄災の魔女を討ったことや、その聖女が慈聖教の信仰の対象となっていることくらいしか知らない。
喋り切った後の沈黙で、イレーニアが「それだけ?」と言いたげに目を瞬いたのが見えた。
「……まぁ、そうですわね。大筋は間違ってません。聖女に関して多少付け加えるとするなら……」
彼女は昔話を語るように、目を瞑った。
聖女は天候を操ったらしい。
本当かどうかはわからないが、彼女が祈れば雲は消え晴れ間が差し、踊ればたちまち雨雲が生まれ大地を濡らしたという。
聖女のおかげで、国民は水不足や食糧不足に悩まされることがなかった。
国を繁栄させる能力を持つ少女。国民にその能力を惜しみなく使う慈愛に満ちた少女。それが聖女たる所以だった。
それに対して、突如現れた災厄の魔女はあらゆる災害を起こし、多くの国を滅亡させた。この国も例外なく攻め込まれ、強大な力の前にあっけなく滅んでしまう。
しかし聖女は、王族の中でひとり生き残ったエルディールが指揮した騎士団と共に魔女を討った。聖女は戦いで命を落としたが、エルディールは助かり、国を復興させた。
彼女の恩に報いるよう、王は騎士団に彼女の名前をつけた──。
「この騎士団がアーディル騎士団。ジークフリート様が所属する騎士団のことですわ」
「そ、そうだったんですか……そんなに歴史が」
「ワタクシから言わせれば、歴史というよりはおとぎ話ですわね」
信徒ではない、との前置き通り、身もふたもないことを言うイレーニアに思わず閉口する。
士官学校の授業のおかげで騎士団が聖女の名を冠するのは知っていたが、その経緯までは知らなかった。
いや、習ったのかもしれないが覚えていない。実技は弓のみ、座学はからっきしだったのだ。よくそんな歴史ある騎士団に採用されたな、とアルティーティは内心苦笑いを浮かべた。
「近衛騎士団は採用に王族や貴族の意向が強く出ますが、アーディル騎士団の方は実力主義……身分に関係なく優秀な方が選ばれる、と父から聞いたことがありますわ。初代国王がそのように定めたようですわね」
「同期も先輩方も平民の方が多かったのはそのせいだったんですね……」
「? 同期? 先輩? 何の話ですの?」
「い!? いえ、こちらの話です……っ!」
危ない。うっかり口を滑らせた。騎士団の話はどうも警戒心が薄れる。
「そ、それはそうとっ、す、枢機卿ってどんな方がなるんですか? 騎士団と同じ実力……あ、でも宗教の実力っていうのも変ですね……なにか選ばれる基準があるとか?」
「枢機卿は慈聖教内でも地位が高く、信仰心の厚い方が選ばれるそうですわ」
「やっぱり貴族が多いんでしょうか?」
「いえ。たしかに枢機卿を冠する貴族は多いですが、平民でもいますわ。長らく司教を務めた者や大商人、豪農、土豪……そのあたりの社会的地位が比較的高い方も選ばれるみたいですわね」
「もしかして何人もいるんですか?」
「ワタクシも詳しくは知りませんが、20人くらいいると幼い頃に聞きましたわ」
「に、にじゅう……そんなにいてなにをするんでしょうか?」
「一般的によく知られている一番大きな仕事は、教皇を決めることですわ。枢機卿会議で候補者を絞り、最終的に多数決で教皇を決めますの。それ以外に何をしてるのかはワタクシも存じ上げませんわ。枢機卿と言っても兼業……他に仕事を持つ方ばかりらしいですし」
上品に肩をすくめるイレーニアは、一瞬机の上に視線を向け、再びアルティーティを見つめた。
「まだ質問はございますか? なければ続きを……」
「あ! え、えーと……せ、聖女様もよく魔女に立ち向かおうなんて思いましたよね」
「……それに関しては諸説ございますわ。なんらかの逆恨みで魔女が攻撃してきた説や、全くの偶然という説もございますが、聖女の能力を奪いにきたのではないかという説が有力ですわね。いずれの説も戦いに巻き込まれたという見解ですわ」
「能力なんて奪えるんでしょうか?」
「さあ。ワタクシ、魔法に関しては専門外なので存じ上げませんわ。ジークフリート様ならご存じだと思いますがお聞きになられたらいかが?」
婚約されるおつもりなら簡単に聞けますよね?
