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2章

49.そうだといいんだけど

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「そこの男! 名前は! 身分は!?」

 飼い葉まみれのマカセは、わなわなと震えたかと思いきや、アルティーティに詰め寄った──ただし、黒馬からは距離をとって。

「え? ボ、ボク……?」
「そうだ早く言え! 伯爵家嫡男の僕の命令だ!」

 喚き立てるマカセの細い目は吊り上がり、羨望と憎悪、そして高圧的な怒りが宿っている。

 鈍感なアルティーティであっても、自身に向けられたそれらには痛いほど覚えがある。

 もっとも、過去彼女に向けられた感情はマカセの比ではない。恐ろしさで縮こまることも、早く終われと心を無にして祈ることも今はない。

 大丈夫だ、耐えられる。

 だが、他人に感情をぶつけられるのは気持ちのいいことではない。

 アルティーティは馬上からマカセを見下ろした。

「……名前はアルト。平民だけど……?」
「平民……だと……!? その黒馬は僕のだ! お前ごときが乗っていいものじゃない! どけ!」

 平民、の一言にさらに激昂したマカセは、黒馬の前に回り込む。性懲りも無く手綱を奪い取るつもりだ。

 黒馬は嫌がるように首を逸らし、抵抗する。背中に乗ったアルティーティも、急な動きにバランスを崩しかけた。

「え、ちょ、やめて」
「降りろって言ってるんだ! 早くしろ!」

 蹴りが怖いのか、手綱を取ろうにもうまくいかない。マカセは、苛立ちを募らせる。

 「やめろよ!」とヴィクターやテーアが間に入ってくれているが、聞こえていないのか止まらない。アルティーティは揺れる馬体に必死になってしがみついた。

 その時。

「いい加減にしないか!」

 ジークフリートの厳しく、低い声が飛んだ。

 その声にマカセはおろか、ヴィクターや他の馬たちもぴたり、と動きを止める。その隙に、黒馬はマカセから距離をとった。

 もう手の届かない位置にいるというのに、黒馬は落ち着きなく首を振っている。よほど怖かったのだろう。

 アルティーティは早く落ち着けるよう、優しく撫で続けた。

「誰だお前は! この僕に命令するのか…………って!? ジークフリート様!?」

 邪魔してきた相手がジークフリートだと認識するや否や、マカセは駆け寄り土下座をする勢いで膝をつく。

「ま、まさかこの場にあのご高名なジークフリート様がいらっしゃられるとは……いやはや、お見苦しいものをお見せしました」

 マカセは猫撫で声と取ってつけたような作り笑いで、媚びるように頭を下げている。
 テーアやアルティーティに見せていた態度とはえらい変わりようだ。さすがにこれにはいい気はしない。

 ジークフリートも同じなのか、マカセに対し冷たい視線を送っている。

 ひりついたような威圧感が、じわりと彼の周りに漂っている。アルティーティは思わず鞍を掴んだ。

「先ほどから見ていれば、厩舎係への暴言暴行に黒馬の強奪……誇り高き騎士としてあるまじき行為ではないか? どこの所属だ? 見たところ近衛騎士団のようだが」

 怒気を孕んだジークフリートの言葉に、マカセは慌てて首を振った。

「い、いえ、わ、わたくしめはそんな、名乗るほどでは! 平民の口のききかたを教えていただけでして……!」
「マカセ・ニッツェ。15歳。近衛騎士団第九部隊の新人っすよ。ついでに、ニッツェ伯爵家の嫡男らしいっす」
「ヴィ……ヴィクター君…………!」

 同い年。だがとても仲良くはなれなさそうだ。

 間髪入れず答えたヴィクターに、不健康そうなマカセの顔がさらに青くなる。

「なんだよ。覚えてること言って悪いかよ? オメェがオレに会うたんびに言ってただろ? 所属も決まった時に言いふらしてただろ? オレらの代でオメェの所属くらいソラで言えねぇやつなんていねぇよ」

(ヴィクターごめん、言えないやつここにいます)

 心の中で小さく手を挙げる。アルティーティのいた弓専攻は彼女ひとりで、先輩も後輩もいない。同期もいないので噂に疎くても仕方がない部分はあった。

 ジークフリートはため息をひとつつくと、腕組みをした。

「よりにもよって第九か……まぁいい。九部隊長にこの件は報告する」
「そ、そんな……! で、でもその黒馬は最初にわたくしめが目をつけたものです……! それをそこの黒髪の男が横取りしたのです!」
「横取りって、ボクは選ばれちゃっただけなんだけど……」

