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2章

66.絶対に得られない宝物

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ルーカス視点




◇◇◇


 幼い頃からルーカスは家族が好きだった。

 とりわけふたつ下の弟、ジークフリートのことは大好きだった。

 純粋でまっすぐな彼は、少しややこしい性格のルーカスにとってからかいがいもあり、かわいらしくもあった。

「ジーくん、それなぁにぃ~?」
「ルーにいさま、これはどらごんです!」
「え? ネコじゃないの?」

 まっさらな紙に描かれたそれは、とてもドラゴンなどという恐ろしく強い生き物には見えない。せいぜいネコだ。

「どらごんです!」
「イヌとか?」
「どらごん!」
「うーん、クマかな?」

 こんなふうにわざと間違うと、幼いジークフリートは柔らかそうな頬を膨らませてこう言うのだ。

「どらごんです! どらごんなのです!」

 その必死さがかわいくて、いつもつい吹き出してしまう。

「そっかぁ~、ドラゴンなのかぁ~。ジーくんは絵がじょうずだなぁ~」

 最後にはこうやってルーカスが折れて終わる。その繰り返しだ。分かっていてもやめられない。

 頭を撫でると、ルビーのような瞳がぱっと明るく輝く。
 少し達観したところのある幼いルーカスにとってそれは、手を伸ばしても絶対に得られない宝物のようだった。




◇◇◇





「どういうことかなぁ~?」

 アルティーティに笑顔で問いながら、ルーカスは内心驚いていた。

(ただの面倒な少女だと思っていたんだけどなぁ)

 幼少期の彼女を知る人物を探し出し、その印象を聞いたときも同じ感想を持った。ストリウム家から逃げ出してからのことはさすがにわからなかったが、きっと保護してくれた人間がいるのだろう。