言外にそう言われた気がする。
たしかに婚約者には挙げられてるが、厳密にはそうではないというかなんというか。
(でも普通に聞いたら教えてくれそう。魔法なら戦いに関わる分野でもあるし。……あれ? でも天気を操る能力って魔法なのかな……? 聞いたことないけど……)
風魔法は見たことがある。ジークフリートも使える魔法だ。雲を風で飛ばして快晴にしたり、水魔法で地面を濡らすことはできそうだが、雨雲を呼んで天から雨を降らすのは魔法でできるのだろうか。
考えてもわからない。それも聖女と呼ばれ崇められる所以なのだろう。
「さ、休憩はもういいでしょう。続きをいたしますわ。先ほどの壺を持ってカーテシーの姿勢維持の練習をいたしましょう」
「え。また壺……」
「ゆっくりしてる時間はございませんの。ビシバシいかせていただきますわ」
そう言って手をパンパンと叩くイレーニアに、アルティーティは思った。
当日絶対筋肉痛だ、と。
「シルヴァ侯爵家で教えられている方法で、簡単な作法だけですが」とレッスン前に彼女はたしかに言った。それはアルティーティも覚えている。
しかしまさか、頭の上に壺を乗せられるなどと思ってもみなかった。
姿勢良く歩く練習で、本を頭の上に乗せるのは聞いたことがある。落とさず歩けるようになれば一人前、と。
それが壺。嫌がらせかと思ったら彼女は大真面目で頭に乗せてくる。「落としたら割れますわ」と当たり前のことを言いながら。シルヴァ侯爵家の教育方法、控えめに言っても怖い。
壺は侯爵家のものだ。青磁のお高そうな壺だ。しかも水と花が一輪差してある。はっきり言ってめちゃくちゃ重い。
首が耐えられるギリギリの絶妙な大きさと重さを乗せ、水を一滴もこぼさず部屋の端から端までを歩く。
無理だ、と思ったがイレーニアは涼しい顔で見本を見せてくれた。
引き締まるところはしっかり引き締まり、出るところは出ているグラマラスな彼女の体のどこに、壺を支える力があるのか。あえて言うならこれでポキっと折れない首が屈強すぎて怖い。
一輪の花と壺を頭に乗せているヘンテコな格好にも関わらず、なぜだろう。優雅な佇まいに見える。もしかしたらこれが一般的な貴族の教育なのか、と信じかけるくらい。
重い壺を載せてプルプルしながらなんとか歩く。
弱音を吐くわけにはいかない。
イレーニアには、わざわざメイドの業務時間を割いてまで教えてもらっている。その上、ルーカスにも自分から彼女を推したのだ。「やっぱり無理でしたごめんなさい」などと言いたくない。
本音を言えば昼間、騎士の訓練でくたくたになったあとのこれはかなりキツい。
それでもたった2日、夜会の日を含めれば3日だ。それだけ耐えればこのスパルタレッスンも終わる、と思っていたのだが──。
「姿勢の練習はひとまず、よろしいですわ」
そうイレーニアに言われたのは、2日目の夜、一度頭に壺を乗せて歩いた後だった。
(ぃやっ………たー!!! もう壺を乗せなくて済む!)
踊り出したい気分だったが、正直そんなことできそうな気がしない。並の女性より鍛えてるといえ、訓練の後に壺は効く。壺をそっと机の上に置くとふぅ、と息をついた。
「い、いいんですか?」
「ええ、覚えることは姿勢だけではございませんのよ? 歩き方、お辞儀、笑顔、その3点。貴族の妻となるならそれに加えて流行やダンス、マナー、時事……身につけるべきことはたくさんございますわ。その中の最低限の3点。やることが絞られているとは言え、お嬢様が3日でそれらを完璧に身につけられるとはこちらも周りも思ってませんわ」
イレーニアはひと息にそう言うと、ツーンとそっぽを向いてしまった。
彼女はずっとこんな感じだ。教えるのは丁寧だが、言葉にトゲがある。
お嬢様と呼ばれるのも、平民に対しての皮肉らしい。領地に帰る前、ルーカスが上機嫌でわざわざ教えてくれた。
イレーニア以外のメイドにも呼ばれるので、おそらく使用人のほとんどはアルティーティを歓迎していないのだろう。