 指をさされたので一応、小声ながらも抗議する。

 どういう基準で黒馬が選んだのか分からないが、選ばれてしまったものは仕方がない。乗り心地もいいし、もう手放す気は毛頭ない。

 だが変にマカセを刺激すればまた黒馬を強奪しようとするだろう。黒馬が可哀想だ。

 控えめなアルティーティに、マカセは声を張り上げて反論した。

「違います! ジークフリート様、信じてください! さっき蹴られたのだってなにかの間違いです! 僕が最初にこの馬を選んだんだ!!」

 話が噛み合わない。どうもマカセは、自分が馬を選ぶものだと勘違いしているらしい。

 アルティーティたちもつい先ほど聞いたばかりだが、近衛騎士団では教えてもらえてないのかもしれない。

 それとも、自分が選ばれないわけがないと思っているのだろうか。

 だとしたら今まで全てが自分の思い通りになる人生を歩んできたのだろう。失敗など一度もしたことがない。でなければ、もう少し他人の言うことを聞く気がする。

「……何を言っても無駄だな。アルト、降りろ」

 ジークフリートは口での説得を諦めたようだ。

「え、でも……」
「大丈夫だ。黒馬そいつは裏切らない」

 意味ありげに口端を上げる彼の言葉に、迷いを見せたアルティーティは視線をめぐらせた。

 確信がある口ぶりだ。それに彼が今まで嘘を言ってきたことはあっただろうか。悪いようにはならないはず。

 アルティーティは黒馬を信じろ、というジークフリートの言葉を信じてうなずいた。

「……わかりました」
「ふん! 分かればいいんだ分かれば。ついでに身分差もわきまえろ!」

 降りるや否や、マカセは罵声を浴びせてくる。

 ジークフリートやその家族と比べると、どうもマカセの態度が異常に見えてしまう。
 しかし貴族の中には彼のように選民思想が強い者もいる。そのことを忘れていた。

 そして彼らは、強烈に序列にこだわるということも。

「さすがはジークフリート様、ありがとうございます。やはり同じ貴族、誰が黒馬に相応しいかお分かりになられるのですね」

 揉み手をしながら気持ち悪い笑みを浮かべるマカセを、ジークフリートは険しい表情で一瞥した。

「……なら同じ貴族の息子として忠告するが、黒馬は主人と認めた人間しか乗せない」
「ですから、わたくしめが主人でございます」

 少し苛立ちを含ませ、マカセは答える。何度も言わせるな、と言いたいところを抑えているように聞こえた。

 ジークフリートは目を細め、マカセを見据えた。

「ほう、なら今すぐ乗ってみせろ。主人ならば容易いだろう」
「いいですとも! わたくしめが華麗に乗りこなすところをご覧にいれましょう」

 マカセは嬉々として黒馬のそばに近寄った。黒馬が自分のものになった喜びで頭がいっぱいなのだろう。

 アルティーティに振り返ると、ビシッと人差し指を突き出した。

「そこの平民もよく見ておけ! 僕を差し置いて黒馬に乗ったこと、後悔させてやへぶしっ!?」

 口上はまたも途中で遮られ、マカセは指を指した体勢のまま綺麗に飛んだ。

 蹴飛ばしたのは、もちろん黒馬だ。

「……さっきより飛んだね……」
「ここまでくると黒馬こえぇよ……」
「まぁ、いい薬にはなるだろう」

 目を回しているマカセに呆れた視線を向けつつも、アルティーティたちは口々に感想を漏らした。

 今度も飼い葉の方に蹴飛ばしたのも、黒馬なりのなけなしの温情なのかもしれない。

 当の本人──黒馬は先ほどよりも誇らしげだ。褒めて欲しそうにアルティーティを見ている。

 ここは褒めるべきか。

 グッジョブ、とひっそり親指を立てると、黒馬は満足そうにいなないた。

「……おのれ……!」

 マカセの怨叉に満ちた低い声が聞こえる。

 さっきより復活が早い。ヴィクターも言っていたが、さすが騎士。馬に蹴られたくらいではびくともしない。

「おのれおのれおのれ……っ!」

 立ち上がったマカセは、より憎しみのこもった視線をアルティーティにぶつけた。

 もはや最初にヴィクターと睨み合っていたことなどすっかり忘れてしまったようだ。

 アルティーティただひとりを睨みつけている。

「貴様! アルトとか言ったな! 覚えておけよ! 黒馬は僕のものだからな!!」

 身体中についた飼い葉を撒き散らしながら、マカセは走り去っていった。

「あーなんか嫌だなぁ……」
「近衛騎士団とは寮も違うし、あいつとはもう会わねーよ。気にすんな」

(そうだといいんだけど)

 楽観的なヴィクターの隣で、アルティーティは肩をすくめた。
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