 そして今日、口ごもるジークフリートを見て確信を持った。

 自分で身を守る術を身につけず、ずっと守られて生きてきた少女。それがアルティーティ・ストリウムという人だ、と。

 ルーカスの経験上、そうやって生きてきた人間は自分に甘い。守られて当然だと思い込み、守ってくれる他人を見つけたら逃がさない。絶対に自分は矢面に立たない。

 それだけならまだしも、守ってくれる人間を甘やかす。自分から離れて行かないようにするためだ。

 弟は厄介な少女に捕まってしまった。そうでなくても彼女と弟は因縁がある。弟が執着せざるを得ないほどの因縁が。

 その執着のおかげで、ジークフリートは今まで努力し続けられた。彼らしさを失ってまで鍛錬を続ける彼を、複雑な思いで見守るしかできなかった。

 本音を言えば止めたかった。キラキラとした瞳がくすんでいくのを。しかし止められなかった。

 死に物狂いで体を虐め抜くジークフリートを止めてしまえば、文字通り死んでしまいそうだったから。彼の今日があるのは、執着がなせる技だったとルーカスは思う。

 だがその執着が利用されるなら、話は別だ。

 彼女が自分のためにジークフリートを甘え甘やかせ、蜘蛛の巣のように彼を捕らえるならばそれは違う。

 聞いていた馴れ初めの割に、ふたりがぎこちなく見えるのも、そんな歪な関係が影響しているからに違いない。

 弟はお前のために生きてきたのではない。

 それを突きつけるためのテストと言っても過言ではない。

 お前はジークフリートに相応しくない。

 自分でそれを悟ってくれるならいい。悟れなくても、ルーカスが認めないと言えば弟や家を守れる。当主なのだから。

 だが目の前の少女は思っていた人物と違うようだ。

 家庭教師がいないと言えば、行儀見習いの貴族令嬢を駆り出そうとする。その上、虫害の対処まで知っていると豪語する。

 少なくともルーカスには、守られるだけの少女には見えない。むしろ剣一本で切り込んで来そうな気風さえうかがえる。

 これで興味が湧かない、と言ったら嘘になる。

 彼女の真価を見極めようと、ルーカスは細い目で注意深く彼女を見つめた。

「あ、あの、ジュカという植物はご存知ですか?」

 ジークフリートからも目で促され、アルティーティは説明を始めた。

 ジュカは王国内に広く分布する生命力の強い植物、いわば雑草だ。
 茎に水分を多くため込むため、手持ちの水分が尽きた冒険者が緊急避難的にそれを飲むとか。

 なぜ緊急避難かというと、泥水のような味で、飲んだ者は一日中眠れないほどの不味さだかららしい。泥水もジュカの茎水も、飲んだことはないのでわからないが。

 時折苦い顔をするアルティーティの口ぶりから、彼女はその味を知っているようだ。ジークフリートもなぜか遠い目をしている。

「……なるほどぉ~、ジュカのエキスがクサクムシには効くと」
「はい、作物にも上から霧吹きで吹きかければクサクムシは寄ってきませんし、既にやられてしまった作物も、エキスを混ぜた水で水やりをすれば数日で元に戻ると思います」

 ええと、と彼女はメイドを呼びつけ、古ぼけた鞄を持ってきてもらうと透明の液体が入る小瓶を取り出した。

「わたしが今持ち合わせてる虫除けはこれしかないのですが、この量でも丸一日はもちます。必要であれば取りに戻ります。寮にある分と、明日の朝までずっと作り続ければ多分、ふた月はもつんじゃないかと」
「フム……」

 ふた月。思ったより長い。

 それだけあれば駆除の手も追いつく。なにより、臭汁に汚染されたイチゴの株が復活する。これ以上にない、夢のような虫除けだ。

(本当にそんな虫除けがあれば、だけど)

 ルーカスはアルティーティから小瓶を受け取ると、書記官に手渡した。

 ジークフリートたちには言わなかったが、わざわざ顔合わせに王都を選んだのも、王都ならばクサクムシの専門家や、それに近い人間がいると踏んだからだ。少しでも何かの手がかりになれば、とちょうどクサクムシを何匹か捕まえてきていた。

 花瓶から一本、バラを引き抜き彼女の言う虫除けを吹きかける。見た目は朝露に濡れた赤いバラだ。見た目も匂いも変化はない。

 それをクサクムシの虫かごに入れさせる。昨日捕まえさせたものだ。腹を空かせたクサクムシたちは、バラに群がろうとして──一目散に方々へ散った。できるだけ距離を取ろうとしてるのか、虫かごのすみでじっと息を殺している。

 これは本物だ。少なくとも、虫除け効果については。

 彼女の言う作物を復活させる効果も真実味を帯びる。一応、領地で実験させないことには確信は得られないが、ダメだったとしても虫害を食い止められる希望が見えてきた。

 しかし──。

「すごいねぇ~、それでこれ、今出してくれたってことは売ってくれるってことでいい?」

 ルーカスは感情を悟られまいと、糸ほどに目を細めた。

 この虫除けのおかげで領地の危機は回避できるだろう。しかしそれと婚約は別だ。この件に絡めて、婚約ついでに変な注文をつけられても困る。

 困るが、礼はせねばならない。
 
 ならば一番分かりやすく後腐れがないのは金だ。先に報酬の話をしたのは、金以外での礼を断つためだった。

(さて、どれほどふっかけられるかな? 金貨100枚、いや、動産とは限らないか。別荘地の2、3軒でも要求してくるかな?)

 どれほど要求されようがある程度は飲もう、と内心身構えていると、

「え?! 売る? いいですよ、そんな誰でも作れるものですし……」

 アルティーティは全力で首を横に振った。

(…………んー?……)

「タダでくれるってこと?」
「はい、すぐ作れますし、さっき作り方もお伝えしたのでそちらも領地の方に知らせていただいて結構ですよ? あ、分かりにくい部分もあるかと思うので、あとで紙に書いてお渡ししますね」

 冗談で言ったのだが、アルティーティは真顔で返してくる。

 専門家がいない虫の対処法などという、金になる知識を無償で提供するというのか。なぜ。

 喉元まで出かかった言葉を笑顔で飲み込む。

(……そうか、そういうことねぇ~)