やっと婚約したと思った三男坊が連れてきたのが平民の『魔女の形見』では、こうなるのも当然だった。
(うーん……ご当主様は「仕える対象だと認められたら名前で呼んでくれると思うよ」って言ってくれたけど……)
彼女の横顔で、それはかなり大変なことだとわかる。
別に使用人や行儀見習いに認められる必要はない。結婚後も、アルティーティは屋敷にいなくいていいことになっている。一生お嬢様と呼ばれても差し支えはない。その程度の扱い、ストリウム家の中で受けたものと比べればへっちゃらだ。
だが、今のようにやはりやりにくい部分もある。相手が美人だからか、そっけなくされると悲しさが倍増する。仲良しにはならなくてもいいが、せめて普通に会話したい。
「……早急に直すべきは表情ですわね」
気づけばイレーニアがじっとりとこちらを見つめていた。
その表情、と彼女が言う意味がわからず、アルティーティは首をかしげて見せる。
「それですわ。その『よくわからないけどとりあえず笑っておこう』みたいな表情! 自分はこの程度の話もわかりません、と大声で言っているのと同じですわ!」
ビシッと指をさしてくるイレーニアに、アルティーティははじめて自分が笑っていたことに気づいた。そしてその笑みの意味すら見透かされている。
見透かされている、といえばカミルによくわかりやすいと苦笑されていた。思ったことが口から出てしまうからだと思っていたが、まさか表情に出ているなんて。
「たしかに、微笑みは大事ですわ。自信に満ち溢れた笑みは、相手に隙を与え、勝手に想像を掻き立ててくださいますもの。物事を曖昧にするのにも効果的ですわ。ですが相手に媚びる笑い方は逆効果。侮られ、付け入られる隙にしかなりませんわ!」
「は、はぁ……」
あまりの勢いに頬が引きつる。するとイレーニアの細い眉根がぐっと寄った。彼女の両手がアルティーティに伸び──なぜか頬をつままれる。
「それ! それですわ今もダメダメですわ! 分からない時こそなんとなく、ではなく自信を持って口角を上げなくてはなりません! 横でなくて上! できたら目元も! 当日は前髪も上げますわよ!」
「ふぇ!?」
アルティーティはなされるがままに頬を上下させられながら、変な驚きの声を上げた。
彼女の言う通り、笑顔を作るなら口元だけでは胡散臭い。目も笑っててはじめて説得力が出るだろう。
しかし言わずもがな、分厚く長い前髪は『魔女の形見』の特徴のひとつ、ワインレッドの瞳を隠すために伸ばしている。周囲の嫌悪と好奇の目から逃れるためにしていることだ。
好きでしてることではないが、かといってそれをすぐに捨てられるほどの度胸はない。迫害、虐待、追放が待っていると言われたら、誰しも足をすくませるだろう。
『魔女の形見』だと知られていいことなどひとつもない。夜会の間、黙って歩いて微笑んでいればいいと言われても、針のむしろにされるのは御免だ。
それを捨ててまで笑顔にこだわる必要があるのか。いや、笑顔のために捨てるのか。
頬をむにむにしながら、眉をひそめるアルティーティをイレーニアは軽く睨む。
「相手は改革派の枢機卿ですもの。滅多にない『魔女の形見』と貴族の結婚を推薦する、なんて派閥拡大の恰好の足がかり。その上、リブラック家にも恩が売れますわ。ならばパウマ卿がお嬢様に求めることは、ただひとつ。誰から見ても『魔女の形見』とわかるようにすること。それが推薦の条件でしょう。でなければ出どころもわからない平民と名門貴族との婚約なんて、誰も推薦しませんわ。そんなこともわからなくて?」
「ふ、ふいあえん……」
すみません、と言ったつもりが頬を引っ張られているせいでなんとも気の抜けた声になってしまった。
イレーニアもそれに気づいたのか、それとも満足したのか、頬から手を離すと顔を逸らした。怒っているような横顔だが、なぜだろう。チラチラと視線を感じる。
(やっぱり……この人、本当は優しい人なんじゃないかな?)
頬をさすりながらアルティーティはイレーニアを見上げた。
口調はきつい。態度も高飛車で、印象は良くない。周りから敬遠される性格だろう。
しかし言ってることはまともだ。今だって、アルティーティが気づかなかったことを言ってくれている。思えば、出会った時からそうだった。
家庭教師に推したのは、ほかに誰もいなかったのもある。だが彼女は「そんなこともわからないのか?」と言いつつちゃんと教えてくれる。
『魔女の形見』の女に親切にしようとする人間は少ない。いたとして変人か悪人だ。
大抵は関わり合おうとしないか、石を投げるかだ。もしくは教えてあげると言いながら間違いを言ったり、やっぱりやめたと手のひらを返される。
アルティーティの師匠は変人だった。寡黙ながら生きる術を教えてくれた。イレーニアにも同じものを感じる。
ジークフリートは──正直良くわからない。変人とは言い難いし、悪人とは思いたくない。時に見せる微笑みが、優しさが、本心からなのか判別がつかない。
考えてもわからないので保留だ。むしろ考えたくない。あの心臓に悪い微笑みを思い出したら、平常心でいられる気がしないからだ。
イレーニアは確実に優しい。しかしダリアの様子を思い返すと、周りから誤解されているようだ。本人がそれを気にしてる様子はないが、本心はわからない。
外見のおかげで虐待され、忌み嫌われたアルティーティは今でこそイレーニアのキツイ物言いを受け流せるが、それはもっと辛いことがあったからだ。かといって、イレーニアのキツイ言葉の全てを受け流せるわけでもない。時に胸をえぐられる。
アルティーティでさえこうなのだ。普通の人間ならイレーニアに怒りを覚え、疎ましく思うだろう。
そういえば、彼女と出会った時から今の今まで、他のメイドとまともに会話してる様子がない。行儀見習いと普通に雇われたメイドは違うのかもしれないが、流石に会話ひとつないのは違和感がある。
(もしかしてあまり友達がいない? もったいないなーこんなに美人なのに)
この外見で人当たりが良ければ、きっと男女問わず大人気になっていただろう。本当にもったいない。
……などと思っていたのが伝わったのか、そっぽを向いていたはずのイレーニアがいつの間にかこちらを見ている。
高圧的な視線。その片手には壺。
まずい。なんかお仕置きされそう。壺が鞭に見える。
「あ、あの! そ、そもそもなんですけど……慈聖教ってどんな宗教なんでしょうか? 枢機卿が偉い人なのは、わかる、んですが……」
鞭で打たれる──もとい、壺を乗せられると思い、慌てて発した質問が、さらにイレーニアの視線を厳しくさせる。
「あ、その、わたし、こんな身なりなので周りの人もあまり慈聖教についてちゃんと教えてくれなかったというか……『魔女の形見』は教会も出禁ですし、経典なんかも貸してもらえなくて……」
あれこれと言っては見るものの、彼女の視線は険しい。
それもそのはず、この国で慈聖教のことを知らない者はいない。幼い頃から外界から隔絶されたアルティーティには知る術はなかった。
共に旅した師匠でさえ、慈聖教だけは教えてくれなかった。一度尋ねた時に微妙な顔をされたのを覚えている。それ以来聞くことはなかった。流浪の旅が長すぎて知らなかったのかもしれない。そう納得させた。
平民に信者が多いとされる慈聖教すら知らない平民。これほど胡散臭いものはない。
「……なんでこんな無知な平民がジークフリート様の…………」
イレーニアのつぶやきが断片的に聞こえてくる。
ジークフリートならばきっと、もっと博識で知的で品性のある女性が似合う。アルティーティ自身もそれは認める。貧相な『魔女の形見』の自分では不釣り合いだと。
わかっていても、それを言われると胸が痛い。
「……まぁ、いいでしょう。休憩がてらお話しいたしますわ。相手が枢機卿なら知っておいて損はございませんし。ワタクシも信徒ではないのでパウマ枢機卿については詳しくは存じませんが」
「そうなんですか?」
「ええ」
短く答えたイレーニアは、壺を机に置いた。ごとり、と重そうな音がする。令嬢が片手で持つような代物ではない。
「それで、どの程度ご存じですの?」
アルティーティは、知っている限りのことを話した。
といっても、聖女が厄災の魔女を討ったことや、その聖女が慈聖教の信仰の対象となっていることくらいしか知らない。
喋り切った後の沈黙で、イレーニアが「それだけ?」と言いたげに目を瞬いたのが見えた。
「……まぁ、そうですわね。大筋は間違ってません。聖女に関して多少付け加えるとするなら……」
彼女は昔話を語るように、目を瞑った。
聖女は天候を操ったらしい。
本当かどうかはわからないが、彼女が祈れば雲は消え晴れ間が差し、踊ればたちまち雨雲が生まれ大地を濡らしたという。