「領地に連絡を。至急でねぇ~」
「ハッ!」

 ルーカスはアルティーティから目をそらさず、書記官に指示を出した。慌てて出ていく書記官すら見送らずに。

 普段ならばこんな親切でありがたい話など受けない。必ず裏があると穿って考える。相手が損得勘定を持つ貴族や商人ならばなおのこと。当主とはそういう慎重さが求められる。

 何か裏があるに違いない。彼女が善意だとしても、その裏にいる人間は違うかもしれない。他人とはそういうものだと、ルーカスは嫌と言うほど知っている。

 悲しいかな、それが当主だ。

 だが目の前の少女はそういう範疇にない。

 そこに利己的な意地汚さはなく、研いだばかりの剣のように澱みなく澄んだ空気感がある。嘘をついてるようには見えない。

 それどころか自分の持つ在庫を全部差し出さんばかりの言いようだ。

 ジークフリートに「虫除け作ってたから夜寝てなかったのか」と呆れられてる。呆れながらも、何やら言い訳をする彼女に困ったように微笑んでいた。

 くすんでしまったと思った弟の瞳が、彼女を見るときだけは温度を取り戻しているように見える。眩しい宝石だと思っていた、あの瞳が。

(……なるほど、我が弟よ。守らなきゃ、ね。これは危なっかしいお嬢さんだ)

 清廉潔白。そんな言葉が浮かんだ。

 人はどこか汚く後ろ暗い感情を持ち合わせている。ルーカスがかわいがっているジークフリートですらそうだ。そしてそういう人間にとって、純粋なものが羨ましく、恋しい。

 だからこそ、清く正しくを真顔で実践できる人間は周りを魅了する。

 ジークフリートも、きっとただ執着しているだけではない。少なからず好意もあるだろうことは、今見ればわかる。

 目を離したいのに離せない。警戒心の強いルーカスでさえ、興味を持つほどに。

 そういう意味では、彼女は目立つ。

 目立つからこそ、清く白い行動をする者は他人に利用されやすい。どんな行動を取るか予想しやすいためだ。

 清廉潔白な人間であっても、自分は疑わなければならない。その裏に誰がいるならば、思惑を薄くとも感じ取らなければならない。

 悲しいかな。

「すごいねぇ~こんなところにクサクムシの専門家がいるなんて、私はラッキーだったよぉ~。さすがジークフリート、女性の見る目があるねぇ~」

 貼り付けた笑顔をふたりに向ける。それだけでも少し空気が緩む。

 いつものことだ。大袈裟に拍手をしながら道化を演じる。相手が油断してくれればそれでいい。その隙をついて懐に潜り込めればいいのだ。

「……にしても、そんな知識どこで身に付けたのかな?」

 笑顔を崩さず聞くと、緩みかけたアルティーティの表情が困惑に染まった。

 専門家はいない。研究している者もいるかもしれないが、過去、クサクムシの大量発生などルーカスの知る限りなかった。
 そんな状況で、彼女は必要な知識を当主に持ち込んだ。それも無償で。普通に考えて怪しさ満点だ。

 しかし、どんな言い訳を聞かせてくれるのか。それが楽しみな部分もある。

 貼り付けた笑みの半分は自然な笑いだということに、ルーカスは少し戸惑いつつもワクワクしていた。

「………………本、です」

 長い沈黙の後、アルティーティはゆっくりと答えた。

「本」
「そうです、なんの本かは忘れましたがとにかく本です!」

 拳を握って力説する彼女の言葉に、一瞬呆けてしまった。

 まさかの強行突破。専門家がいないなら、詳しく載っている本など無いに等しいのに。

 思わず盛大に吹き出すとアルティーティも、ジークフリートですら怪訝な表情でこちらを見つめてきた。しかし止まらない。涙が滲むほどに笑いが込み上げてくる。

 戸惑う彼らの姿がさらに笑いを誘う。

 こんなに笑うのはいつぶりだろうか。

 今の彼女と幼い頃のジークフリートがそっくりだった、なんて言ったらふたりはどんな顔をするのだろう。

 そんなことを思いながら、ルーカスはアルティーティに密かに課した課題のことなど忘れてしまうくらいケラケラと笑った。
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