聖女のおかげで、国民は水不足や食糧不足に悩まされることがなかった。
国を繁栄させる能力を持つ少女。国民にその能力を惜しみなく使う慈愛に満ちた少女。それが聖女たる所以だった。
それに対して、突如現れた災厄の魔女はあらゆる災害を起こし、多くの国を滅亡させた。この国も例外なく攻め込まれ、強大な力の前にあっけなく滅んでしまう。
しかし聖女は、王族の中でひとり生き残ったエルディールが指揮した騎士団と共に魔女を討った。聖女は戦いで命を落としたが、エルディールは助かり、国を復興させた。
彼女の恩に報いるよう、王は騎士団に彼女の名前をつけた──。
「この騎士団がアーディル騎士団。ジークフリート様が所属する騎士団のことですわ」
「そ、そうだったんですか……そんなに歴史が」
「ワタクシから言わせれば、歴史というよりはおとぎ話ですわね」
信徒ではない、との前置き通り、身もふたもないことを言うイレーニアに思わず閉口する。
士官学校の授業のおかげで騎士団が聖女の名を冠するのは知っていたが、その経緯までは知らなかった。
いや、習ったのかもしれないが覚えていない。実技は弓のみ、座学はからっきしだったのだ。よくそんな歴史ある騎士団に採用されたな、とアルティーティは内心苦笑いを浮かべた。
「近衛騎士団は採用に王族や貴族の意向が強く出ますが、アーディル騎士団の方は実力主義……身分に関係なく優秀な方が選ばれる、と父から聞いたことがありますわ。初代国王がそのように定めたようですわね」
「同期も先輩方も平民の方が多かったのはそのせいだったんですね……」
「? 同期? 先輩? 何の話ですの?」
「い!? いえ、こちらの話です……っ!」
危ない。うっかり口を滑らせた。騎士団の話はどうも警戒心が薄れる。
「そ、それはそうとっ、す、枢機卿ってどんな方がなるんですか? 騎士団と同じ実力……あ、でも宗教の実力っていうのも変ですね……なにか選ばれる基準があるとか?」
「枢機卿は慈聖教内でも地位が高く、信仰心の厚い方が選ばれるそうですわ」
「やっぱり貴族が多いんでしょうか?」
「いえ。たしかに枢機卿を冠する貴族は多いですが、平民でもいますわ。長らく司教を務めた者や大商人、豪農、土豪……そのあたりの社会的地位が比較的高い方も選ばれるみたいですわね」
「もしかして何人もいるんですか?」
「ワタクシも詳しくは知りませんが、20人くらいいると幼い頃に聞きましたわ」
「に、にじゅう……そんなにいてなにをするんでしょうか?」
「一般的によく知られている一番大きな仕事は、教皇を決めることですわ。枢機卿会議で候補者を絞り、最終的に多数決で教皇を決めますの。それ以外に何をしてるのかはワタクシも存じ上げませんわ。枢機卿と言っても兼業……他に仕事を持つ方ばかりらしいですし」
上品に肩をすくめるイレーニアは、一瞬机の上に視線を向け、再びアルティーティを見つめた。
「まだ質問はございますか? なければ続きを……」
「あ! え、えーと……せ、聖女様もよく魔女に立ち向かおうなんて思いましたよね」
「……それに関しては諸説ございますわ。なんらかの逆恨みで魔女が攻撃してきた説や、全くの偶然という説もございますが、聖女の能力を奪いにきたのではないかという説が有力ですわね。いずれの説も戦いに巻き込まれたという見解ですわ」
「能力なんて奪えるんでしょうか?」
「さあ。ワタクシ、魔法に関しては専門外なので存じ上げませんわ。ジークフリート様ならご存じだと思いますがお聞きになられたらいかが?」
婚約されるおつもりなら簡単に聞けますよね?
言外にそう言われた気がする。
たしかに婚約者には挙げられてるが、厳密にはそうではないというかなんというか。
(でも普通に聞いたら教えてくれそう。魔法なら戦いに関わる分野でもあるし。……あれ? でも天気を操る能力って魔法なのかな……? 聞いたことないけど……)
風魔法は見たことがある。ジークフリートも使える魔法だ。雲を風で飛ばして快晴にしたり、水魔法で地面を濡らすことはできそうだが、雨雲を呼んで天から雨を降らすのは魔法でできるのだろうか。
考えてもわからない。それも聖女と呼ばれ崇められる所以なのだろう。
「さ、休憩はもういいでしょう。続きをいたしますわ。先ほどの壺を持ってカーテシーの姿勢維持の練習をいたしましょう」
「え。また壺……」
「ゆっくりしてる時間はございませんの。ビシバシいかせていただきますわ」
そう言って手をパンパンと叩くイレーニアに、アルティーティは思った。
当日絶対筋肉痛だ、と。
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